あなたとの対話(Q&A)

業の教えは「泣き寝入り」の教え??「自業自得」論への疑問

パティパダー2008年12月号(136)

ぶしつけですが、自業自得や前世の業を説く仏教は、現実逃避の泣き寝入りのススメではないのですか?

自業自得とは、「自分の行為には自分で責任を持て」という意味です。それを否定することは、「私のせいじゃない。あの人のせいだ」という情けない責任転嫁の論理なのです。人間の生き方として、どちらがいいのですか。人間が自分でしっかりと責任を持って生きるか、他人に責任転嫁するか。責任転嫁すること自体、 腰抜けの生き方でしょうに。根性が悪いでしょうに。自業自得というのは、堂々とした勇者の生き方なのです。またそれは事実に立脚しています。だから、泣き寝入りの勧めではありません。勇者の道なのです。泣き寝入りする人は、「あの人のせいで上手くいかなかった。私は悪くない」という具合に、すごく気持ち悪いことを言っているのです。

そうは言っても、薬害の被害者や、戦争で爆撃されて死んだ人や、出自や性別や民族で差別されている人や、自分で責任なんか持ちようもない人だってたくさんいるではないですか? 私たち人類は複雜な世界に生きています。自然現象も社会も様々な因果関係が絡み合っているのだと考えれば、「自業自得」というのは 個人にどうしようもない問題を無理矢理に個人に背負わせる、不合理的な信仰ではないでしょうか? 仏教の人がよく、「自業自得」で説明しにくい問題になると 「前世の業」云々と証明できないところに棚上げするのも、なんか怪しいですよ。

確かに歴史的に見ると、お釈迦様の真意とは無関係に、弱者を差別するために、苛めるために、社会的差別を合理化するために「業」の考え方が利用されてきた傾向があります。特に仏教の教えをパクリながら、残酷な差別思考だけは変えなかったインドのヒンドゥー教社会にはその傾向が強いのです。
 
 まず一般論で考えてみましょう。過去世の業ということを言い出すと、過去世は無限ですので、自分がどんな罪を犯してきたかは知れたものではありません。そうすると、現世で自分がどんな酷い目にあったとしても、その原因になる悪業を過去で積んで来たことになります。ジャータカ物語では菩薩がちょっとした悪行為によって、長い期間苦しみ続けたエピソードも語られますから。
 
 そのようなものの見方を受け入れると、現世の因果関係にこだわって、自分の立場をよくしようともがいたり、社会を変えてやろうと戦ったりする気持ちは薄くなります。自分の幸福不幸も、過去世との因果関係にすべてを還元して「あきらめる」ことになります。善因楽果・悪因苦果というのは現世で確認できるとは限らない、むしろ善行為をしても過去世の悪業のおかげで不幸になる事もある、悪行為ばかりしている人でも過去世の善業のおかげで幸福になることがある、というのは、この世の不公平の説明としても筋が通っています。

 自分の幸福不幸は過去世の業であると淡々と受け入れて、とりあえず生きている間は、来世で善い結果があるようにと、善行為をして生きようということになります。そうすると、自分の権利を主張しようとか社会を変えようといった、「世直し思考」からは離れることになりますね。幸福があっても不幸があっても、その人が現世で善いことをするのは確かです。皆が自分の権利ばかり主張して「モンスター化」している現代社会と比べれば、そのような生き方がけしからんと、いちがいに決め付けることはできないでしょうが…。
 
 以上は「仏教社会」における社会通念として業を捉えたときの説明です。しかし、それ自体が、厳密に仏教的な業の捉え方かというと、ちょっと疑問もあるのです。
 
 まず、お釈迦様が説かれた業のシステムというのは、生命の法則だということを忘れてはいけないと思います。別に人間にある特定の社会システムを説明したものではないのです。生命は無明に覆われて、誤知で生きていますから、放っておけば堕落して不幸になるに決まっています。お釈迦様は人間を生まれで差別するインドのカースト制度を徹底的に批判して、否定されました。それはカースト制度が、「人は生まれによって尊い、また生まれによって卑しい」という極端な無知・邪見にもとづいた、人間を不幸にしばりつけて、とことん堕落させるひどい社会制度だということを御存知だったから、徹底的に批判したのです。
 
「人は生まれによって尊く、生まれによって卑しいのではない。行為によって尊くなり、また行為によって卑しくなるのだ」というのが、お釈迦様の説かれた真理の教えです。社会的な差別や不正を認めるかどうか、ということと、自分の幸福も不幸も自分の行いによるという業論を認めるかどうか、ということは分けて考えないといけません。社会的な差別や不正は無知・邪見の産物であり、それ自体が悪です。

