就職できる人になるには?/年上の人を敬うべき理由とは?/冥想によい環境、悪い環境はあるのか?・他
パティパダー2011年5月号(165)
就職できる人になるには、どうしたらいいのでしょうか? 私は、去年大学を卒業しましたが、まだ就職できていません。アルバイトでさえ受かりません。就職関係の本を何冊も読みましたが、志望動機や自己PRもうまく言葉にならないのです。就職しなければならないと思い、就職活動をしてきましたが、「本当は就職したくない」という思いがあるから就職できないのでしょうか?
考え過ぎです。何かについてトコトン考えると、現実から離れてしまいます。自分の妄想の世界に閉じ込められます。それに、感情も割り込んで来て、こころがロック状態になります。「就職しなくてはいけない」などの思考・妄想を止めて、リラックスして下さい。裏表のない心で、単純に「この仕事が欲しい」という気分になって挑戦して下さい。
子供の性格からこのやり方を学べます。子供は何か欲しくなったら、何も考えず、単純に「欲しい、買ってくれ」。それで、終わり。大人が負けます。大人の仕事の場合も「この仕事を欲しがっている、やりたくなっている」とその気持ちが通じたら相手に断れなくなるのです。
「何でもいいから仕事が欲しい」という挑戦の仕方ではダメなのです。面接を受けるその特定の仕事が欲しいのだ、その仕事をしたいのだ、と思わなくてはダメです。もし、その面接で落ちたとしても、次にチャレンジするところにも同じ気持ちで立ち向かうのです。「仕事なら何でもいいのだ」という気持でのぞむと、面接する側にあなたの「やる気」がよく見えないのです。アピール力が少ないのです。
「この仕事をしたい、この仕事が欲しい」というアプローチすれば、面接する側を「この人にはやる気があるみたいだぞ」という断れない気分にさせることができます。頑張ってみてください。
新刊がでるたびに長老の本を読み、考え、今の能力で納得できたことに関しては実行するようにしています。ただ、まだもやもやしているのが、年上の人を敬いなさいということです。
私は、年とともに成長しようとしていない人(私よりも年が上なのに、少なくても私よりも心が乱れている人や落ち着きのない人)を敬うことができません。このように人を判断していること自体が傲慢なのは承知しています。まだ治せていませんが……。
そのような私に対し、私の母や、祖父母は私の考え方にあきらめているのか、理解しようとしているのかわかりませんが、文句をいったり、自分たちを敬うことを強制しようとしたりはしません。年上を敬う理由を考えてもわからないので、教えていただきたいです。できれば年上だけではなく、無条件に多くの人を敬いたいと思っています。ただ、あまりにも敬うに値する人が少ないと思うのが現状です。今まで読んできた長老の著書にそのあたりの解説を見つけることができなかったため、アドバイスをいただけましたら幸甚です。
これは大げさな問題ではありません。尊敬に値する人、敬うに値する人はこの世に少ないのです。
そうだからといって、私たちは社会のしきたりを無視していいのだ、我がまま奔放に生きてもいいのだ、人々の話に耳を傾ける必要はないのだ、ということにはならないのです。社会人なら、社会のしきたりに従わなくてはなりません。
年上とは:
一、自分より先に生まれている人(これは一般的な定義です。尊敬するかしないかは関係ありません。)
二、家族・親戚の間で先に生まれた人(常識的に尊敬するべきです。先に挨拶をしたり、敬語を使ったり、などです。)
三、自分を育ててくれた人々、今もお世話になっている人々(常に尊敬するべきです。たまに、喧嘩することになっても尊敬の意を持ち続けるのです。)
四、年下なのに自分より能力・経験がある人々(職場などには年齢は下でも「年上」として尊敬すべき人がいます。自分と関わりのない年下の人に自分より経験・能力があっても、それは自分に関係ありません。その人のお世話にもならないので管轄外です。)
