No.235(2014年9月)
知識と智慧の違い
知識は苦の原因、智慧は安穏の原因 Knowledge promotes suffering, wisdom promotes happiness.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章
- Yo have daharo bhikkhu
Yuñjati buddhasāsane
So imaṃ lokaṃ pabhāseti
Abbhā muttova candimā
- たとえその年若くとも 比丘はブッダの教法に
専念すれば 世を照らす 雲間を出でし月のごと - 訳:江原通子
- (Dhammapada 382)
正自覚者の意味
仏教は智慧を推奨する教えです。ブッダという言葉は、智慧に達した人という意味です。お釈迦様にブッダ(Buddha)と言うのです。解脱に達する人は誰でも智慧を完成するので、理論上はブッダ(buddha)です。
Buddhaとは、固有名詞ではなく普通名詞です。解脱に達した聖者たちのなかで、本師であるお釈迦様を示すために、サンマーサンブッダ(sammāsambuddha)という言葉を使うのです。Buddhaを覚者と訳します。Sammāsambuddhaを正自覚者と訳します。
真理に達する道と正反対の道を歩んで、人々は様々な修行方法を試していたのです。当然、だれも真理に達することはできなかったのです。お釈迦様も覚りに達する前に、インドにあった様々な修行法を試してみたのです。しかも、その試し方は尋常なものではなかったのです。修行方法を教える師匠たちも、感動してしまったのです。やがてお釈迦様が、世にある修行方法では決して真理を発見することはできないと理解したのです。それからは人の話に頼らず、自分で理解した方法(中道)で修行して、覚りに達したのです。釈尊は覚りに達する道の先駆者なのです。人間・神々を乗り越えた才能を持っていたので、言葉で語ることは不可能な、真理に達する道と解脱について、解き明かすこともできたのです。他人の指導を受けず解脱に達したことと、その道を他人に解き明かせる能力が具わっていることを加えて、お釈迦様にbuddhaではなく正式的にsammāsambuddha と言うのです。テーラワーダ仏教では、解脱に達した聖者たちにブッダという言葉を使用しないのが習慣です。代わりに、阿羅漢と言うのです。ですから、buddhaもsammāsambuddhaも両方、お釈迦様を示す言葉として使っているのです。
阿羅漢と如来の意味
ブッダの九徳の一番目は arahaṃ (阿羅漢)です。これは解脱に達する誰にでも、敬語と して使う言葉です。二番目の徳は sammāsambuddho ですが、この言葉は解脱に達した弟 子たちのためには、決して使用しないのです。道の先駆者は釈尊一人だけです。お釈迦様はご自分を指して言う時、sammāsambuddhoという言葉を使わないのです。漢訳仏教語では如来と訳されている、Tathāgato という言葉を使うのです。如来とは、真理に達した人、という意味です。この言葉には自分を賛嘆する意味が入っていないのです。現代日本語で言えば、「卒業者」程度の意味です。先に卒業したので、卒業しようと励んでいる人々に教えたりアドバイスしたりする資格があるのだ、という意味を示したかったのだろうと思います。如来の意味もお釈迦様が定義されたのです。
- 過去・現在・未来に関わる一切の物事について、時期を見計らって、意義のあるものを、人の役に立つように、またありのままに語るのです。
- 人間・神々を含む一切の生命が知るもの・考えるもの・経験しているもの全てについて、覚っているのです。
- 自分で覚って発見している真理のみを他人に語るのです。
- 自分が解脱に達してから涅槃に入るまで説くことは必ずその通りである、変わることはあり得ない。
(Dīghanikāya 長部 29 Pāsādikasuttamパーサーディカ経)
現世利益の話
ブッダの道を実践しようとする人は誰でも、智慧を目指すべきです。それ以外の何かを期待するのは、正道だとは言いづらいのです。
しかし私たちはそもそも人間なので、健康になりたい、長生きしたい、人間関係のトラブルを無くしたい、能力を開発したい、豊かになりたい等々の数えきれないほどの希望を持っているのです。ブッダが説かれるように生きてみれば、それらの希望が失望で終わることは決してないのです。その個人にとって欠かせない希望は、いとも簡単に叶うのです。
この現象は、有難いと言うべきものではないのです。「仏教のお陰で、仕事も能率が上がりました。社員が明るく頑張ってくれるようになりました」等の話は、有難くはないのです。それはただ、俗人の希望が叶っただけの話です。仏教は俗人のためにできあがったサービス・ステーションではないのです。智慧を目指すべきです。
喩えで説明します。ある人がアメリカの一流の大学に入って、研究したいと思っているとします。見事大学に合格して、その人は飛行機に乗ってアメリカへ旅立つのです。十二時間の空の旅になります。普段食べない食べ物や飲み物のサービスがあります。その人は結構楽しみます。もしその人が「私がアメリカの一流大学に入学しようとしたのは、飛行中の食事や飲み物を楽しみたかったからです」と言ったとしましょう。どう思われますか?
