共通点を探す「やさしさ」のレッスン、争いを調停する人の心構え、輪廻の話は「問題解決」に役立たない
パティパダー2010年1月号(149)
●共通点を探す「やさしさ」のレッスン
●争いを調停する人の心構え
●輪廻の話は「問題解決」に役立たない
共通点を探す「やさしさ」のレッスン
長老の著書のなかで、「やさしさとはエゴを捨てて自然に生きること」とあります。ネット上の法話にも、「基準を捨てて相手に基準を合わせてみる」とありました。でも先日お聴きした講話のなかで「他人の命などわかるわけはないので、自分の幸せのプログラム(自分がしてほしいこと)をすればやさしくできる」という内容を聞きました。どう解釈すればいいでしょうか?
この質問に答えるために、解説するべきポイントがあります。
ポイント:共通点と相違点(similarities and discrepancies – differences)
人間には共通する点があります。また、一切の生命にも共通する点があります。「私とあなたの間でどこに共通するところはあるのか」と探すことには、だれも興味を持たないのです。仏教では物質に興味はないので、「こころの共通点」を見つけることを推薦しています。人間同士だけに止まらず、「一切の生命の間の共通点」を見つけるべきなのです。
しかし、私たちは共通点(一致するところ)ではなく相違点に興味があるのです。自分が他人とどう違うのかと知りたいのです。
自分探し、自己の確立、identityなどの言葉を巧みに用いて、違うところを探しているのです。それが、「自我、エゴ」という単語で表現できます。要するに、自分という立場、土台、尺度があって、それに合わせて他人を図るのです、判断するのです。自分と他人の間にある違うところを発見すると、「相手が違う」と結論するです。
「変人だ、嫌なひとだ、好き合いたくはない人、ライバルだ」などの感情を引き起こす。また、自分の尺度には合っているが、その程度は自分より上だと分かると、落ち込んだり、卑下になったり、自信がなくなったりします。自分のエゴで人を判断することで、他人を理解することは決してできません。ただ、不善な結果になって、自分が不幸になること、他人に対して差別観が生まれて和合が壊れることだけがオチです。それで、残る方法は自分の基準に強引に合わせるのではなく、相手の基準に自分を調整することになります。しかし、相手の基準とは何なのでしょうか。それは、理解する方法がありません。
とにかく、原因の分かっていない病気の場合は、その原因を探してから治療して完治します、と待っていると、さらに病状が悪化してしまいます。治療方法が見つかった時に手遅れになっていたら大変です。ですから、先ず治療を始めるのです。それは、「自分にして欲しいことを他人に先にしてあげる」ということです。エゴが絡んでいるかもしれませんが、結構、上手くいく方法です。
しかし、自分が肉料理を大好きだからといって、ベジタリアンの友人に強引に肉料理を食べさせるようなことは失敗でしょう。相手に嫌われますから、これは優しい行為ではないとすぐ分かります。そこで、「私は好物を食べると楽しいです。相手も好物を食べると楽しいはずです」と考えて、「あなたの好物は何ですか?」と聞くならば、問題は起こりません。自分が美味しいサラダを食べて楽しみながら、ペットの猫には生魚を上げることです。二人とも楽しくなります。ですから、この方法は論理だけを言うと実行できないように見えますが、実行してみると上手く行くのです。
それで、私と他人の間の一致するところ、共通点を探すことです(もちろん、身体、形ではなく、こころの世界です)。エゴ・自我が強い人にはできません。エゴを捨ててみたら、あるいは捨てられるように努力するならば、「自分も他人も似ていること」を発見できるのです。やがて、一切の生命は平等であることを発見する。その時は、エゴの幻覚は無くなっているのです。これが「やさしさ」という実践の完成です。
エゴの人は他人との相違点ばかりを探します(優しくない人間です)。エゴのない人は他人との共通点を見つけます(優しい人です)。
ここで、理解するポイントは、私たちは必死で相手と違うところを見つけて自己の確立をしたがること、それでエゴの幻覚が現れて人が不幸に陥ること、他人に対して優しい態度で対応しないことです。正しい実践方法は、相違点ではなく、共通する点を探すことです。この仕事には、エゴが邪魔なのです。
争いを調停する人の心構え
弁護士として、人と人との争い事を解決する仕事をしています。訴訟の一方に立って解決する仕事になりますが、仏教の考え方からして、どういった気持ちで仕事に取り組むことが良いでしょうか?
