パティパダー巻頭法話

No.164(2008年10月)

悟れないのはなぜ?

こころに「怠け」という病がある Why procrastinate?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

お釈迦様に真理を語られているのに、誰にでも簡単に実践できるように明確に指導されているのに、お釈迦様の教えに誰でも簡単に納得できるのに、語られたものが事実でないと未だかつて誰にも証明することは出来なかったのに、カルト的・迷信的特色は一つもないのに、苦行は否定しているのに、特別な宗教的なしきたり習慣などはひとつも要求していないのに、人々の伝統や習慣などにまったく逆らわないのに、仏教を実践してみようという人々の数は少ないのです。その実践する数少ない人々の中でも、悟りに達する人々はまた稀なのです。それはどういうことかと、今月考えてみたいと思います。

問題が起きたら他人に指をさして、他人のせいにしたがるのは、当たり前の習慣になっています。誰でも「私は悪くない」と言い張りたい気持ちでいるのです。ですから、今日の問題についても、何か仏教が悪いのではないか、というポイントも先に調べておきます。経典はとてもシンプルで語られています。分からない難しいポイントも、様々な例えを用いて何回も繰り返し説明されています。理解できないと言い切ることも出来ないと思います。修行は難しくて、まれな人間にしか成功できないと強調しているのかというと、まったくその反対です。釈尊は、正直な人なら誰でも悟りますよと立場なのです。『四念処経』の終わりの節で、実践を成功するためにかかる時間についてもあえて説くのです。明確に強調したいので、はじめは、七年で成功するのだ、と説かれるのです。七年で解脱の目的に達するのだと保証することさえも、この世で大変珍しいことです。そんな大胆な約束は、他宗教では誰もしません。お釈迦様と同時代で人気があったジャイナ教でも、苦行には十二年かかりますよと言われていました。神様を信仰する諸宗教では、目的に達するためには人類の最終審判まで待たなくてはならない。それなのに、お釈迦様がたった七年でも精進するならば、解脱という目的に達するのだと保証するのです。経典はそこで終わりません。七年もかからないのだ、六年で充分だと、かかる時間を減らしていきます。順番で減らして、たった一週間でも精進すれば、理性のある人が最終目的に達するのだという言葉で経典を終了するのです。

ですから、人が悟りに達しない理由は、経典に問題があるからだとは思えません。経典の分からないところは、詳細に注釈書で説明してあります。注釈の仕方に特色があります。注をするフレーズの意味を説明することだけに限らず、その箇所で理解してほしいと思うポイントはほとんど説明するのです。パーリ仏教を全体的に理解したいと思う人々は、『清浄道論』というテキストを読みます。このテキストでは、パーリ仏教の内容と修行方法を網羅して解説しています。ですから、このテキストを読めばだいたい理解できるだろうと思ったとしても無理はありません。しかし、このテキストがなぜ作られたのかというエピソードもあります。ブッダゴーサ長老がインドからスリランカの大寺を訪ねて、「シンハラ語で記録されていた注釈書をパーリ語に翻訳するならば、世界中の仏教徒の役に立つのだ」と言いました。大寺派の長老方はその必要性は認めたものの、インドから来たブッダゴーサ長老が、どこまで仏教を理解しているのかと調べなくてはならなかったのです。なぜならば西暦五世紀頃という時期になると、インドでは大乗仏教の宗派が流行っていたからです。ブッダゴーサ長老にサンユッタニカーヤの偈をひとつ与えて、注釈を書くように命じました。『清浄道論』は、ブッダゴーサ長老が大寺派に提供した自分の論文なのです。ですから、知っているものは関係あるものは何でも書かなくてはならないと思ったに違いありません。瞑想のセクションに入ると、サマーディ瞑想、ヴィパッサナー瞑想に関わる情報をいっぱい入れたのです。個人で修行する時は、そのテキストに書いてあるものはすべてできない、ということは明白です。修行方法は、自分で自分の性格にあうものを決めるか、師匠に選んでもらう必要があるのだと、『清浄道論』にも書いてあります。あまりにも迫力に富んで書いてあるから、読者は何でも実践したくなる気持にもなります。同時に、「できるわけがない。悟りに達することができたのは昔の人々だけです」というあきらめにも陥るのです。経典をよりどころにしないで、注釈書をよりどころにすると、修行はまず難しい作業になりかねません。しかし、経典をよりどころにして修行をはじめると、注釈書はこの上のない助けになるのです。悟りに達することができない理由は仏教にあるというならば、挙げられるものは、ここまで説明したことくらいです。結論として言えるのは、問題は教えにあるわけではない、ということです。