五、自分より道徳的に優れている、智慧がある。性格が素晴らしい人(生まれた年は関係ありません。このような人々を大事にすると、自分を戒めてくれるのです。尊敬するのは当然です。)
尊敬のしかたは、その都度変わるものです。尊敬とはveneration(崇拝)でも devotion(忠誠)でも submission(服従)でもないのです。Respect(リスペクト、敬意)ということなのです。
人を差別・判断するのは悪行為です。自分のエゴが強くすることです。エゴが強くなるというのは、無知になって行くことです。自分の成長を破壊することです。
「そのような私に対し、私の母や、祖父母は私の考え方にあきらめているのか、理解しようとしているのかわかりませんが、文句をいったり、自分たちを敬うことを強制しようとしたりはしません。」と書かれていました。もし親が自分の性格について何も言わないならば、それは「自分の性格が正しい」という証拠にはなりません。親が何も言わないのにも、いくつかの理由が考えられます。
一、治らないとあきらめている。二、そのうちわかるでしょう、と思っている。三、自分のことは自分で考えるべきです、と思っている。四、我が子の生き方がそれで可愛い、世界一だと思っている。(四の態度は子供の役に立たないかも知れませんね。)五、他人を軽視する我が子が怖い、関わらない方がいい、と思っている。
年上の人をどのように尊敬するべきか、ということについて、私は本のなかで詳しく書いていません。その必要はないと思ったからです。それはおおげさなことではなく、人間であれば誰にでもあるべき態度、常識だと思っているのです。年上の人に対する尊敬とは、お世話になっている人々に対して適切に感謝の気持ちをもって接することです。一般的に言えば、Just have a sense of respect to other peopleです。
敬うべき人を敬う。従うべき人に従う。感謝するべき人に感謝をする。話しを聞くべき、アドバイスを受けるべき人の話を聞いて、アドバイスを受ける。ただ、それだけです。しかし、他人を決して軽視してはならないのです。例え、犬、猫であっても侮辱しては(condescending)いけないのです。
このたびの震災につきましての、長老よりのメッセージ、今一番大切なことに気づかされ、大変元気付けられました。ありがとうございます。
さて、うちには三歳の子供がいるのですが、悲惨な状況や悲しんでいる人の映像は決して見せてはいけないと人に聞きました。私は、この世は無常であるということを知るためにも必要かと思い、みんな大変な思いをしているんだよと見せていました。やはり小さい心には負担が大きいかもしれないと、今はみせないようにしていますが、どのように対処すべきでしょうか。そして、大人も何が起きているのかを知るためにTVをつけますが、悲惨な情報などに触れる機会が多く、どのような気持ちでその情報を受け取ればよいのでしょうか。
情報を隠すということ、無知のままでおくなどは、よくないことです。
子供には子供なりに物事の見方があります。それが道徳的でないと親が分かったら、「このように考えてはいけません」と教えてあげることです。
災害のことについて子供が見るならば、見てもよろしいし、親が見せても宜しい。見せながら、世の中が無常であること、悩んでいる人のことを心配するべきこと、優しい心、思いやりの心が必要であることを親がなんとなくコメントしてあげることです。いやな気持になった場合、子供はその番組を見ないので心配はいりません。
しかし、人の悲しい感情を引き起こして、暗い気持ちに陥れる目的で作っているTV番組は評価できません。また、行政が悪い、あの人が悪いなどの、誰かを批判の的にしたがる日本のマスコミのポリシーも品格が落ちていて、金目当てで、視聴率を上げる目的なので、ジャーナリズムではありません。適当に区別・判断してください。
とりあえず、いわゆる「知識人」の知識的でないクダラナイ分析は、子供に興味がないので、心配する必要もありません。
冥想と環境について教えてください。冥想によい環境、悪い環境というのはあるのでしょうか?
