2022年3月号(184)
ディレクターの視点で観察する
仏道は「思考の整理」から始まります。世間では思考の自由を謳っていますが、仏教はそれを認めません。確かに、頭の中でどんなことでも考えられますが、それは思考の自由を謳歌しているのではなく、「コントロール不能になっている」に過ぎないのです。つまり、思考が暴走しているのです。思考の自由をとなえる俗世間では、実際は社会的に思考を管理して抑え込もうとしているのです。
お釈迦様は、「思考する場合は、Kāmāsava(欲漏)、Bhavāsava(有漏)、Avijjāsava(無明漏)が増幅しないように気をつけてください」と説かれました。アーサワ(漏)とは「心の汚れ」を意味します。「欲漏」とは、簡単に言えば愛欲のことです。「有漏」は生きていきたいという生存欲。「無明漏」は不確かな情報に振り回されている私たちの無知な生き方そのものです。
例えば、眼に見えた対象に「可愛いな」と思うと、欲や愛着が心に広がるのです。また、「あの人は気持ち悪い」と思うなら、怒りが染み広がっていきます。
アーサワを制御することは相当難しい修行になります。眼に色・形が見えますが、それによって心が汚れないように気をつける。耳に音が入っても、汚れが生まれないように気をつける。意で思考が起こりますが、心が汚れないように思考する。お釈迦様が初期時代に説かれたことなので、とても難しい教えです。アーサワに焦点を当てる場合は、阿羅漢果に達するための説法になるのですから。
ここでは、アーサワがストップする方向に思考パターンを変える訓練をご紹介します。映画の例で考えてみましょう。一般的に私たちは、情報を誰かに指示された通りに処理して、操られるように心を汚しているのです。ディレクター(監督)が観客を泣かせたいと意図して映画を制作して、「泣ける映画だ」などと言って宣伝します。その狙い通り、私たちは映画を観て涙してしまいます。
しかし、映画の各シーンをよく見ると、俳優たちが一生懸命頑張って悲しみの演技をしていることがわかるのです。悲嘆に暮れる顔の表情を作ったり、必死に涙を流そうとしたりしています。これは大変な努力です。撮影現場はたくさんのスタッフがいて、カメラや証明、セットの機材が並ぶ一大工場のようです。役者の方々は、作り物のセットの中で喜怒哀楽を演じなくてはなりません。そういうバックグラウンドまで俯瞰したならば、同じシーンを見ても単純に「泣ける」気持ちにはならないはずです。スクリーンに映し出される妄想の流れに乗ることをやめて、ちょっと違う見方をしてみるのです。
有名な日本庭園を歩くとしましょう。「美しい」「素晴らしい」とただ興奮するのではなく、造園した方の設計意図を読み取ってみましょう。その空間を美しく見せるために、いかに綿密に計画されて造られたのかと、俯瞰して分析してみるのです。そうすると心は感情で汚れません。別に無感動な性格になることではなく、ディレクターの見方に立ってみるようなものです。その他大勢のユーザー目線から離れてみるのです。
ディレクターの視点でものごとを観察すると、製作者側の苦労や努力がよくわかります。すると、心の汚れが減って理解力が現れるのです。いつも刺激を求めてウロウロする生き方から、落ち着いて慈しみで世界を眺める生き方に変わるのです。このように思考パターンを変えることで、制し難いアーサワを制御することができます。