あなたとの対話(Q&A)

しんどい現実に立ち向かう、臓器移植カードを持つべきか・他

パティパダー2011年1月号(161)

自分の問題は自分で解決しないといけないと思うのですが、現実はしんどくて、つい逃避してしまう自分がいます。しんどい現実に、どう立ち向かえばいいのか、アドバイスをお願いします。

それはあなたが、人生を戦っていないということです。生きることは、一刻一刻の戦いです。人生には、楽しいことを選んで、楽しくないことを後回しにする自由はないのです。たとえば、子供を抱えている女性には、ちょっとした休みもありません。自由はなくなっています。お母さんだけではなくて、すべての人間には余裕も自由もないのです。あとまわしにする、好き嫌いで考える、ではなくて、いま何をやるべきかと考えることです。
 
 個人のできる仕事は小さいものです。世界の経済状況が悪化しているとしても、それは個人にどうしようもないのです。自分の食い扶持をどうすればいいのかと考えることしかできません。世界状況はどうでもいいので、個人がこの環境で自分の収入をどうすれば確保できるかと、それは個人で解決しないといけない問題です。
 
 やるべきことを後回しにすると、嫌な気持ちがどんどん強くなって、腰が上がらなくなってしまいます。部屋のそうじを後回しにして、一年も経ったらひどいものでしょう。でも、ちょっとずつ掃除をすればどうってことはない。だからやるべきことは、たとえ嫌なことでも先に済ますことです。先に嫌なことをやって、あとから思う存分、味わいながら好きなことをやって気分よく生きることにしてはどうでしょうか?
 
 問題が起きて欲しくない、問題に立ち向かいたくはない、という気持ちがあるから、日々の人生は嫌な出来事の連続になります。問題に立ち向かうことこそが、明るく生きることだと、見方を変えた方がよいと思います。問題がなかったら、生きることは面白くないと思ってみてください。

臓器移植の意思表示カードを持つべきかどうかで迷っています。仏教的にはどう考えるべきか教えてください。

世の中には、『臓器移植を断固拒否する』と息巻く人がいますが、それは自分が社会から生かされているのに、自分はぜったいにお返ししませんよという、ずいぶんケチな思考のように思います。私たちの身体も臓器も、すべては借り物です。自分が死んだ時点で、もう何の関係もないのです。自分がいつ何時に、どんな死に方をするかもわかりません。死んだら、身体は燃やして灰になるだけです。それを絶対に他人にあげたくないというのは、きつい言い方をすれば『人間失格』なのです。
 
 この問題は、臓器をぜんぶ灰にするか、使えるところをリサイクルするかという選択なのです。だったら、答えははっきりしています。臓器移植の意思表示カードを持つことです。自分の身体がかわいいのは、自分が生きている間だけなんです。『この身体は死んだら捨てるものだ。だったら使えるところは誰かの役に立てて欲しい。』そう決めるだけでも、心が清らかになります。
 
 臓器を提供することに、拒絶的な気持ちを持ってしまうのはなぜでしょうか。その気持ちの問題を誰も具体的に考えていないのです。それを考えようとすると、人々の心は、文化的な価値観、迷信、アニミズムなどの感情によって洗脳されてしまうのです。当然、昔の人々は、ほとんどアニミズム的な考えでしたので、いまさらその思考を基準にして判断しようとするのは、洗脳されているからだと思います。死後や天国のことを妄想すると、人間が自分のいまの身体のままで、天国にいることを妄想するのです。死後の身体に、心臓も腎臓も皮膚も他の臓器もないと思ったら、嫌な気分でしょう。
 
 同じ洗脳を使って、逆に考えてみましょう。自分のこのボロボロの身体のままで天国に行ってしまったら、欠陥だらけの身体なので楽しくないと思います。天国があると仮定してみても、この身体は持っていけないことだけは現実です。必ず捨てるものは、他人の役に立つように寄付することが断言的によい行為なのです。

医療に関わる仕事をしています。医療現場では治療として細菌を殺すことは日常茶飯事です。また、病気に対してもfight against というきつい言葉を使って攻撃することを謳っています。これは殺生であり、怒りではないかと疑問に思うことがあります。在家の医療従事者はどのような気持ちで治療にかかわるべきでしょうか?