 自分が社会の一員であるならば、その悪を正す責任があるということができます。ましてや現代社会はまがりなりにも「国民主権」「民主主義」の社会なのですから、政治家だけではなく国民一人ひとりに昔の王様のような責任が課せられているのです。たとえば、製薬会社の不正で薬害被害を受けたのなら、加害者の責任を明らかにすることは、主権者としての義務です。戦争で人々が殺されているならば、それを止めるために働くのも、社会の主権者としての義務です。
 
 しかしそれとは別に、「幸福不幸という問題は自業自得である」と指摘せざるを得ないのです。なぜならば、自分の現状を幸福(楽)と感じるか、不幸(苦)と感じるかというのは、自分の外界に対する感受の仕方だからです。客観的に見てひどい状況におかれても、あっけらかんと明るく過ごす人もいれば、ちょっとしたことで悲観して不幸のどん底に陥る人もいるのです。それは生まれつきの性格というべきもので、社会的な差別や不正とは関わりありません。同じ状況に対してどのように反応するか、感情的に泣き喚いて自暴自棄になるか、あるいは理性的に受け止めて適切な対処を取るか、によって人生は大きく変わります。感受することはイコール、心という働きです。

 仏教では心が変化生滅しながら相続する(流れていく)ことを輪廻と呼んでいます。感じる=心の流れが輪廻ならば、「どのように感じるか」ということは過去の心の流れと密接に関わっています。過去の感じる=心の流れを「自業」とするならば、その自業に基づいて今の感じる=心の流れが成り立っているのですから、どうがんばっても「自業自得」といわざるを得ないのです。だからこそ、それを認めて、未来に向けてどのように業を作っていけばいいのか、感じる=心の流れをどれだけよいものにしていけるか、というのは自分にかかっているし、それは自分にしかできない仕事です。その点は、「自業自得」と覚悟を決めるしかないんですね。

結局のところ、お釈迦様が説かれた「自業自得」とは、①「自分に起る幸不幸の出来事は『すべて』自分の責任である」ということなのでしょうか? あるいは、②「自分に起る幸不幸の出来事は自分『にも』責任がある」ということなのでしょうか? あるいはもっと適切な理解の仕方があるのでしょうか? 個人的には、②ならば、まぁ納得できます。だって「全部社会や周りのせい」も極端ですし、「全部自分のせい」も極端じゃないですか? 同じ境遇でも幸福に感じるか、不幸に感じるかは人によって違います。そういうところは「自業自得(自分で何とかできることだから)」かもしれませんけど、「これは自分の責任ではない、社会の問題だから、社会で解決してもらわなくては」と、社会を変えるように頑張ったほうが、公共の福祉(たくさんの人の幸福)に繋がる場合だってあると思います。

正確に言えば、「起こる出来事」は自業自得ではないのです。純粋な出来事、という意味では自業自得の面もあり、他業自得の面もあり、まとめて言えば多業多得です。自分、他人、社会情勢、自然環境といったさまざまな因縁が重なり合って複雜な現象が成り立つのです。唯識思想ではあるまいし、初期仏教では現象としての外界の存在をきちんと認めています。それをすべて無視して自業自得というのは、極論であり邪見です。
 
 社会というのは単なる現象ですから、無常・苦・無我であって、因縁関係の流れであって、それ自体は究極的には無価値なのです。無知な人間が作った社会で、仮に作られた約束ごにもとづいて、争って苦しんでいます。人間の身体とおなじく、国家も社会もメンテナンスしなければおかしくなってしまう。だから、構成員一人ひとりが、社会をよりましな現象の流れに変えていくように頑張るしかないのです。しかし、そこに完璧な正解というものも成り立たない。つねに試行錯誤しながら、社会を構成している生命が幸せでありますように、という慈しみの動機付けをもって、理性的に社会と関わる中道的な生き方をするということが答えなのです。
 
 多くの因縁で構成された「出来事」を個人レベルの自業自得に還元することは行き過ぎです。ましてや他人を差別したり不正を正当化したりするために使うなどもっての外です。しかし、個人が出来事に直面した時に成り立つ「幸不幸」は主観的なものですから、あくまで自業自得なのです。ある「出来事」を幸福と感じるのも自分、不幸と感じるものも自分、だからです。同じ現象の流れに対して、自分がどう向き合うか、どうはたらきかけるか、というのは自分で決めるしかありません。また過去においても自分で決めてきたのです。このように、複雜な因縁の絡まり合いである現象に対する反応がすなわち自業であって、その自業が次の自分をつくっていく(自得)という意味で、自業自得です。先ほど述べたように、現象に対する反応(感受=心)の流れが輪廻であって、輪廻の見方からすれば、自業自得しか成り立たないのです。そのように厳密な真理として自業自得を認めることで、人は向上への道を歩むことができるようになります。