瞑想から体験できる真理の世界
座る瞑想中では普段の生活とは違う心とからだの状態をつくりだしていると思いますが、瞑想における「こころ」と「からだ」の関係について聞かせてください。
瞑想中は、からだの動きを意識的に停止させて主に「こころ」の動きだけを観るわけですが、その方がずっと楽なのです。からだというのは、たとえば事故などに遭ったら、壊れたり死ぬという恐れもありますが、瞑想中は、壊れることもなくとても健康な状態ですね。健康な状態ではありながらその「機能」については一時的にストップ、スイッチオフにするわけです。ですが「からだ」をスイッチオフにしても「こころ」はスイッチオフにはならない。そうすると「からだ」に邪魔されることなく「こころ」は自由にさっと動くことができます。自分が決めた時間の間、ずっと心だけの世界にいることができるのです。からだはもう、あるのかないのかさえもわからない。
しかし瞑想が終ると、からだに心が戻ります。その戻ったときからからだを持っていることが邪魔に感じられてしまうことがよくあります。からだがあることは本当は邪魔なのです。からだがあることによって、心はありとあらゆる苦しみを受け、感じます。たとえば高血圧になった、低血圧になった、腰が痛い、膝が痛い、歩くたびに苦しく、だから動かずに部屋にいる、すると今度は気分が悪い。ガンになったらガンががんばっていることで、精神的に苦しんでしまうのです。これらの苦しみはすべてからだがあるからです。少しからだから離れてみたら、心にはそのような弊害はなくすばやく回転します。
何か大きな悩みがあるとき、いろいろな宗教では「すがる」ものがあります。神であったり、何か超越したものがありますが、仏教にはありませんよね。
「助けてください」「救ってください」と何かにすがる精神が出てくるときというのは、自分がすごく弱くて、自分の足で立てないときなんですね。
自分で立てないから何かに頼るというのが他の宗教だとすれば、仏教は、自分で立つ方法、こころが独立する方法、自由になる方法を教える宗教です。
神にでも藁にでもすがって救われたいと思う人が、もう何にもすがらなくても自分は大丈夫ですと言える人になるまで、人の心をつよく変えてしまうのが仏教なのです。
その手法となるのが「瞑想」の実践です。
そしてそのとき気をつけていただきたいことは、弱気にならないことです。「こんなむずかしいこと」とか「こんなに長い時間、すわっていて何の意味があるんだろう」「時間ばかり過ぎて何も変わらないのではないか」などという気持があると前に進めません。
ただ、いきいきした心で「試してみよう」と元気よく取り組むことが大切なのです。
瞑想しているときの心の状態は、ものすごく静的な、動きのない状態というよりはむしろ、大変いきいきした状態なのでしょうか。
そうですね。瞑想では、皆さんの脳細胞をぜんぶ使います。普通の人は脳細胞をほとんど使っていないそうです。10分の1も使っていないそうですね。宝の持ち腐れです。これを、70%、80%使えば、どのくらいのことができるでしょう。ヴィパッサナー瞑想では、これまで使ったことのないようなありとあらゆる脳細胞を使わなくてはなりません。そしていろいろな新しい回路を頭の中に作らなければなりません。脳がフル回転して、脳細胞がいきいきしてくると、ものすごく元気でおれます。ボケや痴呆などとは無縁の世界になるのです。
以前、瞑想をするとき、自分で分析することと、それによって何かを発見できると思うことはやめたほうがいいということをおっしゃってました。他にも気をつけることはありますか。
瞑想は自己観察、つまり自分を観察することであり「ここに私がいる」ということから始まります。すべての悩みもここに私がいて、そして何かを判断しているから起こるのです。
そこで注意して欲しいのは、「判断する」ことをしないということ。これは、少しわかりにくいし、むずかしいんですね。なかなかやりづらい。
人間というのは瞬時に判断するのです。バラを見てきれいな花だと思う。しかし蝶にとっては、ただの餌でしかありません。美味しそうな蜜のたっぷり入った餌だと思う。
また赤ちゃんが見るとおもちゃだと思って口に入れてしまうかも知れません。見る者によって見解は違うのです。
このように、「判断」とはいい加減なものです。我々はいい加減な判断をしていい加減な世界にいるのです。一度判断したことに捕われ、しがみついて生きています。「あの人は嫌な人間だ」と判断したらそれが頭から離れません。絶対的な判断などありえないのに、しがみつく。
この判断を乗り越えるということが、瞑想実践の最初のステップです。
悟りは4段階に分けて考えます。この最初のステップ、1段階を越えたら必ず解脱は起きます。ですから皆さんが今日からでも、一切判断はしないと決めたならば、それでもう悟りの一番目なのです。このように仏教というのは、それほど遠い話ではありません。永遠なる天国などに生まれ変わるような話ではありません。
自己観察すると同時に、判断しないように観察すること。ただ、この「判断しない」ということがとても大変なことなのだということを理解してください。
まったく話は変わりますが、先生のよくお話される「エネルギー」についても、聞かせてください。
仏教で存在というとき、それは個体として見るのではなく、ものすごいエネルギーの流れとして見ています。そしてこのエネルギーには物質的なエネルギーの流れ(rūpa)と精神的なエネルギーの流れ(nāma)の2つがあります。
では物質とはどのようなものでしょうか。本来の物質とは素粒子レベルの4種類のエネルギーの流れに分けられます。今日は詳しくは説明しませんが、ひとつは質量を作るエネルギー、重さを作るエネルギー(重力)です。2つめは、お互いに引っ張るエネルギー、引力ですね。3つめは、その反対の引き離すエネルギー、反発力。そして4つめが動き、変化(動力)です。
ものは止まっていない、いつでも動いている、変化しています。仏教の言葉で言うと、地、水、風、火、の4つです。また他のエネルギーもありますが他のエネルギーはこの4つから生れます。
たとえばこの机も動いてるんですよ。最初に買ったときは新品でしたが、今はぼろぼろになっている。見えないものでもエネルギーは質量となります。ダイナマイトが爆発してものが壊れればどのくらいの重さがぶつかったということがわかります。
では精神的なエネルギーの方はどうでしょう。少しわかりにくいかも知れませんが、精神的なエネルギーは物質を支配しています。
たとえば人間の心はいろいろなことを考えます。建物を作るのも人間の心です。人間の心が動けば、さびる鉄もさびなくできる。悩んでいると胃酸が出て病気が出てくる。心が明るく元気でいると、身体もどんどん元気になっていきます。意思によって我々のからだの調子が変わります。瞑想すると「心に物質が支配されている」ということを体験できますので、それを覚えておいてください。