No.59(2004年11月号)
油鉢物語①
Telapatta jātaka(No.96)
ある時、シャカムニブッダはスンバ国のデーサカという町の近くの森におられ、弟子たちに次の話を語られました。
「比丘らよ、国で評判の絶世の美女がいて、多くの人々が集まっているとする。美女は魅惑的に歌い、踊り、人集りは増える一方で、その場はものすごく混み合っている。そこにある男がいる。男は『生きていきたい、死にたくない、安楽でありたい、苦を免れたい』と願っている。ところがある事情で、『油をいっぱいに満たした鉢を持って、この群衆の中を歩け。おまえの後ろから刀を抜いた者がついて行き、たとえ一滴でも油をこぼしたら頭を斬り落とすぞ』と脅されているのだ。比丘らよ、その男は油で満たされた鉢を持ち、何の注意もせずに歩くことがあるだろうか。」
「いいえ、尊師。男は必死の注意を払わずには歩かないでしょう。」
「比丘らよ、これは修行のたとえ話です。『油を一滴もこぼさないように』とは、身体に関する気づき(サティ)のたとえです。あなた方は、身体に関する気づきを、そのように修行し、完成させなければならない。修行者は、油で満杯の鉢を一滴もこぼさないように注意深く運ぶ男のように、必死で気づきを保ち続け、修行を完成するのです。」
「尊師、この男のように、絶世の美人を見ることもなく、大勢の群衆の中を、油で満杯の鉢を一滴もこぼさずに運ぶというのは、とても難しいことだと思います。」
「比丘らよ、それは難しくはない。むしろ簡単なのです。なぜならば、男の後ろには剣を抜いた者が付き従い、彼を狙っているからです。 そのように脅されるのであれば、気づきながら行くことは難しくないのです。
その昔、賢者は自ら精進して気づき(サティ)を捨てずに五官(眼耳鼻舌身)を制御し、天女のように美しく化けた夜叉(鬼神)にも惑わされず、王位についたことがあった。これこそ真に難しいことなのです」と。
そしてお釈迦さまは、次のような過去の話をされました。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は王子として生まれました。菩薩には百人もの兄弟があり、彼は末っ子でした。成長した菩薩は、「こんなに多くの兄さんたちがいる私に、この国で領土を得ることができるだろうか」という疑問をもちました。ある日、王様のお城で、独覚ブッダ(独りで悟った聖者)に食事を供養することになりました。菩薩は自分の疑問を智慧者である独覚ブッダに相談しようと思い、お城に行って独覚ブッダの足を洗い、お食事のお世話をしました。独覚ブッダが食事を終えられると、きちんと礼をして、傍らに坐りました。そして、「先生、私には多くの兄たちがいます。私はこの国で領土を得ることができるでしょうか」と質問しました。
独覚ブッダは次のように答えました。
「王子よ、あなたはこの国では領土を得られないでしょう。ここから百二十ヨージャナほど離れたガンダーラ国にタッカシラーという町があります。今日から七日目にそこに着けば、領土を得ることができるでしょう。
しかし、七日間でタッカシラーに到着するためには、夜叉たちの住む森の中の難路を通らなければなりません。森には女の夜叉たちがいて、金を散りばめた天蓋のついた臥所のある豪華な家を造り、色とりどりに美しい布で飾って、男たちが通るのを待っています。女夜叉は天女のように美しく化けて、男たちを誘惑するのです。男たちが家に入ると、魔力で彼らを惑わせて煩悩のとりこにし、あげくの果ては、男を血まみれにして、骨だけを残して食べてしまいます。
女夜叉たちは、容色を好む者には美しい天女を装い、音を好む者には天の美声で歌い、香りを好む者には天の香りをかがせ、味を好む者には天の味覚を味わわせ、感触を好む者には天の臥所をもって惑わすのです。もしあなたが正しく五つの感覚器官を制して眼耳鼻舌身を護り、気づきを保ち、自分を失わずに行くならば、タッカシラーに着いて領土を手に入れることができるでしょう」と。
菩薩は、「先生、あなたの教えを聞いた今、どうして夜叉などに惑わされることがあるでしょう」ときっぱりと言って、独覚ブッダに守護の祈念をしてもらい、お守りの砂と糸をもらいました。そして、独覚ブッダと両親に別れの挨拶をし、いったん自分の家に戻りました。
菩薩には五人の家来がいました。菩薩は家来たちに、「私は領土を得るために、タッカシラーに旅立つことにした」と告げました。家来たちは「王子様、私たちも一緒に行きます」と言いました。「それはダメだ。タッカシラーに行くには、恐ろしい女夜叉たちの住む森を通らねばならない。夜叉は、天女のように美しい女に化けて、色香や美声、味や香りなどで、森を行く男たちを惑わすという。私は十分気をつけるからだいじょうぶだが、おまえたちは危ない。」「あなたと一緒にいて、そんな女に惑わされることがあるでしょうか。私たちもぜひ一緒に行きます。」五人の家来はどうしても一緒に行くと言ってききません。しかたなく菩薩は、「行くならば、よく五つの感覚器官を護り、夜叉にたぶらかされないよう気をつけるように」と言い聞かせ、彼らを連れて行くことにしました。菩薩と五人の家来は、タッカシラーに向けてすぐに出発しました。
