2022年2月号(183)
他人をジャッジしない修行
人間はいつでも「我は完璧だ」という態度で生きています。パートナーや子供がわがままだから私は毎日つらいのだ、職場の人々が親切ではないから私は不幸なのだ、という具合に、「悪いのは周りであって、自分はいつでも完璧だ」と思っているのです。「なぜ自分が不幸なのか?」と自問自答して理由を書き出してみれば、そのことがよくわかります。
周りの人々や環境など、不幸の原因がいろいろと挙げられることでしょう。しかし、誰も不幸の原因が「自分」にあるとは書かないのです。「私の不幸を作ったのは私自身だ」とは、思ってみることすらしません。いつでも、不幸の原因を自分の外に探しているのです。
実は、幸せ・安らぎというのはとてもシンプルに得られるのです。不幸の原因を外に探すことをやめる。ただそれだけの話なのです。もし皆さんが幸福になりたいと思うならば、他人の過ちを気にしない性格を作ってみてはいかがでしょうか?「他人が間違ったことをしている」というのは、自分の判断に過ぎません。そのように判断する瞬間に、「自分が正しい」という気持ちが潜んでいるのです。
Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;
Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.(Dhammapada 50)
他人の過ちは自分に関係ありません。他人のやったこと、やっていないことを見るのではなく、自分のやったこと、やっていないことを見なさい。 (ダンマパダ 五〇偈)
これがお釈迦様の直々の教えです。
私たちは、つい他人の悪いところに眼が向いて、他人に何か言いたくなってしまうものです。そこで、このように修行してみてください。相手の悪いところが見えたら、「あ、自分こそが正しいと判断してしまった」「自我が出てしまった」と気づきを入れるのです。そのように気づいたら、心が落ち着いて、次に何をすべきかと因果法則によって見えてきます。これが釈尊ご自身の指導であると理解して、他人の過ちを気にしないことにするのです。
真理を発見したお釈迦様は、「眼が現れた」とおっしゃいました。覚りの智慧を「眼」に喩えて表現したのです。「現れた」ということは、今までは眼がなかったということです。眼がある人は、人を善人だとか悪人だとか評価して見ることはしません。
自我がなくなったら、人は善でも悪でもどちらでもなくなります。「ここに山がある」「あそこに川がある」「向こうに崖がある」と見るようなものです。眼がある人は、壁が見えてもその壁に当たらないように淡々と進むだけです。わざわざ壁にぶつかって、「壁が悪い」と自分の安らぎを壊すことはしないのです。私たちも聖者たちの生き方に倣って、「他人の過ちが悩みの種にならないように、自分の心の安穏を保ちます」という気持ちで生きてみましょう。