以前もお医者さんに同じようなことを訊かれた憶えがあります。例えば治療で患者さんの身体にいる虫を全部殺さなければいけない。それは殺生の罪ではないかと。私は、「医師には僧侶のような生活はできませんよ。小さな悪で大きな悪を抑えるという俗世間の生き方をするしかないのです。医師として、どこに自分の重点を置くか、という切り口で考えてください」と答えました。
 
 あまり原理主義的に考えると、身動きができなくなるのです。我々は生きているだけでも微生物を殺していますよ。それがいやだから、顕微鏡を持って生活するというのは、バカげているというか、原理主義というか、やりきれないのです。私たちは、文字どおり中道的に生きるしかないのです。完全に戒律を守って、完全な善なる生活ができる、と思うところがそもそも間違いない、勘違いなのです。
 
 医療は決してパーフェクトではありません。世の中はガタガタでうまく行っていないし、思考すらぐらぐらしている。だから、適度を持って生活しないといけないのです。どのように適度をもって生活するかということが、道徳になるのです。
 
 現代医学にある、微生物を殺して病気を治そうという思考は西洋の考え方です。インドのアーユルヴェーダ医学や中国の伝統医学は、生命に生き延びる力を与えるという思考で成り立っています。中国医学やアーユルヴェーダには、細菌を殺すという発想はぜんぜんないのですが、それでも患者は治ります。現代医療の場合は弱いものを殺して強いものが生き延びるという発想なので、そこから問題が現れるのです。
 
 質問にあったような問題は、世界で医療についての考え方が変わったから起きたことです。はっきり言えば、これは仏教からは助けられない問題です。ですから、考え方が原理主義にならないように気をつけるしかないのです。
 
 具体的にいえば、微生物を殺そうではなく、生命を元気で生活できるように助けてあげましょうと、そこに仕事の重点をおくことです。その他の側面は無視するしかないのです。それも完璧な思考ではありませんが、他に取るべき道がないのです。
 
 とにかく細菌を殺せという西洋医学でも、抗生物質をあまり使ってはいけない、と戒めています。必ず、耐性菌に逆襲されますから。微生物も逆襲するつもりではなくて、攻撃に対応してもっとしっかり生きられるように自分たちを改良しているだけです。人間も生命ですから、同じことをして生きているのです。医者は人間が生きていられるように、生きる力を高められるように助けるのだ、という気持ちで患者に接することです。
 
 医療に関わる方々は思考を実用的なレベルでストップして、治療に専念することです。医師は医師の悩み、看護師は看護師の悩みを持っています。それでも、プロとしての自分の仕事をするしかないのです。

禁煙にチャレンジしていますが、なかなかうまくいきません。よいアドバイスをいただければ幸いです。

肉体がニコチンに依存している時は苦しいと思います。まずは、私がタバコに依存しているんだ、身体が要求しているんだと理解することです。そこで、身体の要求に負けないようにプライドを持つのです。出家者は、身体が苦しくなったら、自分で自分を怒鳴りつけるのです。
 
 心はすぐ変わるものです。出家していても、村に托鉢して美人を見たら欲が生まれるかもしれない。その場合も、自分で自分を怒鳴りつければ問題が起こらないのです。禁煙の場合も、『身体が求めても知ったことか、俺のいうことを聞け』と、自分を怒鳴りつける。そうやってみると身体も治っていきます。
 
 禁煙に限らず、善いことをしようとしたらどうしても何かにひっかかってしまう。その場合は他人に頼るのではなく、自分で自分を叱咤することで、しっかりするのです。それで自信がつく。我ながら頑張っているという自信が付いてくるんです。それが心理学的にいちばんいい方法です。はじめから自分が何も挑戦していないのに、自分はダメな人間だと卑下して自分をけなすのはよくない。目標に向かって努力して、弱気になったところで自分を叱咤する。それで成功に達することができるでしょう。

私の過ちで相手をひどく怒らせてしまったことがあります。怨みに達するところまで相手を怒らせてしまった場合、どうやって関係を修復すればいいのでしょうか?

どんな相手かによって答えが変わります。一般論の答えはありません。まずは相手に謝ること、そして損害を賠償すること。でも、それをしても相手の心の傷は治らない場合もあります。自分が謝る義務、弁償の義務を果たすしかありません。
 
 それから元のように仲直りする為にどうするか、というのは余計な考えです。それは自分の管轄ではないのです。あなたが犯した過ちを許してあげるか否かは、相手の管轄になります。弁償されたから、ちゃらにしてあげよう、というのは弁償された人の考えることであって、あなたは他人の管轄することにまで悩む必要はないんです。相手が許してくれなくても、それはその人の気持ちだと放っておくことです。
 
 人が誰とでも仲良くすべきだというのは理想的な話で、実際には不可能です。
 
 現実的には仲良くするのは身内の小さなサークルです。その他の人々には慈しみの気持ちを持つことです。現実はそんなものでしょう。実際には、仲良しの人が増えると生きることは苦しいんですよ。だから、相手が幸福であって欲しいと思うだけで終わることです。
 
 相手がまた仲良くしようとやってきたならば、また仲良くすればいいんですね。こちらから、また再び仲良くなることを期待するものではありません。