あるともないとも言えないのです。私たちが紹介している冥想は、心を清らかにすることですから、環境は関係ないのです。例えば、体の中には免疫システムがあって体を守っています。いい環境で生活してください、というなら免疫システムはいりませんね。よくない環境にいればいるほど、免疫システムが頑張って働いて強くなっていくのです。無菌状態で一ヶ月くらいいると、無菌状態の間は病気にならないけれど、一般社会に戻ったときにたいへん危険なのです。からだの免疫システムが機能低下しているので、外に出た途端にかんたんなことで病気になって死んでしまいます。
心の場合もこれに似ているのです。「怒らざるを得ない環境」で怒らない訓練をすれば、自分の修行になります。逆に、怒らないために優しい人とばかりつきあったら、修行にならないのです。かえって、自分に免疫がなくなって、ちょっとした言葉の間違いにも激怒するようになるかも知れません。ですから、これは一概に言いにくいのです。
人の性格が弱いとします。ボクシングをする場合にも、経験のない人をいきなり試合に出したら大怪我しかねません。当たり所が悪かったら、死んでしまいます。初心者は顔にガードをつけて試合してみて、顔にパンチを受けてみて、能力を上げるのです。同じように、精神が弱い人をいきなり「実戦」に出すのではなく、訓練して能力を挙げて、一人前にしてから外に出すということもあり得ます。その場合は適切な環境が必要です。よい環境で訓練して能力を上げるのです。そういう順番で訓練をして、それから試合に出るのです。
冥想の環境もそういうものです。どうしてもダメな人間、気の弱い人間は環境を選んだほうがいいのです。でも、それに甘えてはいけない。必ず外に出ないといけない。訓練が進んだら、環境を離れて外で試合をしないといけないのです。子供が自転車にのる場合は補助輪をつけますけど、つけっぱなしではだめ。訓練してから補助輪を外さないといけないのと同じことです。
人がうるさくて怒りが出てきそうになったら、「いま仕事するときだ」と、怒りが出てこないように気をつけることです。子育てでは、お母さんは怒りっぱなし。そこで「怒らないこと」の修行をしてみるのです。子供がやってはいけないことをやっていて、それを止めさせないといけない。怒らないで、どのように対応しましょうか、と挑戦してみれば、そこでいろんな智慧が出てきますよ。
もうひとつ、体が環境に適する、適さないということもあります。例えば、私のような年寄りには厳しい環境は無理です。厳しい環境にいて、冥想が完成する前に死んでしまったら困ります。その場合は環境を変える。食べ物が体に合わないということもある。それでは、心を育てるどころではありませんから、そういう処は避けるのです。
このように、その都度その都度、理性で考えて欲しいのです。断言的にこれと決めてはいけないのです。冥想に適した環境、という場合はよく調べて理性で判断すること。でも、みんなが忘年会しているところで冥想するとか、それは止めたほうがいいのです。
お釈迦様も托鉢に出るときは、「お祭りをしている処は避けなさい」と仰っています。祭りをしているときには、その村に行かないようにする。そこでちょっと環境を避けますが、それも断言的な決まりではないのです。時々、わざと祭りをしている街に托鉢に行く場合もあります。
その場合は、人格者の大物のお坊さんが、自分と関わりのある在家の人が祭りに参加して悪いことをしたら困ると、あえて行くのです。それで、その方の世話をするうちに在家の方もお祭りに行く時間がなくなるのです。
日本だったら、環境は大丈夫でしょう。蚊もいませんから。自分の国、スリランカだったら、蚊がたくさんいますよ。日本は蚊もいないし、けっこういい環境だと思います。食べ物の問題もないし、家の中も清潔でしょうし。冥想しようと思えば、すこぶる環境がいいと思います。仏教では、あえて◯◯に行って冥想しなくちゃいけない、という場所はないのです。しかし、自分を育ててくれる立派な師匠がいるならば、そこに行くべきです。
結論としては、自分をしっかり育ててくれる師匠がいるところが、冥想に適した場所ということです。それでも自分で自分の心を育てることが冥想ですから、断言的な条件ではないのです。仏教の世界の「よい師匠」とは、教えることはさっさと教えて、「はい、出ていってください」という態度を取るのです。弟子を甘えさせないのです。疑問があれば質問できますが、ずっと一緒にいて依存するという関係は、よい師弟関係ではないのです。
仏教はいつでも理性で適宜に判断するのです。断言的な項目を挙げて、人を束縛することはしないのです。理性で判断できる能力を、一人ひとりが育てないといけないのです。