No.185(2010年7月)
仕事とはどんなもの?
盗取受用の話 Livelihood, a necessary evil.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXⅡ NIRAYA VAGGA
第22章 地獄の章
- Seyyo ayogulo bhutto Tatto aggisikhūpamo
Yañce bhuñjeyya dussīlo Ratthapindamasaññato
- 戒を守らず 自制せず 天下の
施食 受けんより
赤き炎に焼かれたる 熱鉄丸を喰 むがよし - 訳:江原通子
- (Dhammapada 308)
地球上に生きている全ての生命のいのちは、地球と太陽の恩恵によって支えられています。地球は生命誕生に適した環境に徐々に変化していったので、生命が現れたのは何ら不思議なことではありません。
地球と太陽の関係で生命の維持管理ができているのも極めて自然なのです。ですから、生きている生命が天に感謝しようがしまいが、何も不思議なことは起こりません。天が感謝する人に特別に恵みを与える、感謝しない人をいじめる、などのことはあり得ません。
人間という種の生命の脳は異常に発達していたので、環境からの影響で感じる喜び・幸福も、恐怖・不安感も、他の生命よりも異常にインパクトが強いものになってしまいました。そこで人間が、天に感謝する習慣を作ったのです。天の異変で人間のいのちが危うい状態に陥ることが度々なので、ただ感謝するだけではなく、天の機嫌をとる、天の怒りを鎮めてもらう、などの習慣も作りました。かつては人間を生け贄にしてでも天の機嫌を取ろうとしたこともあったのです。それに対比して、他の生命は天に感謝することも怯えることも無く、ふつうに生き続けています。動物は自分で獲物をとって食べますが、獲物の一部を天に感謝して供養することはないのです。楽に生きる動物たちを恨む人間が、「人間には魂がある。動物には魂がない」という自己優越主義を作ってしまったのです。(動物たちはそんなこと知らないから、人間は安心して自己優越主義を貫くことができます。)
地球と太陽がすべての生命を支えています。しかし、人間と他の生命の間では、もう一つ違うところがあります。動物は生きるために農業、牧畜などはしません。自然の恵みそのもので生きているのです。
ですから、環境が変わってしまうと、絶滅状態にも陥るのです。誰であれ、生命が生きていることによって地球環境は変化しますが、地球に耐えられない処までは決して行かないのです。
しかし人間は、農業、牧畜、商売などで生計を立てています。それで、環境をわざと変えるのです。その上、料理を作ったり、服を作ったり、建物を造ったりまでする。動物も住処ぐらいは作る場合があります。しかし動物たちに環境破壊は不可能です。人間が生きるために、自然の恵みを操ってはいるが、自然環境を乗り越えたわけではない。環境を操って生計を立てても、人間の命は昔も今も地球と太陽が支えているのです。
脳が異常変化を起こさなかったならば、人間も自然のままで生きたことでしょう。人間の身体は他の生命の身体より極めて弱いので、生き延びるためには脳に頼るしかなかった。そこで、この世に「仕事」という現象があらわれてしまったのです。仕事とは、自然の恵みに加えた人為的な行為で、生命を支えてもらうことです。仕事という現象も、何種類あるのかと言えないほど多種多様です。農業、漁業、畜産業、という三つの仕事は、分かりやすいのです。しかし、音楽も踊りも仕事なのです。政治、軍事、茶道、華道、芸術評論、文学なども仕事です。カジノ、競馬、競輪、競艇のような仕事もあります。生命を支えるために、どこまで欠かせないものかは、よく分からないのです。しかし人間が人為的に作った仕事なので、それらから収入を得て生計を立てていくのです。結果として、自然破壊に加えて「精神の破壊」まで起きてしまったのです。生きるために行った仕事で自然破壊という現象が起きて、生きることはさらに苦しくなりました。精神破壊もそれに加わったので、人間が極めて悩み苦しむはめになったのです。人間だけが戦争をして、仲間を殺すのです。親が子供を殺し、子供が親を殺すのです。人間だけが自殺もするのです。
『生きていきたい』という生命の本能は、人間になると『「何としてでも」生きていきたい』という本能に変わったようです。お釈迦様はこの現象を「渇愛」という言葉で表現しています。しかしこの用語は、人間の生きる本能だけではなく、すべての生命の生存本能を意味しています。「生きていきたい、死にたくない」という本能が、その目的を実現する方向ではなく、生きることを妨げる衝動になっているのは理解できると思います。お釈迦様が「完全たる幸福に達したい人は渇愛を残りなく絶つべきだ」と説かれたのは、完全無欠なアドバイスなのです。我々俗人の言葉に翻訳すると、「死に物狂いで頑張らなくても、生きていられる」ということになります。
それから、別なポイントを考えてみましょう。生きるとはどういうことでしょうか? 簡単な答えは、「他の生命のいのちを奪うこと」です。自然の恵みを直接いただく場合は、空気、水、太陽の熱、だけになります。植物は自然の恵みを直接受けて成長するのです。しかし子孫を残すことになると、他の生命の助けを借りなくてはいけないこともある。植物はその仕事にちゃんと報酬を渡すのです。リンゴ、マンゴー、カボチャなどの例を考えれば、その意味が理解できるでしょう。人間にも他の生命にも、石、土、鉄などは栄養になりません。植物か他の生命を栄養として摂らなくてはいけない。それで、弱肉強食という摂理になっているのです。冷静に考えてみれば、生きるとは残酷な行為です。残酷だと分かっても、どうしようもない。生存本能があるからです。もし生きることに尊い意義があるならば、たとえ残酷な行為をしてでも、生きていることに理由づけができます。そこでお釈迦様が、生きることの意義を探求したところで、それを発見したのです。その答えは、「生きることは苦である」です。意訳すると、生きることは無意味で何の意義もない、ということになります。では、どうすればよいのでしょうか?
