パティパダー巻頭法話

No.302(2020年5月号)

命は縺【もつ】れている

自己観察者は縺れを解く Life is bonded

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Jaṭāsuttaṃ(SN 1.23)
縺れ経(相応部 1.23)

  • “Anto jaṭā bahi jaṭā, jaṭāya jaṭitā pajā;
    Taṃ taṃ gotama pucchāmi, ko imaṃ vijaṭaye jaṭa”nti.
  • “Sīle patiṭṭhāya naro sapañño, cittaṃ paññañca bhāvayaṃ;
    Ātāpī nipako bhikkhu, so imaṃ vijaṭaye jaṭaṃ.
  • “Yesaṃ rāgo ca doso ca, avijjā ca virājitā;
    Khīṇāsavā arahanto, tesaṃ vijaṭitā jaṭā.
  • “Yattha nāmañca rūpañca, asesaṃ uparujjhati;
    Paṭighaṃ rūpasaññā ca, etthesā chijjate jaṭā”ti.
  • 【女神】
    「内にも外にも縺【もつ】れあり
    人は縺れに纏【まと】われている
    ゴータマよ、それゆえそれを問う
    誰がこの縺れを解きうるか」
  • 【釈尊】
    「智慧人として戒【かい】を保ち
    心【しん】と慧【え】とを修習【しゅじゅう】する
    賢明にして、熱心な比丘
    かれはこの縺れを解きうる
  • 貪【とん】も瞋【しん】もさらにまた
    無明をも離れ脱したる
    漏尽【ろじん】にして阿羅漢【あらかん】なる
    かれらの縺れは解かれている
  • 名【みょう】も色【しき】も残りなく
    また有対【うたい】も色想【しきそう】も
    消滅しているところには
    その縺れは断ち切られる」と。
  • (経典和訳:片山一良『パーリ仏典第三期1相応部
    (サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版より)

祝福の言葉

五月の満月は佛暦二五六四年の正月になります。一切の生命の間でもっとも崇高な方であり、正等覚者である釈迦牟尼仏陀を日夜敬う目的で、釈尊が涅槃に入ったその日から始まる佛暦を考えたのです。その長さでは、現在使われているどんな紀年法よりも長いと思います。仏教徒たちのお正月であり、お釈迦さまの降誕・成道・般涅槃の三大聖事を祝って、皆様の健康と幸福、世界の安穏と平和を祈念いたします。

命とは縛りにしばられているもの

生命は、特に人間は、自由を求めている。仏教の目指す目的も、完全たる自由です。覚りに「解脱」と言います。それは、「生きることは受刑者のような生活で、そこから完全脱獄した」という意味にもなります。解脱を目指す人々は稀にもまれですが、自由を探し求めない人なんかはいないのです。それほど自由を切望するのは、さまざまな束縛で悩んでいるからです。希望どおりに物事は進まないからです。

束縛は何なのかと、一般的に考えてみましょう。第一に来るのは、身体の束縛です。必死に身体のメンテナンスをしなくてはいけないのです。自由はまったくありません。身体は物体なので、置く場所が必要です。ふたつあります。自分が住む家と、社会です。たとえ住む家があるとしても、人は動くものです。移動するたびに、身体の置き場所が必要になります。旅行する時は宿を取るが、居心地の良い場所に決まっているわけではない。通勤する時は、満員電車の中に身体を押し込まなくてはいけない。二番目に、身体を社会に置かなくてはいけない。これは簡単に解決できる問題ではありません。世界という大きい社会もあるし、国という比較的小さい社会もあります。どちらに合わなくても大変です。それから、細分化すると、家族、会社、自治会、学校、OB会、クラブ、趣味のサークル、その他さまざまな組織があります。自分の身体がうまく嵌るか嵌らないかが問題です。ただ、身体のことを考えても、生きることは縛りにしばりつけられているのです。

