あなたとの対話(Q&A)

信仰を破るべきか、一神教のメリット、儚いから美しい

パティパダー2008年11月号(135)

・信仰を破るべきか
・一神教のメリット
・儚いから美しい

明らかにバカバカしいこと、危険なことを信じていたとしても、人の信仰を壊すのはよくないことですか?

他人のことになると、私はいろいろ遠慮しますよ。しかし自分の信仰だったら、すぐ破った方がいいのです。信仰というのは、無知な人しかしないものです。分からないから信じるのであって、分かっていることの場合は、信じるということは成り立たない。自分が何か信じている、信仰していると言えば、自分がそのことを分かってない、という意味なのです。
 
 何かを信じると、それから物事を信仰の尺度で理解するので、真理は分からなくなります。「神様が人類を創造したに違いありません」と信仰すると、ダーウィンさんの話は頭ごなしに否定しなくてはいけなくなる。その話が、本当か否かと調べる気持にもならないのです。ですから、自分が信仰で物事を判断しようとしているならば、それを止めた方がいいのではないかと思います。信仰より、理性です。
 
 しかし、他人が何か信仰して、誰にも迷惑かけず生活しているならば、その人の信仰を打ち破ろうとするのは正しい行為ではありません。他人が自分の信仰を強引に押し付けようとするならば、信仰は間違いだと反論する自由が、自分に生じるのです。仲間同士で信仰について語り合う場合は、信仰で無知になるのだと、自分の意見を相手に言うことは間違ったことではありません。さらに自分の信仰に凝り固まって他の人々はみな悪人だと思って、社会に迷惑をかけたり攻撃をしたり、現代的な治療を受けることを止めさせたりするならば、それは社会の問題です。そのような人々の信仰を批判するのは、社会に対する親切な行為なのです。人には、信仰する自由があることだけは忘れてはなりません。

真理を知ることはどうせ一部の人にしか出来ないのであれば、神を信じることは、真理を知るという究極の目標を達成出来ないとしても、幸せになるための方便と考えれば、分かりやすくて、よい教えではないですか? 人によっては、仏教よりも幸せへの近道かも知れないのではないでしょうか? 実際、神を信じることで謙虚になり、慈悲の心で人のために善い生き方をしている人々が、たくさんいると思うのですが?

私たち仏教では一貫したことを言っています。神がいてもいなくても、そんなことはどうでもいい話なのです。一神教を信じている人々でも、ほんとうに道徳を守っているならば、たとえ神を恐れているから守っているのだとしても、それは評価するべきです。神の機嫌をとろうと思って、一生懸命、福祉やボランティアをやっているならば、具体的にやっている仕事は、広い心で認めるべきです。やっていることは善いことで、いい結果もある。それが神のお陰だというのは、その方々の信仰なのです。因果法則で考える我々から見れば、自分の行為に結果を得ているだけなのですが。信仰してもしなくても、道徳的な生き方は世のため人のため、その個人のためになります。それをきちんと認めなければ、理性的な人間にはなれません。
 
 それから、「一般人には神を信じることが簡単で、仏教は難しい」というのはちょっとあべこべ思考です。「神を信じなさい」というのは、難しいことだと私は思います。なぜならば、この世の中を見れば見るほど、神が実在しないことについてはいくらでも証拠があるが、神がいると言うための証拠は何一つもないのです。証拠はまったくないからこそ事実だ、という理屈は納得しがたいのです。ですから、「何も信じてはいけません」というのは、かえって楽じゃないかなと思いますけどね。どうして、「何も信じなくてもいいから、自分の足元を見なさい」という教えが難しくて、わけも分からないヘブライ語やら、アラビア語やら、あるいはサンスクリット語やらを読みながら、神を信じることが簡単になるのでしょうか。何も信じない方が、楽だと思いませんか?
 
 結局、人間は性格がだらしないから、自分の足元を見たくないのですね。しかし、「自分で責任を持ちたくないから神様に追従する」というのは、すごく間抜けな生き方ですよ。因果法則を認めて、「何であれ、自分の行為の結果だ」と考えた方が、性格はしっかりするのです。
 
 神を恐れて、謙虚に福祉活動をする人々はたくさんいます。しかし、神がいてもいなくても、人は謙虚でいるべきこと、自我を張ってはならないこと、悩んでいる人々を助けてあげなくてはいけないこと、などは常識ではないでしょうか。神を恐れてよい行為をする人は、神がいないと分かったら、善行為をやめて悪人になる恐れもあります。善行為は常識だと思う人は、そうはならないのです。

桜の花のように、儚いから美しいのではないですか? 日本人は無常を美意識で捉えて豊かな文化を築きました。ひるがえって、初期仏教の説く無常論は、暗くて美意識が欠如しているのでは?

初期仏教の無常は暗くて美意識が欠如していると言うならば、日本の無常観も分かっていないでしょうね、恐らく。どうして無常の一部が美しくて、一部が暗いのですか? これは成り立たない質問ですよ。儚いから美しい。そんなの当たり前です。私は昔、ずっとそう言ってきたのです。「無常だから美しいのではないか」「無常だから、音楽は成り立っているのではないでしょうか」と。しかしある日ラジオ放送で、「無常論者のスマナサーラ」と紹介されてしまったことがあって、「イメージを作られてしまうから、これはやめよう」と思ってそれっきり言わないことにしたのです。
 
 たとえば、ヴァイオリンで一分ぐらい同じ音を聴かされたら、気持ち悪くなってお腹まで痛くなるでしょうに。あれはいろんな音をササッと入れているから美しく感じるのです。無常でなければ、音楽は成り立たない。どうして赤ちゃんや子供がすごくかわいくて、大人はそれほどかわいくないかと言えば、子供は日々変わるからです。見る見るうちに変わる。あまりにも変わりすぎるから、美しくてかわいくてたまらないのです。大人になってくるとどうして悪口が出るかといえば、全然動かないわ、座ったら座ったままで鈍いのです。これが見ていて嫌になってしまう。
 
 だから世界は完全に、無常ひとつで成り立っているのです。存在が成り立っている、生きているということは、「無常である」という意味なのです。これははっきりとした事実です。そういうスケールで物事が分かってない人が、「あの人の無常は暗い、この人の無常は明るい」とか無意味なことを言うのかもしれません。
 
 個人には、「無常だから嫌だ」と暗く捉えることはできます。それも正しい考え方ではない。私が嫌がろうが、好もうが、無常は無常だからね。「私は無常が嫌だ。怖いのだ」と言うことは、自分が無常に逆らっている、というぐらいの話でしょう。
 
 日本では、無常を美化していると言いますが、それもちょっと、問題があるのです。美化したところで美を止めようとするから、厳しくがんじがらめに伝統を守ったりする。「無常を美化していると言いつつ、実際にやっていることは何なのか」と、私は訊きたい。
 
 無常を本気で見てみると、大胆にすごく進歩的な態度で生きていられますよ。無常の世界には何でもありだから。悩むことのない、とても明るくて美しい世界が拓けるのです。私が言いたいのは、「日本人も中途半端で無常を認めては駄目です。もっとしっかり無常を認めて、もっと美しくなれ。もっと明るくなれ」ということなのです。