生きることを脱出する(解脱)しかないのです。
その仮説が合っているか、実現できるかは、次の問題です。そこでお釈迦様が自ら実践して、脱出に成功されました。「解脱」という仮説が真理として証明されたのです。脱出法は、皆に向けて語られました。その気さえあれば、誰にでも実行出来るものでした。
たくさんの人々が、お釈迦様の説かれた実践方法を実行して脱出に成功しました。お釈迦様が語られた真理はそのとおりであると、無数の第三者の実験によっても証明されているのです。
しかしその道は、いのちを、生きることを讃えながら実行しようとすると無理が生じます。(獄中生活を最高に幸せだと認めつつ、脱獄は図れないものです。)お釈迦様はその解決策の提案として、「出家」という組織を創設したのです。出家組織の一員になる人は、いのちを賛嘆するのではなく、生きることを脱出する目的を持つべきなのです。当然な結果として、出家生活は在家生活とは違います。他宗教でも、俗人と聖職者という区別はあります。他宗教の聖職者も、何らかの俗人と違った生活習慣を行ってはいるのです。しかしそれは、仏教の出家とは似ても似つかぬものに過ぎません。それには理由があります。
すべての宗教は、生きることは尊いことだ、尊い目的があって生れてきたのだ、と思っているのです。
そこが勘違いなのです。万物の霊長、という言葉が示すように、人間だけが魂を持っている尊い存在だと、理由もなく立証することもなく、データもなしに言い張っているのです。ですから、何か変わったことをやっただけで、出家、聖職者になるわけではありません。何か変わった行いをしただけで、真理に達するわけでもないし、修行していることにもならないのです。世間にある無数の修行方法を一言にまとめてみると、「俗人と違った何かをやる」ということになります。
仏教の出家は、「仕事」をしない。経済活動に参加しない。変な組織だ、という気持ちは、仏教に詳しくない日本の方々の間でも流行っています。出家が妻帯しないことも、不自然な行為だという人がいます。しかし、神父が結婚しないことは批判しませんね。
いままでの説明を理解してみると、出家は仕事をしてはならない、というのは当たり前の道徳になるとお分かりになるでしょう。仕事とは、「何としてでも生き続けること」です。出家は「脱出」を目的にしています。人は仏教で出家しても、そもそも人間であることは変わりありません。自然の恵みをそのまま直接受けることは不可能です。しかし、弱肉強食の悪循環から逃げなくてはいけないのです。それで、出家仏弟子は托鉢して、在家の人々が料理したものの一部をいただくのです。
当然、托鉢に様々な決まり、規則が成り立ちます。
たとえば、お布施を要求することは禁止です。もし要求するならば、それに対応するために、在家が余分に仕事したり、料理を作ったりすることになるのです。弱肉強食の悪循環に堕ちたことになります。料理していない生のものをいただくことも禁止です。
布施をする側が、自分の意志で、自分の判断で、その行為を行わなくてはならないのです。
エピソードがあります。これはお釈迦様が戒律を制定しはじめた初期時代の話です。ワッジー国にあるワッグムダーという河のそばに庵を作って何人かのお坊さんが住んでいました。その時、ワッジー国では稲穂が白くなる病気が流行り、大凶作に悩まされていました。国民は皆、食べ物で困っていたので、比丘たちが托鉢に出かけても、食事と言えるまともなものは何も貰えなくなったのです。そこで皆、不況を乗り越える方法を考えました。ある比丘が「ワッジー国民の仕事をしよう、仕事をすれば向こうも食事を与えなくてはいけなくなるだろう」と言いました。その意見に反対した他の比丘は「仕事をするのはよくない、代わりに言伝(ことづて)の仕事をしよう」と言いました。また他の比丘が「言伝係の仕事はよくない」と言って最後にこう提案しました。「我々は互いに褒めることにしよう。あの比丘は預流果に達している、あの比丘は一来果に達している、などと言い合おう。