次に精神の問題があります。人は自由に考えていると勘違いしています。実際には、何を考えるべきか、どのように考えるべきかなどは、周りの社会から強引に教え込まれているのです。人は社会が決めたアルゴリズムに従順に思考しています。ロボットなら何の問題もありませんが、自分とは命がある生き物なのです。社会が決めたアルゴリズムは、うまく起動しないのです。それで問題が起こりますが、「社会に決められたとおりに生きなさい」という脅しにも悩まなくてはいけないのです。

さらなる問題は、精神と不可分の感情です。人には好き嫌いがあります。個人の好き嫌いにぴったり嵌った生き方は決してできないのです。好きなものを抑えて、嫌いなこともやらなくてはいけなくなる。これも一つの束縛です。その結果、ときどき感情が暴走します。その時は、精神病という扱いになります。すべての生命に感情があるから、生命は思考するというよりは妄想することになるのです。妄想だけは社会の規制を受けないので、自由の錯覚が起こります。しかし、一旦妄想をやめてみようとしたら、仰天するでしょう。妄想は止められないのです。自分勝手に濁流のように流れます。考える時間も、有効に生きる時間も、浪費してしまう。ということは、人は自分自身にも束縛されているのです。

女神の質問

人は内(心の中)に縺れている。
外(社会関係)にも縺れている。
生きることは縺れに縺れていることです。
釈尊にお尋ねします。この縺れを解くのは誰ですか?

女神は、生きることが束縛によって成り立っているのだと発見していたようです。しかし、生きる上で成り立つ束縛・縺れ・縛りを切って自由になることは本当にあり得るのでしょうか? たとえば、自分に家族や子供がいる。その束縛を一切捨てて、自由の身になれるのでしょうか? すべて捨てて逃げたからと言って、それは正しい選択なのでしょうか? 社会との関係を切って、森の中で野生生活をすることもできなくもないですが、それが正しい道なのでしょうか? 一人二人くらいなら実行できても、もし百人、二百人程度の人々が野生生活に挑んだら、結局はまた縛りにしばられた社会に変わるでしょう。社会がIT時代に変わってから、個人は昔より自由に生きているのだと思っているのです。本当にそうでしょうか? 現代人はさまざまな偽情報に、また正しい情報に、知らなくてもいい情報に、束縛されています。携帯依存症という問題が起きたほどです。ですから、「ほんとうに、自由とは何なのか?」という問題が起こります。自由について議論しなくてはいけない、という新たな束縛が生まれるのです。そういうわけで、「縺れを解く人は誰か?」と、釈尊に訊かなくてはいけないのです。

上座仏教の基礎文献

『清浄道論(Visuddhimagga)』というパーリ経典の注釈書の基本になるテキストがあります。かつて南インドのブッダゴーサ長老が、シンハラ語で記録されていた注釈書をパーリ語に翻訳・編集したいと大寺派の長老たちに申し出ました。彼にその能力があるのかと調べるために、大寺派の長老たちはテーマをあげて論文を書くように言ったのです。長老たちがあげたテーマはこの女神の質問と、それに対するお釈迦さまの答えの偈でした。テーマに取り組んだブッダゴーサ長老は、『清浄道論』という大作を書いて提出しました。今回は巻頭法話では、大事なポイントだけ取り上げることにいたします。

