パティパダー巻頭法話

No.92(2002年10月)

『与える』人は損をしますか?

幸福に生きる秘訣 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Ālavaka(アーラヴァカ)という名の夜叉(神霊)がある日、釈尊に尋ねました。「どうすれば友達ができるでしょうか」。釈尊は、「与える者は、友達を作る」と答えられました。夜叉という神霊は性格的には大変乱暴で、他の生命に好き勝手に迷惑をかけ、神々と比べると少々タチが悪い存在です。親しまれるよりは嫌われる運命の霊です。友達を作る技を全く知らなかったかもしれません。

一方でこの神霊とは対照的に、釈尊に大変気に入られていたある若者がいました。その若者は、大変な人気者で常に大勢の若者に取り巻かれて生活していました。釈尊の教えに忠実で、性格は模範的でした。釈尊に教えられた四つの項目を守っていたので抜群に人望がありました。この四項目の一番目は与えることです。

与えるというのは、仏教用語で布施(dāna)です。布施の意味は、今はほとんど取り違えて理解されています。仏教徒でさえも「何か布施をしたらたくさんの御利益が返ってくる」としか理解していないようです。布施の意味を解読できる鍵は、上の二つのエピソードに隠れています。

限りのない輪廻のなかで、いかなる生命でも、全く一人ぼっちで生活することは不可能です。あらゆる生命と健全な関わりをもっていれば、生きることは楽になります。俗世間では、不幸を乗り越えて楽しく生きるためには、生命との関わりは欠かせないものです。人間の世界でも人を罰する時は、その人を社会から隔離するのです。たとえ三食が付いていても、社会とのコンタクトができないことは精神的な苦痛になります。俗世間で幸福に生きるための秘訣は「人付き合い」にあります。人付き合いが上手な人は幸福で、下手な人は不幸です。

しかし、俗世間で幸福に生きることは、仏教の最終目的ではありません。ブッダは、出世間の道を語っています。解脱を目指して修行をすることを勧めているのです。その場合、精神的に弱い生命は、生き続けるためにあらゆる人や物に依存することをやめる努力をするのです。心から徐々に煩悩を落とし、心を強くして『依存』から『絶対的な独立』を目指すのです。しかし、悟りをひらくまで他の生命と仲良くして、生活しなくてはならないのです。

布施と人付き合いの関係を考えてみましょう。ケチ、物惜しみ(macchariya)という性格があります。自分のものを他人が使用することを極力嫌がる性格です。自分の方へ財産が流れてくることは歓迎するが、自分の方から外へ出ていくことは阻止する。このような人とは誰も付き合いたくありません。付き合う人は、必ず何か損をするのです。物惜しみの性格の人は、他人に対していつも嫌な顔をしなくてはいけません。苦笑しただけでも、相手と何らかの関係が築かれたら自分から何かをあげることになるので、苦笑さえも自粛するのです。

これは明らかに精神的な病気です。心が内向的になるのです。自己がどんどん小さくなっていきます。そして、生きることが我慢できないほど苦しくなっていくのです。他人と挨拶を交わすくらいのことも恐くてできなくなるのです。親切な人が、にこやかに笑って挨拶しても、「何かたくらんでいるのではないか」と怯えるのです。自分の中にとじこもる人々は、その心を持ったまま死ぬと、来世も必ず不幸になります。物惜しみは、今世の生き方も極端に不幸にするし、来世も悪趣に赴く原因になるのです。これは心の法則です。

反対に、『与える』性格の人は、常に明るいのです。自閉的な要因はありません。自分のものはいつも他人と分かち合って使いたがります。そうなると、その人の人生は孤独にはならないのです。必然的に周りに多数の人々が生活するようになります。他人と一緒に生活したがる人は、わがままになったり、他人の気持ちを無視したり、自分の気持ちを他人に押しつけたりしません。自分の気持ちも他人の気持ちも理解して、どちらにも迷惑にならないような生き方をするのです。それが慈しみと智恵のもたらすところです。また他人と仲良くしていると楽しいだけではなく、慈悲と智恵も湧いてくるので、日々の生活そのものが功徳を積むプロセスになるのです。物惜しみは精神的な病で、苦しみをもたらしますが、与える性格を育てる人は、健全な心の持ち主になるのです。

与える人は、損をしますか? いえ、反対です。限りなく得をします。人生の損得は、電卓で計算するのではありません。ものの価値は独立しているものではなく、必要性に応じて変わるものです。日本では、水一杯に価値はないかもしれませんが、砂漠で迷子になって死にかけている人には、水一杯は自分の命と同等の価値のあるものなのです。与えると損すると思う人は、ものの価値を電卓で考えているのです。生きている上で我々に何が必要になるか、想像できません。どんな危険に、どんな不幸な出来事に出会うことになるかもわかりません。しかし、与える性格の人は心配する必要がありません。その人の周りには、豊かな人間関係のネットワークができているのです。自分に何かが必要になった場合は、それを補ってくれる人がいくらでもいるのです。土下座して頼まなくても、借用書を書かなくても、周りの友人達は喜んで、あるいは強引にでもその人に必要になったことをしてくれるのです。必要になったときにのみ、ものには価値があるのです。ですから、与える人の立場からみると、自分が与えた分よりも何億倍も自分が貰っていることになるのです。ですから、与えれば与えるほど幸福は増すのです。

何倍もの御利益を期待して何かを与える場合も、与えることには変わりはありませんが、ケチという暗い不幸の種に水を蒔いているので、期待するほどの幸福にはならないかもしれません。明るい心で与えることは、幸福への第一歩です。布施は、善行為の始まりと説かれています。それは、ものを貰いたいという、単純な思考で教えられたものではありません。不幸を作り出す心の働き、幸福と解脱を体験するための心の育ち方を、悟りの智恵で知り尽くした釈尊の教えです。

今回のポイント

  • 物惜しみはあの世までも人を不幸にする病です。
  • 良い人間関係は、与えることから始まるのです。
  • 与える心は、慈悲と智恵の生みの親です。

経典の言葉

  • Na ve kadariyā devalokaṃ vajanti,
    bālā have nappasasanti dānam;
    Dhīro ca dānaṃ amodamāno,
    tene’va so hoti sukhi parattha
  • ケチな人は天界に赴かない。 愚か者は与えることを賞賛しない。
    智恵のある人は与えることを喜ぶ。 それによって、来世も幸福になる。
  • (Dhammapada 177)