そうすれば、信仰が篤いワッジー国民は我々に食べられるものをお布施するだろう」と。この提案でも、「私は預流果だ、私は悟っているのだ」などと言わないことにしたのです。しかし、一人が他人を褒め、他人が自分を褒めるから、誰も損はしないことになります。「いい提案だ」と賛成したこの比丘たちは、結果として、たくさんお布施を貰ったのです。
この出来事はお釈迦様の耳に入りました。覚りの初期段階である預流果に達した出家であっても、自分を褒めて、また他人に褒めてもらって食を得るということは、決してしないのです。覚った人は、当然、「出家」の目的と「出家の生き方」を知っています。間接的にでも食事を要求することは、生きることを賛嘆することになります。出家は生きることを脱出する目的でするものであり、生きるために出家はしないのです。お釈迦様が、その比丘たちを呼び、噂は事実かどうかを本人に訊きました。本人たちもうまいことをやって生き延びることができたと、報告しました。
お釈迦様は、彼らの行為を徹底的に批判しました。
出家は修行の結果として達した超越的な能力を、たとえ第一禅定であっても、言いふらすことはよくない、という立場です。本当に超越的な能力に達しているならば、他人にそれを言いふらしたくはならないのです。他人を戒める目的、修行者に勇気をつけてあげる目的、仏教は効果的だと他人を説得する目的であれば、自分が達した能力を言ってもよいのですが、それもしないのが普通の常識です。もし超越的な能力に達したこともない人が、達したがごとく語るならば、それは単純な嘘よりひどい嘘なのです。
他人から尊敬してもらうために、他人に認めてもらうために、たくさんお布施をいただくために行う詐欺行為になります。もしその罪を犯したならば、出家として失格になる、とお釈迦様が戒律を制定されたのです。その罪を犯した人は、その瞬間から「在家」になります。「出家」ではなくなると定められたのです。
それから、お釈迦様がこのように説かれました。
「戒律に従わず、他人のお施物を食べるよりは、赤くなるまで熱した鉄の玉を食った方がよい。結果はせいぜい死ぬだけだ。戒律を犯して他人の施物を食べ、死後、地獄に堕ちて受ける苦しみとは比較すれば、大したことではない。」
この説法で、お釈迦様は ratthapinda という言葉を使います。 Rattha は、国という意味です。pinda は当然、食べ物になりますが、財産、産物、という意味もあります。出家は経済活動から離れているので、すべての国民の生産物は「国の財産」ということになるのです。在家の場合は、個人財産と国の財産という二つがあります。国の財産とは、他人の財産とも言えるのです。戒律を守って、解脱に挑戦する比丘であるならば、人の施食を受ける権利が生じています。解脱に挑戦するどころか、戒律さえも守らずにいる出家には、食べる権利は成り立っていないのです。食べる場合は、それは「盗食(盗取受用)」という行為になります。
この決まりから、在家が適用外と思われたら、大いに勘違いです。在家に受容する権利があるのは、自分で仕事をして得た財産のみです。国の財産は、別な目的で使うものです。国に雇われることなく、国に貢献する行為をすることもなく、国の財産を使うことも、盗食行為になる重罪です。個人の物を盗むより、重い罪です。私は自分の主観でその盗罪を計算することにしました。人の物を盗む罪は、盗まれた人の財産を使用する権利者の数で掛け算しなくてはいけない。妻と子供三人がいる人のものを盗んだら、「盗罪×4」になります。国の財産をみだりに取ったら、「盗罪×国民の人口」になります。これはあくまでも、私個人の戯れの計算です。決して仏説だと勘違いしないで下さい。生きることは、たいへんです。
今回のポイント
- 我々のいのちは地球と太陽によって支えられている
- しかし生きるためには「仕事」をしなくてはいけない
- 仕事は自然の破壊行為にもなります
- 人間が開発している仕事では精神破壊も起こります
- 盗食にならない生き方をするべきです