束縛の原点

なぜ束縛が起こるのかと、ブッダの教えから理解しましょう。人は色受想行識という五蘊(pañcakkhandha)に執着しているのです。ですから、五取蘊(pañcupādānakkhandha)と言うのです。単純に言えば、身体とこころのことです。こころという項目に、思考・感情・衝動も入っています。別に、世界は自分を束縛していないのです。人はよく「周囲に束縛されている」と言いますが、これは事実ではありません。自分が世界に執着しているのです。会社に束縛されているのではなく、自分自身が仕事を欲しているのです。生活に必要な収入を得たいから、自分自身で会社に束縛していただいているのです。会社にとっては、社員がいつ辞めても構わないのです。同じく、学校は生徒を束縛していないのです。そのように、項目ごとに考えても、「人は意図的に縛られている」という現実に目覚めることができます。わかりやすくするために、簡単な例を出します。子供がこのように言います。「お父さん、このオモチャを買って」。それでお父さんは、「なんで私がおまえにオモチャを買ってあげなくちゃいけないんだ? ぜったいオモチャは買ってあげない」と言えるのでしょうか? オモチャを買ってくれなかったといって、子供には何の攻撃もできません。警察に訴えても無意味です。せいぜい出来るのは、駄々をこねることくらいです。しかし、父親は子供に執着しているのです。ですから、「お父ちゃんなんか大嫌い」と言わせたくはないのです。人間だから、束縛は相互的です。子供が親に執着する、親が子供に執着する。自分が誰かに執着しているのに、その相手が自分に執着していない場合は、悩み苦しむのです。世間では、執着の奪い合い、争奪戦も起こるでしょう。世界のことを見ても、「縛り」の問題は解決できません。根本は五蘊に対する執着なのです。

智慧のある人は、問題は世界にあると思わないのです。縛りにしばられている問題は、自分自身の自作自演だと理解するのです。自己放火しておいて、火傷するのだ、死ぬかもしれません、と泣き叫んでいることだと理解するのです。色受想行識という五取蘊は、因縁によって成り立つ無常の流れです。自分と世界を感じる感覚器官は六つです。眼耳鼻舌身意です。それらも無常です。人は世界を知っているのではなく、眼耳鼻舌身意で色声香味触法というデータを感じているだけです。頭で現象を作らない限り、人に「花」も「家」も見えません。「音楽」も聴こえません。色声香味触法も無常で、現象の流れです。これらすべてを、止まっている実体だと勘違いして執着したのは自分の過ちです。一切の現象は無常であると発見する人に、縺れも縛りも成り立ちません。「ザルで水を汲めない」と知っている人は、ザルで水を汲まないのです。ザルで水を汲めると勘違いしている人が、永久的に苦労するのです。女神の質問に対する答えの真髄はこれです。これで、お釈迦さまの答えは皆様に簡単に理解できると思います。

釈尊の答え①――道徳を守る

執着・束縛が惹き起こす感情のままに、人は生きているのです。この感情を制御するために、人は身口意の行為を戒めなくてはいけない。それが道徳(sīla)です。簡単に言えば、お腹が空いたら食べても良いですが、美味しいからと食べてしまった場合は、その人は感情の奴隷になったのです。身体を守るために服を着るのは普通な行為ですが、流行に合わせてブランドの品物だけ探す人は、感情の奴隷です。こころに浮かんだ考えをそのまま吐き出す場合は、感情の奴隷です。聞く相手にこの情報が必要か否かを考えて、また、相手の気持ちを傷つけないように戒めて喋る人は道徳的です。

すべての人々は「これこそ道だ」と思って道徳を守るわけではないのです。現実は逆です。人々は、いかにして非道徳的な生き方をできるのかと考えています。バレたらまずい、という立場で生きています。一般人は道徳を嫌います。だから、お釈迦さまは理性のある人に話しかけるのです(naro sapañño)。理性ある人が、生きる上で道徳を基礎にするのです(sīle patiṭṭhāya)。人は束縛されたまま生きるべきではありません。「束縛は自分自身から発生するものだ」と発見しなくてはいけない。だから、世間のことで混乱しているこころに落ち着いて貰わなくてはいけないのです。それから、ものごとを客観的に観察しなくてはいけな(cittaṃ
paññañca bhāvayaṃ)。無始なる過去から輪廻転生している生命は、無始なる過去から束縛に負けてきました。だから、お釈迦さまが教える道を実践するのは、少々難しいかもしれません。智慧のある人は、あきらめず励まなくてはいけない。その道を歩む人々は、だいたい出家しています。出家とは、「社会との束縛を切った人」という意味です。仏教の出家は比丘と言います。比丘が精進努力するのです(ātāpī nipako bhikkhu)。その人が、この縺れを解くのです(so imaṃ vijaṭaye jaṭaṃ)。

