No.33(1997年11月)
聖者(阿羅漢)の心④
落ちつけ、落ちつけ……
人というのは、ずいぶん忙しいものです。時計という偉大な神様に完全に管理されています。
しかし、もしもこの神様に言われるとおり、1秒も悩む暇なく生きているとすれば、余計なことを考えて悩む暇はないはずです。なのに忙しい、時間がないと時計ばかり見ている人に限って、悩み、苦しみが多ことに矛盾を感じます。
悩みがある、いろいろ問題があるという人を見ると、「あなた、暇人ではないですか」と聞きたくなります。本当に時間がなければ、悩む暇もないはずです。逆に暇な人の場合、暇だから退屈で悩んでいるというならわかりやすいのです。
退屈で悩んでいる人の場合は、本当にやることがない、あるいは何かをする能力がない、やる気がない、何をしていいかわからない、といういずれかです。これらの問題も簡単ではありませんが何とか解決できることでしょう。厄介なのは、忙しい人の悩み、苦しみです。この場合、それほど忙しくないのに自分に嘘をついているか、あるいは忙しいのに仕事を全うする能力がないか、自分の状況をしっかり理解していないかのいずれかです。自分の状況を知らない人は、これもしなくては、あれもしなくては、ああ忙しい、どうしよう、と何も理解しないで悩むことになりますから、結局は何もしていないことになります。それが悩みの種になります。現代社会では、そういう暇人はいませんから、現代人の悩み、苦しみは解決できないほど複雑な問題になっています。この間題をまとめてみると、人は忙しいのではなくて、自分自身に嘘をついて、自分をだまし続けているのではないかといえます。我々が出会う最大の問題は、この自己矛盾です。が、今月はこの話ではなく、この間題の他の側面を考えてみたいと思います。
忙しい人であろうと暇人であろうと、どちらにも落ち着きがないということがよく見られます。
落ち着きがないところからいらだちが現われ、さらに自分が苦しくなったりします。心が苦しんで体まで苦しむようになります。それで対人関係が悪くなって、他人にまで迷惑をかけたり苦しませたりすることになります。我々の妄想から生まれる苦しみ、悩みを解決しようとする前に、まず落ち着いてみようと努力すればいいのにと思います。この間題について聖者の心の状態を理解してみると何か役にたつかもしれません。
修行を完成し、悟りを開いた聖者に明確に見える特色は、徹底的に落ち着いていることです。
悟りというのは、悟った人にしかわからないものですが、「この方は完全に落ち着いているのだ」ということだけは誰にでもよく理解できます。あわただしい世の中で、常にあらゆる問題の網に引っかかる生活のなかで、よくもそんなに落ち着いていられるものだと不思議に思うほど落ち着いています。聖者はどういう心をもって生きておられるのでしょうか。
心の中にはポジティブな欲のエネルギーも、ネガティブな怒りのエネルギーも消えています。心に欲があるといろいろなことをしたがります。すべてを手に入れたくなります。怒りがあるとき、いやなものすべてを壊したり否定したくなります。両者ともよく動きますが、心の気付きはまったくありません。ただ感情に酔ってしまって、何かをいい加減に無責任にやっているだけです。
聖者はすべてを「今の瞬間」にしぼります。ものを客観的にありのまま見ますが、欲や怒りの感情では見ません。心に妄想がないから、ものはしっかり見られます。したがって、しっかりと自信をもって行動できます。今の瞬間にやらねばならないことだけ確実に完全に行いますが、それを過去の妄想に邪魔されて混乱することはありません。未来に対する希望という妄想にも行動を侵されることがありません。
普通の人は目的があって行動しますから、今の瞬間の行動はこれからの目的達成のための準備のようなものと感じますから、集中力は今やっていることではなくまだ実現していない将来の目的に向かっています。死ぬまで将来のために準備するのであって、明るく今を生きているのだという実感を体験することはできません。その人には今の瞬間にやっていることはそれほど大事ではありません。結果的には人生は中途半端なものになっています。それが苦しみを生み出す原因です。将来実現するべき目的がありますから落ち着くことは不可能です。
聖者の心には「生きる目的」という苦しみの原因はないのです。(「目的」については96年7・8月号を参照ください)
今の瞬間だけを充実させ至福感を感じ、完全に生きているということができないのは心の問題です。欲と怒りの感情が生まれるのは「私が」というエゴがあるからです。それは巨大な妄想です。
エゴイストは行勤する前も行動するときも、何でも比べてみます。いいか悪いか、損か得か、みんなやっているかいないか、褒められるかけなされるかなど、きりがなくなります。
心のこの働きを仏教では māna(慢)といいます。エゴを捨てれば māna は消えます。それは何が悪いのかと思うかもしれませんが、人間の苦しみの原因を究明するとすべてが māna に基づいていることを発見できます。社会や人が気になる、自信がなくなる、自信過剰になる、今まで(過去)の生き方を悩む、将来が気になるなどのすべてが、何かと、自分というエゴを比べることから現われる現象です。
聖者は真理を体験しているので、エゴという妄想概念は消えています。心は自由で、活発です。悩むことは何もない。徹底的に落ち着いています。我々と同じく社会に生きていますから、病気になることや親しい人に死なれること、天災に遭うこと、他人から誹誇中傷されることはありますが、エゴがないのですから、そのようなことで悩むことはまったくありません。
大地のように、山のように落ち着いています。心が濁っておらず、巨大な湖のようです。(Dh.95)
身口意の行為はとてつもなく落ち着いて平安で美しいものです。どんな状況のなかでも、聖者が生きている姿を見ると、それに惹かれない者はありません。どんなに混乱している人も、聖者を見るだけで落ちつきます。この混乱の社会に必要なのは、ひとりでも、真理に目覚めた人の存在です。一般の人が聖者を発見する方法は、いるだけで周りの人々を落ちつかせるほどの落ちつきの威力です。
「村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい」(Dh.98)
今回のポイント
- エゴの妄想をなくすことは至福の道です。
- 過去と未来の妄想によって「いま」を見失ってはなりません。
- 聖者の落ちつきは全ての生命に影響を与えられるほど威力をもっています。
経典の言葉
- Yassa indriyāni samathaṃ gatāni – assā yathā sārathināsudantā
Pahīna mānassa anāsavassa – devā pi tassa pihayantitādino. - 馭者(ぎょしゃ)が馬をよく馴らしたように、自分の感覚器官を静め(落ちつかせ)、
慢を捨てて心の汚れのなくなった人(聖者)
—— このような境地にある人は、神々でさえも羨む。 - (Dhammapada 94)