感謝の気持ちがあれば、記憶術を知りたい(その一)(その二)
パティパダー2008年10月号(134)
・感謝の気持ちがあれば
・記憶術を知りたい(その一)(その二)
キリスト教の人は食事のとき神に祈って、また、日本人は手を合わせて食べられてくれる生き物たちに感謝すると言います。実行不可能な「生き物を殺さない」ことに頑張るよりは、そのように「(殺したものを)感謝して食べる」ようにする方が尊いし、実践出来る習慣ではないでしょうか?
「感謝して食べる」というのは、偽善行為じゃないですかね。簡単に言えば、「感謝すれば殺してもいい」ということでしょう。では、親も感謝して殺すのでしょうか? 学校の先生も、勉強中にいろいろムカつくこと言ったから、卒業した時点で感謝して殺そうとかね。
感謝して罪を犯すということは、どういう生き方でしょう。罪を犯すならば、なぜ感謝するのですか? 犯した罪に「間違いを犯しました。私が悪かった」と懺悔する時点で、自分の過ちを認めることになるのです。それを「感謝して過ちを犯しなさい」というのは、どんな頭で理解しているのでしょうか。
そんな変な教えを説くのが「宗教」だというのなら、野蛮人に教えた方がいいですよ。知識のある文化人に向かって、そんな屁理屈を言うものじゃない。そういう屁理屈を言いふらすからこそ、人間がおかしくなっているのです。「人を殺してなぜ悪いのか」というような疑問が出てくるのは、世の中でそういう屁理屈を言いふらしているからでしょうに。もしそんな屁理屈が世の中で通じたならば、みんな平気で、互いに殺しあいをするようになるでしょう。それでいいのですか?
ならばどうして、「平和、平和」とくだらないことを言うのですかね。「戦争こそ正しい」と言えばいいでしょうに。「互いに殺し合うことこそ正しい」と言えばいいでしょうに。仏教に文句言うよりは、自分の足元を見たらどうですかね。自分の愚かさを仏教のせいにしようとしても、そう簡単ではないですよ。真理は真理ですからね。
感謝して殺生するキリスト教は、世界中に戦争を拡げています。イラクを攻撃したアメリカの兵隊さんには、兵士兼業の牧師さんも同行しているのです。部隊の兵隊に向かって「この殺人は正しい」と平気で言っている。しかし、殺すべき人間がいるならば神が勝手に殺せばいいでしょうに。なんで自分の手を染めるのですかね。神が出てきて、「お前に頼むから、あの人を殺してくれ」と頼んだのでしょうか。神とはそこまで力もない存在ですかね。しかし「神は全知全能にして万能である」と言っている。万能の神につくられたならば、神の気に入らない連中は、神がすぐ殺すでしょうに。神が放っておくのなら、なぜ被造物である人間はそれを放っておかないのですかね。結局、自分自身の教えにさえ逆らって、屁理屈で信仰しているでしょうに。
食べるときに感謝するということは、私はすごくありがたいことだと思っています。その時は、子供だったら親に感謝してほしいのです。「お父さんありがとうございます、お母さんありがとうございます、ほんとうにおいしいです」と。ご飯をつくってくれたのは、その二人だから。子供がそうやって感謝してくれたひと言を聞いたら、その二人は仕事の苦しみも、家事の苦しみも、パッと消えちゃうでしょうに。そのおかげで、この家族はどれだけ幸せになると思いますか。そのほうがより具体的で科学的でしょうに。
どうして、賞味期限が切れていてもいいから、パン一枚さえもくれない神様に感謝するのですか? 仏教では、人間は自分の業で生きていると言っているのです。自分が食べるパン一枚は、自分が過去世で、あるいは現世で善いことをしたから、その結果でもらうものですよ。だったらご飯をくれた人に感謝すればいい。仏教の世界では、屁理屈や観念的なことは言わないのです。すぐに矛盾がばれますからね。
本を読んだり人の話を聞いたりしても、すぐ忘れてしまって頭に入りません。一度読んだり聞いたりしたら忘れない方法ありますか?
