パティパダー巻頭法話

No.22(1996年12月)

賢者への道

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

愚か者と賢者という言葉は、今までの話のなかでたびたび出てきました。愚か者の意味は簡単に説明もいたしました(9月号/no.19)。愚か者というのは、特別に知識のない人を指すのではなく、我々のごく自然な在り方です。その状態から徐々に人間は成長していかなくてはいけないというのが、仏教のおしえです。

人間としてより正しい生き方をするために努力すること、また、性格の未熟なところを直して、より高度な人格を作ることです。より深い知識を得るだけではなく、物事のありのままの姿をわかる智恵も育てるようにします。このような目的を目指して努力するのが、仏教で目指している生き方です。要するに、常に愚か者である我々は、賢者になるために精進しなければならないということです。

仏教界でよく使う「解脱」という言葉があります。それは人格を完成して心の汚れを完全に断ち切って、生きる目的に到達した状態を意味します。輪廻転生という概念が、基本的に仏教のなかにありますから、生きているということは、この人生に限るものではないのです。無始なる過去から生と死を繰り返すのです。生きる目的を達成しない限り、生と死の循環は終わらないといいます。人は愚か者でいる限りは、この循環から抜け出せません。本当の意味での賢者になったということは、この循環から抜け出したということなのです。我々の生きる目的は生と死の循環を限りなく続けることではなく、その循環から脱出することです。それには正しい生き方と智慧というものが必要です。

一日で完壁になるというのは無理な話です。そのような希望も決して尊いものではなく、ただの欲望です。生命というのは、不完全で間違いだらけであることは事実です。本来、愚か者なのですから仕方がありません。でもその状態に納得して、どうしようもないと諦めれば苦しみから脱出することは不可能になります。仏陀の教えは、愚か者の状態から賢者の位置に達するまでの方法を指示するものです。実践するということは、気長に一歩一歩取り組んで、智慧の完成を目指すことです。すぐ成功するということは、自然の法則としてもありえないことなので、失敗することに落ち込むことなく前向きに努力しなくてはならないのです。

どんな生き方をする人間でも、自分が正しいという無意識的な立場で生きています。自分が正しいと思わなければ、何もすることができません。何か行動する場合に、本当にいけない、間違っているとわかると、そのことはできなくなります。私達から、いけない生き方、悪い性格、誤った行動、として見えるものも、それをしている人にとってはそうは思えません。本人は常識ではいけないと知っていても、それは正しいと無意識では思っていますので、そのような行動をします。

自分を正しいと思っていることは、生命に対しては厄介な問題です。自分が正しいと思わない限り、何もすることはできません。活発でいきいきと明るく生きるためには、自分が正しいという無意識で植え付けられた確実な自信が必要です。しかしまた逆に、自分が正しいと決めつけてしまったら、それですべての成長、進歩がストップします。強情な性格になりかねません。自分を直すということとはまったく無関係になります。ですから自分が正しいという感覚は、決してあってはならないものなのです。我々の主観的な立場で正しいと思っても、それがそのとおりかどうか判断できる基準はありません。自分の行動に自信がもてない場合は、普通の人間は世間の常識的な判断に重ねることしか、他に方法はありません。自分が正しいという思いは、あってはいけない、しかもなくてはならないことですので、とても厄介です。

仏教の立場から見ると、人間は不完全ですから、自分が正しいという思いは間違いです。自分が正しいと確認できるような根拠は何もありません。我々の行動は、立場によって正しくなる場合も正しくならない場合もあります。ですからいきなり行動に走るよりは、気をつけたほうがよいのです。自分が正しいという無意識的な本能で行動して生きることが、一見明るい活発な生き方として見えますが、実は本能にあやつられて、ロボットみたいに生きていることともいえます。仏教の示唆することは、より正しい人間になるため、人格を完成するため、智慧を得るために前向きに努力することです。そうするならば、自分が正しくないと理解することは、決して明るい生き方の妨げにはなりません。かえってそのような人こそ、やらなくてはいけない大事なことがいっぱいあって、元気で明るく活発になります。日々の生き方が徐々に人格を向上しますので、充実感に充ちあふれ、失望感は消えてきます。

知識を得るためにも、智慧が現われるためにも、自分が不完全であるという理解は土台になります。無知なる人で、愚か者でありながらそれに決して気付かない人は、自分が成長しなくてはいけないという希望を持つことはありません。その人の人生は、間違いだらけで無知で終わります。輪廻の循環を脱出できるどころか、人間としても成功することが不可能です。さらに注意しなければならないポイントがひとつあります。自分の無知に気付かない危機よりも、ひどい性格になることです。それは、無知でありつつも自分に知識がある、物事を正しく理解できる、様々な理由に基づいて自分の行動は確実に正しいと決めつけている、一般にいう知識人たちです。その人々は、自分が正しいという思いに包まれています。人のはなしに耳を傾けず、他人から自分の行動が間違っていると言われたときも自分で間違いに気付いたときも、それに適切な理由をつけて正当化してしまいます。簡単に自分が間違ったと、どんな言い訳があっても自分が間違ったと反省して自分を直すということをしないのです。我々の本来のおおらかさに気付いている人は、それによって賢者の道を歩みます。日々、人格完成を目指して生きていきます。それこそ、仏教的な生き方です。

今回のポイント

  • 本来生命は、無知なるもので不完全です。
  • 自分が正しいと思う人には、無知を乗り越えられません。
  • 無知に気付く人が賢者になります。

経典の言葉

  • Yo bālo maññatī bālyaṃ – pandito vāpitena so,
    Bālo ca pandita mānī – sa ve bālo’ ti vuccati.
  • もしも愚か者が、自ら愚かであることを考えれば、すなわち賢者である。
    愚か者でありながらしかも自ら賢者だと思う人こそ愚か者だといわれる。
  • (Dhammapada 63)