たとえファーストクラスで飛んだとしても、飛行中のサービスは大したことではないでしょう。旅の目的は大学で行なう研究でしょう。仏道も同じことです。智慧を開発するのが目的です。途中でいろいろサービスもあります。サービスに足を取られると大損です。仏道を実践すると、現世利益は飛行中のサービスみたいに当たり前のことです。しかし機内食を食べる目的で飛行機に乗る人の頭はどうかしているのです。
なぜ仏道を実践すると日常生活もうまくいくのでしょうか?
それは仏教が真理を語るからです。本当のことを言っているからです。正しい道を教えているからです。ひとが不幸になる、失敗する原因を示して、戒めているからです。しかし私たちは、現世利益に足を取られることなく、先へ先へと進まなくてはいけないのです。
智慧のことは分からない
智慧とはどういうものでしょうか?
いま自分に智慧が無いから、それはどういうものかと知ることは難しいのです。一度も見たことのない花の絵を描きなさいと言われても、描けないのです。自分で妄想して、何か描くかもしれませんが、それは本物にはなりません。よい例があります。ヒンドゥー教ではたくさん神々がいるのです。しかし誰一人として神を見たことが無いのです。それでも人間が神像を作るのです。グロテスクな作品になります。赤ん坊を口に咥えたり、人の首をつなげたネックレスを掛けたり、首にコブラを巻いたりしている神像になります。頭はゾウ、身体は人間で、ネズミを乗り物としている神像もあるのです。ネズミが可哀想だと思います。このようになるのは、実物を経験してないからです。
知識は簡単に変わります
ですから智慧について、あれこれと考える必要はないのです。必ず間違えます。私たちにあるのは知識です。知識とは、五感から入るデータによって、頭のなかに現れる概念のことです。データが入るたびに知識も変わるのです。それからデータは、ありのままにインプットしようとはしないのです。自分の都合によって、捏造した現象を概念にするのです。人間にはネコが可愛い生きもので、ヘビは嫌いな生きものです。犬の死骸は不潔なもので、アンコウの死骸は高級食材なのです。見た目はあれほど悪いのに、気持ち悪い、不潔、という感じは起きないのです。このように我々は、五感から入る情報を自分の都合で捏造するのです。評価のラベルを貼るのです。アンコウを初めて見る子供なら、キャーッと泣いたり、怖いと言ったりする可能性があります。それはその子供の知識になります。しかしアンコウを食べてから魚の死骸を見たら、気持ち悪いと思えないでしょう。
知識とは真理ではなく人間の都合
私たちの知識は全て、人間という種の都合によって捏造した概念です。それも固定していないのです。知識はつねに変わってしまうのです。人間には、生きるために知識が必要です。知識と生存欲は密接に繋がっています。知識が沢山あることは有難いです。知識があると存在欲が強まるのです。それで生きることが苦しくなるのです。知識が無いと生きる能力も弱まるのです。それで生きることが苦しくなるのです。知識とは一時的な感想です。一定しないのです。例えば歴史を学んだとしても、その知識は一定しないのです。新しいデータが発見されたら、自分の知識を変えなくてはいけないのです。
真理を発見することが智慧です
智慧とは人間中心に物事を見ることではありません。すべての生命の立場から見ることでもありません。これは不可能なことです。智慧とは、実際なんなのかと知ることです。一切の主観、感情、見解、先入観を取り除いて、ありのままに、まったく評価のラベルを貼らないで、六根に入るデータを確認することで現れる能力が智慧です。それには訓練が必要です。脳のいまの働くパターンをバイパスしなくてはいけないのです。徐々に現れてきます。すべての現象の本当の姿を発見した人が、「一切を知っている」と言うのは正しいです。しかし「一切智者」と言うと、人間は誤解します。世のありとあらゆるすべての知識を知っていることだと思ってしまいます。世にある知識は、残念ながら正しくないのです。一時的な感想に過ぎません。それには終わりが無いのです。知識がいくらあっても、知らないもののほうが圧倒的です。知識に頼っても、みじめに生きるはめになります。