成功者の心境

お釈迦さまはさらに、縺れを解くことに成功した人の状況まで説明します。成功者のこころに、欲(rāga)、怒り(dosa)、無知・無明(avijjā)が一切ない。つまり、煩悩を根絶しているのです(khīṇāsavā)。阿羅漢(覚者)になっているのです(arahanto)。このような人は、縺れを解いた人と言います(esaṃ vijaṭitā jaṭā)。

すべての存在は、nāmaとrūpaという二つに分けられます。Nāmaとは、こころ(精神)の世界です。Rūpaとは、物質の世界です。人はその両方の組み合わせで出来ているのです。外の世界も、nāmaとrūpaです。煩悩・執着ある生命は、限りなくnāmaとrūpaを作り続けます。前の説明に合わせて考えましょう。縛りは自分自身のはからいです。自分が外の世界を自分に縛っておくのです。こころにある煩悩・感情にも、執着があります。だから、感情も次から次へと育ててゆくのです。Nāmaとrūpaに対して自分のこころに束縛があるので、「nāmaとrūpaを作り続けなくてはいけない」という罠に嵌っているのです。縺れを解いた人のnāmaとrūpaは、寿命が尽きたら消えてしまいます。新たなnāmaとrūpaを作らない、作る必要はないのです(yattha nāmañca rūpañca, asesaṃ uparujjhati)。怒りは、物質にこころが当たることで起きます。眼に入った情報が、こころが受け入れたくない情報であるならば、拒絶反応が起こります。それが怒りです。口に入った味の情報が、こころが受け入れたくない場合は、「まずい」という拒絶反応が起こります。それも怒りです。こころの希望と外の状況が合致しない度に、こころに怒りの感情が生じるのです。縺れを解いた人には、その問題も起きません。なぜならば、束縛を切ったのでこころに何の希望も期待もプログラムもないからです。ですから、「世間に当たる」という現象は起きません。たとえば、「晴れると期待したのに雨が降った」とします。それで嫌な気持ちになるでしょう。嫌な気持ちは「怒り」です。お釈迦さまは、すべてのものごとに対して期待してしまう、という間違いをrūpasaññāという言葉で語られています。Paṭighaとは、怒りのことです。Rūpasaññāとnāmasaññāを超えた人こそが、縺れを解いた人だというのです(chijjate jaṭā)。

不可能を可能にする

生きるという行為は、縛りによって成り立っています。生きるとは、何かに自分を縛りつけていくことです。縛ろうとする自分も縛ろうとする対象も無常なので、絶えず苦労しなくてはいけないのです。シャボン玉を置物にしておくような努力です。一般常識的に考えると、縺れを解くことは不可能です。自分の子供を捨てなさい、というような言葉になります。質問した女神も、「解ける人がいるのか?」という疑問を持っていたかもしれません。「この問題を解くことは不可能である」という考えに対して、お釈迦さまは「あなた方のアプローチが間違っているのだ」と指摘します。世界があなたを束縛しているのではなく、あなたに世界を束縛しようとしているのです。ですから、あなたが自分の問題を解決したら、解決不可能な問題が解決可能な問題になるのです。そういうわけで、仏教では執着について語る場合は、問題を五取蘊に集約するのです。または、眼耳鼻舌身意と色声香味触法の関係に集約するのです。

今回のポイント

  • 生きることは、縛りに縛りつけられていることです
  • ふつうの人に、縛りを解くことは不可能です
  • 世界があなたを縛りつけているのではありません
  • あなたが世界を自分に縛りつけようとしているのです
  • 縺れを解くためには、理性と観察能力が必要です