恥をかきたくない人が恥をかく
日常生活の中で、我々は〈怖れ〉や〈心配事〉でよく悩みます。
なかなか自由に気楽に生きることが出来ないのです。こころと身体を自由にする技術というのはあるのですか。
そもそも仏教の目的は「こころの自由」を語ることではないですか。
経典のどこを読んでも、こころを自由にする絶対的な技に出会うと思います。もっと具体的に質問を考えてみましょうか。
「こころの自由」とおっしゃいましたが、仏教では「身体の自由」については何も教えてないのですか。
というよりも、身体について「興味がない」といった方がいいと思います。
身体は必ず壊れていく物体です。自然法則に依存しているものです。全く自由にはならないものです。
「身体の自由」などを語っても嘘になります。身体に執着して、身体の手入れだけに人生を費やすと、得るのは苦しみと失望感だけです。ですから、身体を「なんとありがたい、尊いものでしょうか」と思う非常識人間になるよりも、「不浄だ、生ゴミだ」と正しく理解して執着を捨てた方が、驚くほど楽になります。
では「健康第一」ではないのですか。
仏典にも「健康でいられることは最高の得である」とは説かれています。でも「第一」ではない。健康であれば、得をした気分になっていれば良いでしょう。でも、今は得をしていても、後で損をする可能性もあります。「得をした」と舞い上がることもなく、「損をした」と落ち込むこともなくいることですね。
私たちはどのように踏ん張っても老いて死ぬことになりますので、「最後は大損だ」と泣くことになります。ですから早いうちに、身体に対する執着を捨てることにしましょう。
「こころと身体は互いに影響しあっている」という話を聞きました。仏教界以外で「健全なる魂は健全なる身体に宿る」という話も聞いたことがあります。どちらにしても、健康にも重点を置いた方が、心の成長にも良いと思います。
身体と心が互いに影響しあっていることは確かな事実ですが、身体だけに執着をして身体を守ることに必死で苦労をしている人々は、少々身体の調子が悪くなっただけで精神的にどん底に陥って悩むのです。「健全な身体に健全な何かが宿る」と言う場合も、私に見えるのは、身体にしがみつくことを推奨する話です。
身体が完全な健康状態になるとは思えないのです。たとえそうなったとしても、わずかな間だけです。健全な身体を作って健全な魂に宿ってもらおうと思ったら、それは単なる夢の話です。逆に、「健全なこころは身体も健全にする」といったならば、納得できると思います。
身体にあまりにも執着すると、こころも激しく痛むのです。少々病気になったり、何かの障害が生じただけで、自殺したくなるほど精神的に病気になる可能性があります。具体的な答は、「身体に執着しないこと」です。その場合は、「たとえ身体が壊れても」、こころが病気にならないのです。
体の状態によってこころも左右されますが、身体にそれほど重点を置かないことで、この問題は解決します。身体のことは、ほどほどに可愛がってあげればいいのではないかと思います。
ではこころの問題に戻りますが、「怖れ」や「心配」などで、なかなかこころが明るくならないのです。
漠然としたものには解決方法がないのです。何を怖れているか、何を心配しているか、ハッキリと具体的に言わないと答えられません。その理由を説明します。男が怖れるもの、女が怖れるもの、大人が怖れるもの、子供が怖れるものなどは、違います。また、誰でもみんなが怖れることもあります。対処法もそれによって変わります。
怖れを具体的にした方が制御もしやすいのです。自分が住んでいるところにライオンがいる。夜、怖くて寝られない。その場合は何か解決方法があるのです。
「ライオンがいるかもしれません。他の猛獣がいるかもしれません。幽霊がいるかもしれません。地震が起こるかもしれません。天井が壊れて落ちるかもしれません。あるいは人に殺されるかもしれません。とにかく、夜、怖くて眠れません」といわれたら、また対処法が見つかると思います。どのような問題の場合でも「漠然」とアタックしてもどうにもならないのです。
たとえば何かをしようとすると「失敗するのではないか」と結果を怖れる場合は?
それはだいたい若い人々に多い悩みですね。何かをやりとげた経験が少ないですからね。でもこれは、歳をとったら直ると思わない方がいいと思います。
「怖れる」理由は皆に同じだと思います。皆、何かを守りたがっている。守りたいものがあるから「怖れ」が生じるのです。上に述べたライオンの例で考えてください。自分の命を守りたいからライオンが怖いのです。もしも守りたいものは何ひとつもなかったならば、それですべての恐怖感の終わりではないでしょうか。理論上で結構ですので、まず「守り」「怖れ」関係を理解してください。
では、私が質問します。何を守りたいのですか?