争い事の仲介をする場合は、自分に関係ある、自分がやらなくてはいけないという立場ならば、やるしかないのです。自分と関係ないところで戦っている人々を仲裁しようとして、自分が酷い目に遭う場合もあるから気をつけなくてはいけない。しかし、人の争いを収められるぐらいの能力がある人なら、その能力を社会で活かさないといけないのですね。弁護士という仕事であれば、やはり職業として争い事を仲裁しなくてはいけないのです。
覚えてほしいポイントは、争う人は「どちらとも正しくはない」ということ。争っている人は、自分のことばかり主張するのです。「私」が主張することを相手が認めないということは、相手にも主張するポイントがあるのですね。ですから「私」の主張は正しくないのです。相手の言い分も正しくないのです。ですから、二人がどこかで妥協できるポイントを探してください。でなければ、何も成り立ちません。国際問題の場合でも同じやり方なのですね。こちらがこのくらい要求する、向こうもこれくらい要求する。両方とも100%主張を通すことは成り立ちません。そこで「お互いさま」の態度で、「では、これくらいでしたら如何でしょうか」というcompromising point(妥協点)に達しないといけないのです。
それを成功させるには、仲裁する人が誰の肩も持たないで、両者が納得できる結果に達するように、というスタンスで仕事をしないといけないのです。そういうやりとりの結果として、時には、どちらも満足できる答えが見つかることがあります。「これなら文句なし」と、仲裁の仕方によって相手方が思ったより良い結果になる場合もあります。
争い事に際して、仏教では「争う人々はどちらも間違っているのだ」ということだけ発見しているのです。あなたの要求は少しオーバーではないかと。ですから、仲裁する方々の仕事は、双方の主張を聞いて、納得できるcompromising point を見つけることなのですね。
弁護士として仕事する場合でも、気持ちとしては、どちらにとっても良い結果を何とか出してやるぞという「慈しみ」がないといけません。「それぞれの人に、それぞれの言い分があります」と理解しなければ、compromising pointが出てこないのです。自分の側にcompromising pointが見えても、相手はそれに乗ってこないのです。ですから相手のことも慈しみで理解して、「あなたの気持ちはよくわかりました。あなたが要求することは、それはその通りだ」と。「しかしですね……」という態度でアプローチしないといけないのです。そうすると、二人とも一応自分に賛成してくれるのですね。
ですから、弁護士として争いごとに関わる際は、「どちら側にとっても良い結果を出してあげよう」という心構えであってほしいのです。
輪廻の話は「問題解決」に役立たない
輪廻というものがあるのでしょうか? 生きて行くうえで何か辛いことがあった時に、どなたかに相談して、「前世に何かがあったのではないか」「ご先祖の供養が悪いのではないか」などと言われると、生きている生身の者としてはお手上げ状態というところがあるのです。霊能者とされるタレントの方が、自分の前世が何々だったと語っていたりしますが、そういうことが本当にあるのかとお聴きしたいのです。
テレビに出て話している人は、みな嘘を言っています。あるいは勘違いしているのですね。我々人間は論理性・理性に欠けているので、すぐ変な話に騙されてしまいます。
ですから、お釈迦さまは「厳密な理性を持ちなさい」と仰ったのです。例えば、「あなたの過去生に問題があるのではないか」と言われたら、「あなた、本当に知っているの?」と、「先祖供養が足りない」と言われたら、「どの先祖のことでしょうか?」と訊けばいい。先祖は無数にいますからね。「私を恨んでいるのはどんな先祖でしょうか?」と。私はよく言うことですが、いくらなんでも、孫やひ孫、ひひひ孫を恨む先祖なんているんでしょうか? 私なら恨みませんよ。私の子孫たちが私のことを嫌いだと言っても「あぁ、しょうがない」と、子孫がスクスク育って欲しいと思います。