そういう方法はありません。この質問では、人間が決してやってはいけない、危険なことを訊いているのです。「本を読んだり、人の話を聞いたりしたものは、すべて覚えておきたい」という願望は、人間にとってあまりにも危険なことなのです。本などを一度読んで、すべて覚えてしまったとしたら、どれほど苦しいことか。
人間がそれなりに成功して、幸福に生きるために必要なことは覚えるべきです。その他の役に立たないことを覚えておく必要はまるっきりないのです。「これは私にとってとても大切なことだ」という緊張感があると、一発で覚えてしまいます。「これは私にとって必要だ。これがなかったら大恥かくぞ」という緊張感こそが記憶術なのです。
これは自分を追い込むこととは違いますよ。私が若い頃は、本やノートを買うお金もなかった。でもせっかく大学に入ったのだから、先生たちの腰が抜けるほどの研究をしてみせたかった。自分にとっては、授業は丸ごと理解しておくことは必要なことだったのです。だから誰とも話をしないでじぃーっと講義を聞いている。自分にとっては必要なことだから、素直に内容が頭に入るのです。決して無理がない。お腹が空いているときに食べると、自動的にご飯がお腹に入ります。でも、食欲もないのに無理に食べると、ものすごく苦しいでしょ。記憶というのは、自然の流れで得るものです。これを特別な脳の運動としてやろうとすると、かなり苦しくなるのです。
記憶力の技術を磨く方法は、まず「いらないものは覚えなくてもいい」と決めて、忘れることを楽しむことです。そして肝心なときに、「この人の言うことを聞き忘れたら、絶対にダメだぞ」と集中していれば、必要な情報は一発で心に刻まれます。このメリハリが必要です。養老孟司さんが、「バカの壁」という言葉を使っていますね。私はそれをちょっと訂正して、「いらないことには壁をつくっておけ」と言いたいのです。生きているのだから、モノを覚えることは死ぬまで必要ですよ。いらないことはサッと忘れて、必要なことはしっかり取り入れる。そうやって小さな時から、「これは入れるけど、これは入れる必要はない」という「壁」を用意してほしいのです。
なにより大切なのは、人生を楽しむことです。楽しまなければ、記憶はすべて抜け落ちます。生命というのは楽しむために生きているようなものです。モノを覚えるために生きているわけではないのです。覚えることで楽しみが増えるのだと分かったら、なんの苦もなく覚えてしまう。だから、「この本の内容は自分にとってどうしても必要だよ」と思って、その内容を入れることは楽しむ。「ああ、儲かった。よかったなぁ」と。どうしても必要と思えば、だいたい一回で覚えられますよ。
しかし、一回で覚えたものは短期記憶にしか入りませんから、時間が経つと消えてしまいます。勿体ないことに、みんな記憶を自分のものにするための二番目の楽しみをしないのですよ。二番目の楽しみとは、「反芻の楽しみ」です。牛がよくやっているでしょ。この楽しみはものすごく強烈なのです。自分にはこれが必要だと思うことは、「知っておけば私は楽しい」ということでしょ。本を読むときも、その内容を楽しむ。そうすれば一時記憶に入っているのです。それから、反芻しながら楽しむ。二、三回と記憶の反芻をやれば、忘れたくても忘れられなくなります。
残念なことに、世の中でみんながやっているのはその逆のことなのです。嫌なこと、ネガティブな記憶を何度も反芻して、自分からどんどん人生を不幸にする。だから、みんな頭が悪いままになっています。単純に幼稚園や小学生の子供のように、「楽しくないならやらないぞ。絶対に楽しくやってやるぞ」という法則で生きればいいのです。本人たちは勉強しているつもりはなくて、ただ遊んでいるだけなのです。しかし、大人よりも猛烈なスピードで、勉強しているでしょうに。
それを一生の生き方にして、思う存分、人生を楽しめばいいのです。生命の行動基準は、喜びを、幸福を感じることにあります。記憶する技術というのも、「幸福を感じる」ことの上に成り立っているのだということを覚えておいて下さい。