メンツとかが気になります。そんなことはどうでもいいとわかってはいますが、こころは言うことを聞かない。恥をかきたくないという気持ちになってしまうのです。
では「恥をかく」ということを説明しましょう。人は恥をかきながら成長するのです。恥を怖れると、何もできなくなってしまうのです。
子供を見てください。恥ずかしがると何もしないでしょう。挨拶もしない、名前も言わない、お遊戯会でも何もできないなどの問題が起こるでしょう。我々の今までの人生で辿った道を振り返ってみると、「恥かきの連続」ではないかと思います。それで成長して大人になったのです。わざと恥をかくような行為をするのはとんでもないことですが、生きていく上では「恥」と思うことは日常茶飯事です。
普通は、「恥ずかしい」と思っていることをすべてきれいさっぱり忘れて、「自慢しながら」生きるのです。「恥」は自分の辞書にないように思うのです。恥を嫌う人が何かをすることになると、恥をかきたくない、恥をかきたくない、と妄想ばかりをして、大失敗するのです。結局は大恥をかかされるのです。恥をかきたくなければ、「恥をかいてもかまわない」と思って、やるべきことはやるのです。「恥をかきたくなければ恥をかきなさい」とでも言っておきましょうか。
また、恥の連続である人生をありのままに観察しないで「自分の人生は成功の連続だ」と勘違いする人は、「自分がなんでもできる人間だ」と夢想します。
この実体のない自我が、人を無能な人間にしてしまうのです。我々は必死でこの自我を守ろうとするのです。ですから失敗を怖れるのです。「恥をかきたくない」と懸命になるのです。結果として、何もできない、何もしない人間になるのです。メンツが気になる人のメンツがつぶれます。恥をかきたくない人こそ、大恥をかきます。失敗したくないと思う人のみが、失敗をするのです。
では、失敗を怖れない人は全く失敗しないのですか。
失敗・成功という言葉自体も曖昧です。今「成功だ」と決めたものが、時間がたつと「失敗でした」となる場合も、今「失敗だ」と思ったことが、時間がたつと「成功でした」と言えることも、よくあります。自分では「失敗だ」と思っても、他人は「成功だ」と思うときもあります。逆に、「成功だ」と自分が自慢しても、他人に「失敗だ」と言われることもあります。失敗か成功か、簡単に決めつけることは、理性的ではないのです。
失敗を怖れない人は「自分が完全だ」と思わないのです。「ダメでもともと」という気持ちでチャレンジするのです。失敗する怖れが多大にあることを知っているので、真剣に一生懸命にやるのです。ですから結果は「失敗だ」と言われたとしても、プライドが傷ついた気にはならないのです。恥だとも思わないのです。素直に失敗を認めるのです。実際はその人は失敗していないのです。自分がやったことから何かを学んで身につけているのです。それで、経験済みの大人として、ワンステップ上がったことになるのです。
この世の中で、何が失敗か、何が成功か、わかったものではありません。結果というのは、時と場合によって評価されるものです。独立した価値などはないのです。失敗や恥を怖れて努力もしない、チャレンジもしない人は、常に世間に非難されます。世間は、たとえ成功しなくても、人の努力を賞賛するのです。
「恥」を感じたり「怖れ」を感じるには、「自我」以外の原因がありますか。
色々あります。欲深いこと、嫉妬深いこと、負けず嫌い、物事を明晰に考えないこと、などです。
その中に、「先を考える」ということもあります。これは表面的には悪いように見えませんが、かなり危険な現象です。先を考えると、まず結果が気になります。いい結果を出したい、失敗したくない、ほめられるようにやりたい、などと妄想するのです。その時には理性が沈んで感情が浮いてきているのですが、本人はそれに気がつかない。
先に、起こるだろうと思われる結果を論理的に明示して、「その結果を得るために今何をするべきか」と考えることは、問題にはなりません。先を考える時は、厳密にそれだけに留めるべきです。わずかでも脱線すると、自我と感情が浮いてきて、何もできなくなるのです。将来の結果を考えず、「やるからにはしっかりやるんだぞ」と現在に集中すれば、明るく自由に生きていられるのです。