六人は森に入りました。女夜叉たちは家々をつくり、華麗な美しさの天女に化けて、六人を待ちかまえていました。一行が通ると、「どうぞ、こちらで少し休んでいってくださいな」と、口々に家の中から呼びかけました。美人に目のない一人の家来が夜叉を見て、そのあまりの美しさに心を奪われてしまいました。彼は、次第に足が遅くなりました。菩薩が「どうして遅れるのか」と訊くと、「王子様、私はひどく疲れました。少し、あの家で休んでいこうと思います」と言うのです。菩薩が「あの美しく見える女たちは恐ろしい夜叉だ。惑わされるな」と注意しても、「どうしても足が痛くて、これ以上は進めません」と動かなくなりました。菩薩は「きっと後で後悔するぞ」と彼を引き留めようとしましたが、女夜叉の美しさに惑わされた家来は、菩薩が止めるのを振り切って、吸い込まれるように夜叉の家に入ってしまいました。夜叉たちは、家に入ってきた男を色香でとりこにし、殺して食べてしまいました。
菩薩の一行は仕方なく、五人で道を急ぎました。一人目の家来を食べた夜叉たちは、先回りをして違う趣向の家を造り、風雅な音色の楽器を奏で、天女の声で歌いながら菩薩たちを待ちました。美声を愛する一人の家来がそれを聞き、どうしても離れられなくなりました。彼は、次第に足が遅くなりました。菩薩が「どうしたのだ」と訊くと、「王子様、少しあの家で休んでいきます。先に行ってください」と言うのです。菩薩が「さっき家に入った者は追いついてこないではないか。決して惑わされてはいけない」と忠告しても、「きっとあとから追いかけます」と、菩薩が引き留めるのを振り切って、吸い込まれるように夜叉の家に入ってしまいました。夜叉たちは家に入ってきた男を美声と色香でとりこにし、殺して食べてしまいました。
菩薩の一行は仕方なく、四人で道を急ぎました。(次号につづく)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
油鉢のジャータカは、「気づき(sati)」の実践をするときは、どれほど真剣にやらなくてはならないかと教えてくれるエピソードです。ヴィパッサナー瞑想として知られている気づきの実践は、いたって簡単なのです。「あれ、これって瞑想ですか?」と不思議に思われるほどシンプルな方法です。人は、いろんな修行方法を見聞したこともあるし、おもしろ半分で試したこともある。ヨーガや巡礼の経験などを誇り高く吹聴することもある。また断食、写経、護摩、滝行、誦経などの宗教的な儀式儀礼もよくご存知の通りです。
釈尊が悟りを開かれ、また涅槃に至る唯一の実践方法としてのヴィパッサナー瞑想を紹介されると、修行という先入観で聞く方々は、「へえ、これって修行なの?」という気分になってしまうのは避けられない。今までの修行方法で手応えのある結果を経験しなかった方々は、あまりにもシンプルな気づきの実践に納得いく筈もない。「今の瞬間に、ありのままに気づきなさい」と言われると、「それでどうなるのか」という疑問が湧いてくる。「そんな生ぬるいやり方で、偉大なる悟りが開けるというのは疑わしい」と思ってしまう。「修行というのは、とても厳しいものでしょう。悟るというのは、稀な人間にしかできないことでしょう。猿にもできる方法ではない筈だ。悟ったのは、釈尊一人だけでしょう。」このような反論は、気づきの実践については絶えないものです。
この感想、この反論の一部は合っています。一部は全くも勘違いです。合っているのは、「修行というのは生ぬるい気持ちで、半端な気持ちでできるものではない。厳しい作業です」というところです。それは肉体的、精神的な苦痛を期待しているわけではありません。例えで言えば、飛行機の操縦士の厳しさのようなものです。決まりを完璧に守ってやれば、飛行は大変楽しいものです。しかし一つのミスでも犯したら、後は知れたものではありません。決まりさえ守るならば、空の旅ほど速くて楽しいものはありません。一番安全な乗り物だそうです。気づきの実践の厳しさは、パイロットの厳しさと比べてみれば、理解できると思います。
「今の瞬間に気付くこと」を、みなさまに、「今の一秒で自分がなさっていることを実況中継しなさい」という言葉に入れ替えて、紹介しているのです。「それだけ? 簡単すぎる。」その通りです。考えるだけなら、言うだけなら、簡単すぎるのです。しかし、やってみるといかに難しい修行かと身に沁みる苦い経験をするだろうと思います。悟りを開きたければ、絶世の美人たちが身体をむき出しにして歌ったり踊ったりするリオのカーニバルのようなすし詰めの所で、一滴もこぼさず満杯になった油の鉢を頭に乗せて通り抜けるぐらいの真剣さ、集中力を要するのです。鉢の底は丸い形ですよ。