前節で記憶術について仏教的な見地から説明しました。今度は一般的に、私たちが勉強してモノを覚えるために、具体的にどうすべきかを考えてみます。
まず、本読んだり、勉強したり、講義を聞いたりする時は、いきなり自分がその世界に入り込むのです。あれこれと外側から見ることをせず、作家や講師がつくっている雰囲気、世界に入り込んで味わうのです。そうすると「私」という存在は薄くなってしまいます。たとえば講義だったら、自分がその講師の心に入り込んで講義しているような気分で聞いてみる。本を読むならストーリーに没入して、自分も一緒にその役柄を演じる。ただそれだけ。入り込んでしまったら、作者や講師の意のままに操られるぐらい、自分を解放してしまうことです。
勉強するものによって、入り込み方はそれぞれ違います。たとえば小説の場合は、自分で一つの役柄になることも出来るし、自分が作家になることも簡単に出来ます。ここでは、また子供の次元で考えてほしいのです。物語を読むとき、「こんなのは嘘だ」と思って読むのではなく、物語のなかに真剣に入るのです。シンドバッドの物語を読んだら、自分がシンドバッドを演じる。そうすると、読み終わったときにひとつひとつ内容を覚えているのです。もう忘れることはありません。
学術論文の場合は、その学問に合わせて入り込み方があります。私の専門分野を例に出しましょう。たとえば哲学的な本を読む時は、その思想を発表した哲学者の脳細胞の中に入って、その人が思うとおりに、考えたとおりに心を持っていくのです。あまりにも難しくて分からなくても、いろんな工夫をして何とか入り込むのです。入り込まなければ、一発で覚えることは出来ません。客として話を聞くのではなく、自分が舞台に上がって話している感覚に持っていくのです。
キリスト教と仏教を対立させている本があるとします。著者はキリスト教徒で、仏教をやり玉にあげて批判したりする。読者はヒンドゥー教徒であってもイスラム教徒であっても、あるいはまるっきり宗教を信じてなくても構いません。しかしその本を読んで一発で覚えたいならば、選ぶべき役柄は二つあります。自分もキリスト教に成りきって読むか、逆に自分が反対側に回って著者を攻撃しながら読むか、どちらかです。
ただ覚えたいだけならば、著者の立場になって、「自分も同意見だ、その通りだ」という感じで読む。しかし、自分の知識をつくりたければ、反対側に回るのです。ここでは仏教の側に回る。「お前は言っていることが変じゃないか。こういう風にも論理は成り立つぞ」と、自分も一緒に本を読みながら、そのディスカッションに参加する。反対側の立場を取ってしまうと、自分の頭がさらに拡がります。賛成側にいると、内容を覚えるだけで終わる。どちらにするかは、目的にあわせて読む人が決めればいい。
そのように、第一に読み聞きする対象に入り込むことです。そのうえで、いろいろと役柄を変えて演じてみる。または、真剣まじめに反論しながら、ツッコミを入れながら読んでみるのです。同じように、ふざけて読むということも有効です。たとえすごい内容が書いてあっても、自分なりの方法で、ふざけて冗談にして、楽しみに入れ替えるという方法もあります。
入り込むことによって、分かりやすく物事を理解するだけで充分なのです。いちいちデータを覚えておかなくてもよろしい。みんなが間違っているのは、何年、何月、何日に何処における統計値がどうのとか、細かい数字を覚えることが格好いいと勘違いしていることです。そんなの頭の悪い人がやることですよ。インスピレーションのない、思考力がない人がやることです。だから、データは覚えなくてもいい。その代わりに物事を理解しておけば、必要なとき瞬時に、本を開けてデータを出せます。
私が推薦するのは、覚えるのではなくてその知識を自分のものにすることです。その方がたくさん知識を詰め込むことが出来ます。単に記憶するということに徹してしまうと、勉強が出来ないのです。俗的に言えば、記憶術とはそんなものです。