お釈迦様の時代ででも、お釈迦様に直々指導を受けられることができたにも関わらず、悟りに達することができなかった人々もいました。経典でも、それは隠していないのです。悟りに達することが出来なかった人々のケースも、記録してあります。スナッカッタというリッチャヴィ族の人が、仏教を棄教して還俗しました。このことについて、バッガワゴッタという遊行者が、釈尊に事実か否かと聞いたのです。お釈迦様は、その通りですと認めました。お釈迦様がスナッカッタに、出家を止めること、仏教を棄教することは、リッチャヴィ族の一人として大変恥ずかしいことではないかと注意したことも説かれました。それから、彼の考えの間違いについて、説明したのです。このエピソードは、長部経典の二十四番目、パーティカ経に記してあります。

「教師が悪かったから、学校でいじめられたから、勉強できなかった」「親が厳しかったから、いま自信のない人間になってしまった」などの言い訳は、よく聞きます。しかし、教師が悪かったからこそ、自分一人で励んで抜群の知識人になるケースもあります。親が厳しかったからこそ、素晴らしい人間として成長するケースもあります。よい学校に入ったのに、やさしい理解のある親に育てられたのに、ろくでもない大人になるケースもあります。それをまとめて結論すると、問題は環境にありきではなく、自分が環境にどのように対応するのか、ということになるのです。修行の場合も、教えが悪いのではなく、一人ひとりがその教えに対してどのようなアプローチをするのか、ということによって、結果が変わります。前のエピソードにでたスナッカッタは、超能力に惹かれて出家しました。釈尊に、大道芸人のようにいたる所で超能力を見せて、歩んでくれることを望んだのです。これは仏教の本旨と正反対なので、彼が還俗することになりました。

仏教を学んでも、仏教徒になっても、解脱に達しない理由について、釈尊が説かれたいくつかの原因を考察してみましょう。第一に挙げられるのは、「怠け」です。修行しない人も、修行しても悟りに達しない人も、釈尊から「怠け」と言われます。怠けと呼ばれることは、誰でも嫌がります。怠けと言わせまいと、闇雲に苦労する人もいますが、結果を出さなかったら結局は怠けになります。

怠けとは、単純な性格的な問題ではありません。一切の生命にある根深い本能の一つです。誰も認めたくはないが、生きることは苦なのです。生きるとは、苦しみから逃げる行為です。苦しみから逃げて、安全を確保すればよいのに、生命は苦しみから苦しみへ逃げまわります。逃げた場所も安全ではないので、また別な苦しみへ逃げなくてはならない。そうなると無限に逃げる羽目になるのです。輪廻というのは、こういうことです。長く座っていると苦ですから、立ちますが、次に、立っていることが苦になるのです。吸ったら苦しくなるから、吐きます。しかし、吐いたらまた苦なので、ふたたび吸わなくてはならない。そうして、終わりなく吸ったり吐いたりするのです。生命のこころの中には、この苦しみは何とかならないのか、ホッとすることはできないのか、という気持ちがひそんでいます。我々は、生きる上で行っている勉強すること、仕事すること、掃除洗濯料理することなどなどは、できればやりたくない。でもそうはいかないので、行っています。「できれば止めたい」という気持ちは、怠けなのです。

できれば止めたい、という気持ちに従って、やるべきことを怠ったら、楽になるどころではありません。耐えがたき苦に陥ります。やりたくないからといって、仕事、勉強などを止めてみれば、瞬間も楽にならないのです。長きにわたって、苦しみを経験しなくてはいけなくなります。怠けたい気持ちは一貫してあるので、どんなことにも邪魔します。勉強しても、期待通りの結果は出ません。仕事をしても、期待通りの収入になりません。幸福になるだろうと思って、社会を発展させても、期待通りにはなりません。

生きることは苦であると、解脱に達することが究極な幸福であると、何となく理解して修行に励んでみても、怠けが邪魔するのです。怠けに負けたくない人は、何かをする時はがむしゃらに、やみくもに、やろうとはしません。がむしゃらにやること自体も、怠けです。どのように工夫すれば期待通りの結果になるのかと、結果を中心にして考えることです。「ご苦労さん」では嫌なのです。仕事自体が苦しいか楽かではなく、善い結果になるか否かを気にすることです。善い結果になるならば、仕事が苦しいと思わないのです。