ですから、だいたい先祖の祟りとか過去生の云々というのはあり得ない話しで、それは答えではなくて、ただの「逃げ」です。我々が生きているうえで、辛いこと嫌なことはしょっちゅうです。それをいちいち過去生のせい、先祖のせいにしていられませんよ。なぜそうなったかと、その場で原因を調べて何とか解決するべきです。お釈迦さまは「今、生きなさい」とおっしゃいました。「今」生きてみると思ったら、どんな悩み苦しみも、サーッと消えてしまいます。
どんな問題に遭遇しても、すぐその場で解決するのが、仏教的なやり方なのです。そのやり方は簡単です。「今、何ができるか?」と自分に聞くだけ。例えば、ご家庭に病人を抱えている人々は、ちょっとその病人のことを思い出してみてください。すぐに、悩みが出てきます。しかし、その悩みは無駄でしょう。今は楽しく話しを聞く時間ですから。今はここで楽しく話しを聞いて、ニコニコとした顔で家に帰って患者さんに会えば、患者さんも「何か良いことあったの?」と喜びますからね。ですから、「今」を充実して生きることがポイントなのです。過去に悩んでいる暇はないのです。
我々の問題を解決するために、「輪廻」という概念を持ってきてはいけません。仏教は問題解決のために輪廻を持ち出さないのです。しかし、輪廻について正しく語ったのは仏教だけ。それは人間の知識では把握できない巨大なスケールの話しなのです。輪廻とは因果法則の話であって、永遠の魂が移転する話しではありません。魂はそもそも成り立たないのです。「私」という人生は、瞬間瞬間、変化しています。生まれてきた赤ちゃんは、今いないでしょう。死んで、新しいものになっているのです。今も我々は、死んでは生まれ死んでは生まれ、なのです。身体の中の細胞も3ヶ月経つと死んで排出されてしまいます。心はもっと早く死ぬ。一瞬の間で、何万個もの心が、生まれては死ぬのです。ですから、生きるというのは、その無常の流れなのです。
このホールの照明にしても、光の粒子が、光の速度で現れては消える、現れては消える連続なのです。それをまとめて「光がある」と言っても、勘違いです。光があるのではなくて、光という流れが続いているだけ。実体は無いのです。それが輪廻という現象です。魂の移転ではありません。「個」はもともと存在しない。一切は流れなのです。
TVショーで言っている「輪廻」は、頭のおかしい人々が「あなたの過去生は……」「俺の過去生は……」と好き勝手に妄想しているだけ。自分の都合によって、何か似ているものを考えてテキトーに話しているだけで、完全なゴミなのです。人を脅すものはすべてゴミです。語るなら、人を助けることを語ってほしいのです。人が悩んでいるならば、その悩みから解放される方法を教えてほしいのです。
我々が仏教を語る場合、人の悩み苦しみを解決する場合は、「これはあなたが過去生で○○したからではないのか……」とは言いません。お坊さんは仏教を勉強しているから、過去の業について誰よりも的確に話すことができます。しかしお釈迦さまが「そういうことはやめなさい」と戒めているのです。
時々、末期がんの患者さんで、そろそろ亡くなると本人も周りも知っている人に会います。そういう人には、「あなたは、たまたまがんになる遺伝子をもって生まれたのだから、自分のせいで病気になったと思わないでください」と言います。その人がどんな業でがんになったかと語ったところで、解決策はないのですから、話しても残酷なだけです。そうではなくて「この状況を認めなさいよ。明るく生きましょう。あなたが身体の状態が最悪なのは知っていますよ。だからと言って、心まで苦しむ必要ないでしょう」と言って、無執着状態になるように色々と話すのです。あくまで現実的に話して、苦しみから解放されるように助けるのです。
そういうことで、輪廻とか先祖といったヨタ話には決して乗らないで下さい。「あ、そう。私はひとりでがんばりますから」という気持ちで、悩みごとがあっても「負けてたまるか」という前向きの気持ちでいれば、それで充分だと思います。
(※メールでの質問と、2009年10月18日大分講演会での質疑応答から編集しました)