喩えで説明します。ある病人がいるとしましょう。その人はその日その日、何かを訴えるのです。頭が痛い、耳が痛い、関節が痛い、食欲が無い、身体がダルい、眠れない、起きられない、気持ちが悪い、ヤル気が出ない、周りが鬱陶しい等々と訴えたりします。それぞれの症状にそれなりに手当もします。しかし一向に病気が治らない。一つの訴えに手当をすると、別なところで別な症状が現れます。そこでその人は、身体を全体的に検査してもらいます。肺がんが発見されます。それで今までの無数の症状の訴えは、すべて肺がんのせいであったと分かるのです。一つ一つの症状に、限りなく手当することは道ではないと理解します。(現実的には不可能ですが)治療して肺がんが完治したとしましょう。それで全ての症状の訴えが消えてしまうのです。
苦を増やす知識
この喩えで、仏教の智慧の世界はどのようなものかと説明します。生きることは苦なのです。何をしても、苦が別な苦に変わるだけです。友達が居ないとそれが苦です。友達が居るとその関係で苦が起きます。人が知識を得るのも、苦を無くす目的です。しかし知識を得て振り返ってみたら、苦が増えただけではないかと発見します。智慧とは、なぜ苦しみが起こるのかと発見することです。それからその原因を取り除くことです。それで一切の苦が消えるのです。それが出来た人には、この世にある如何なる現象であっても、それを知っていることになるのです。
最終的な解決は智慧です
仏道実践を始めたら、智慧がジワジワと現れてきます。智慧が現れた分、人生は楽になります。いくら知識があっても、智慧には叶わないのです。わずかな智慧がある人でも、知識人などよりも瞬時に、正しい生き方を発見するのです。問題が起きたら、すぐ正解がみつかるのです。智慧は概念をためる働きではなく、物事をありのままに観られる能力のことです。知識には完了はないが、智慧には完了があります。智慧のある人は、普通の人間と同じであると思ってはいけないのです。
智慧があると子供でも超人
お釈迦様の八十人の大弟子のなかで、アヌルッダ尊者という聖者がいました。誰よりも、天眼という神通能力が優れていたのです。天眼とは、見たいものを何でも見られる超越した能力のことです。遠くにあるもの、他次元のものなど、何でも観られるのです。アヌルッダ尊者が過去生で修行していた時、たいへんお世話になっていた人がいたのです。阿羅漢になってから、どのような修行の結果として、自分にこの優れた能力が付いたのか」と調べたところで、過去生で徳を積んだ時お世話になった人のこと分かったのです。いまその人はある遠いところに生まれているのだと分かって、その人に恩返しするために、そちらに行ったのです。その家の人々のお布施をいただいて、その村に住むことにしたのです。家の主人が、安居のおわった日に必要な品物もお布施しました。尊者はお布施を断りました。理由を訊いたら、「管理する弟子がいないから」ということでした。主人は「それでは自分の長男を出家させます」と言ったのです。尊者は「長男にも用がない」と断ったのです。さらに主人が「それなら次男を出家させます」と言ったところで、尊者も認めたのです。次男はまだ子供です。しかしアヌルッダ尊者は「この子は出家儀式で剃髪する間で阿羅漢に達する人である」と最初から知っていたのです。そのとおり、次男は沙弥出家すると同時に阿羅漢に達したのです。この沙弥は、かなり優れた神通能力を開発したのです。その沙弥が起こした神通は世に広く知られたのです。子供の才能には皆驚きました。それについてお釈迦様が、「たとえ子供であっても、仏道を歩む者は、雲から顔を出す満月のように、この世を輝かすのだ」と説かれたのです。
道は皆に開かれています
仏道を実践するならば、子供であっても超人になるのです。人間の次元を超えるのです。このエピソードにある神通の話に、目が眩んではならないのです。神通力を目指して修行してはいけないのです。智慧を開発するために修行すると、神通力もたまにおまけで付いてくる可能性があります。神通は仏教で評価していないのです。仏教の本当の目的を忘れず実践するならば、誰でも俗世間の一般人より優れた人間になるのです。
今回のポイント
- 仏教は智慧を推奨します
- ブッダとは覚者のことです
- 真理を語る人が如来
- 知識は正解ではありません
- 苦を無くすのが智慧です