善い結果を出すことが肝心だというポイントから見ると、がむしゃらに頑張ることは正しくないと分かるはずです。つねに状況を観察して、方法を改良する必要はあるのです。理性でものごとを判断する能力も必要です。信仰で、盲信で、当てずっぽうで、物事に挑戦するものではありません。仏道の修行についても、言えるのは同じことです。悟りとは、智慧の完成です。であるならば、若いうちに修行した方が結果は早いに決まっています。体力のある若い人に限って、怠けものです。なんでも他人が親切にしてくれると思っているのです。若い時は食べること、遊ぶこと、寝ることなどは自分の本業だと思っているようです。後でどうしても真剣真面目に生きていなくちゃいけないので、いま遊んで、ふざけて生きていても損はしないだろうと勘違いするのです。体力のいる仕事は、体力がある時、行うべきです。智慧が要る仕事は、智慧がある時、行うのです。これは、「時期」ということです。怠けたくない人は、時期という条件を決して無視してはならないのです。歳を経て、体力がなくなって、物忘れが激しく、横になったところで、「やることは何もないから修行でもするぞ」と思っても、時期がずれています。修行というのは、家族、子供、仕事などの責任や問題がない若い時、行うならば、時期です。時期をずれることが、正真正銘の怠けです。

怠けものには、もう一つの病気がおまけに付いてきます。それは言いわけになると雄弁であることです。経典では、分かりやすくこのように語られています。怠けものは、「暑すぎだからいま仕事はできません。いま寒すぎだから仕事はできません。いまお腹が空いているから……。いま満腹だから……。いま午後だから……。いま朝早いから仕事はできません」などと言いわけするのです。時期を見失うのです。まだいろいろあります。「あの人の言い方が悪かったので仕事をしなかった。みな遊んでいたから私だけ仕事するのはアホらしくなって止めてしまいました。仕事自体はたいしたことはないのでしないことにした」などなどの言いわけもあります。時期をずれるために言いわけを探す人は、生涯、時期をずれるのです。物事は自分の希望通りに動くものではありません。待てないのです。春は気分がいいので、畑仕事は後回しにして遊んだら、ダメなのです。別な例えで考えましょう。妊婦に陣痛が起きたとしましょう。その時、「今日友達と食事をする約束したので、お産は明日にします」とは、できないのです。人生では、「そのうちやります」は成り立たちません。怠けものの頭は、様々な言いわけの妄想で、いっぱいです。言いわけそのものが、妄想です。いつでも人に「いまやるべき仕事」ということがあるのです。それは、いま行うもので、明日行っても意味がない。いまお腹が空いているならば、明後日ご飯を食べればいいことにも、先週ご飯を食べたからいま食べなくてもいいことにも、ならないのです。成り立たない妄想で頭が回転すると、知識能力と理性があとかたもなく消えてしまいます。妄想に陥ることは、精神病を招くことになるのです。

怠けものの中でも、時々、面白い性格の人々もいます。それはギリギリのところになったとたんに、焦っておびえて、がんばってみることです。二年間も怠けて遊んでいて、試験の一週間前から徹夜して勉強するのです。突然頭がよくなるわけがありません。結果は、試験中いびきをかいて寝ることになって、試験官に怒られて恥をかくのです。お釈迦様の時代で、舎衛城のあるグループが出家して、瞑想指導を受けて町を離れて森に入りました。一人だけ、修行に行かないで町にとどまったのです。森に入った比丘たちは、三ヶ月を過ぎたところで悟りに達してから、舎衛城に戻り、お釈迦様に会いました。お釈迦様はとても喜んで、時間をかけて親切に話をされました。これをみたあの比丘が、私も一晩で悟ってお釈迦様に気に入られるようにするぞと、徹夜して瞑想したのです。暗闇で歩行瞑想する時、つまづいて倒れて足の骨を折ってしまった。彼の大声で、仲間の比丘たちが集まって朝まで手当てをしたのです。阿羅漢になった比丘たちには、ある信者さんのお布施を受ける約束があったのに、それにも行くことができなくなりました。切羽詰まったところで、闇雲にがんばっても、怠けものは結果を出さないのです。

今回のポイント

  • 努力しても成功に達する人は少ない。
  • 修行しても悟りに達する人はまれである。
  • 成功に達しない理由は怠けである。
  • がむしゃらに闇雲に頑張ることも怠けです。
  • 怠けはとても危険な病です。

経典の言葉

Dhammapada Chapter XX MAGGA VAGGA
第20章  道の章

  • Utthānakālamhi anutthahāno,
    Yuvā balī ālasiyaṃ upeto;
    Samsannasankappamano kusīto,
    Paññāya maggaṃ alaso na vindati.
  • 起きるべき時起きもせず 若き力の怠け癖
    分別もなく覇気はきもなく 怠惰は智慧の道を得ず
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 00)