あなたとの対話(Q&A)

冥想で無明を攻撃する/「いま」という時間は存在しない?

パティパダー2016年4月号(202)

冥想で無明を攻撃する

自分の中に、じっとしていられない、常に刺激がほしい、刺激を探しているという気持ちがあって、それで音が聞こえたら自分が飛びつく、眼に触れたらそれに飛びつく、そのように常に自分の心が刺激を求めているということを感じます。これは無明だからなのでしょうか? そこで冥想するということは、常に刺激を求めているこの無明に攻撃をしているという理解でよろしいでしょうか?

どんな生命も刺激を求める

 はい、そういう理解でよろしいです。刺激を求めるというのは、すべての生命がやっていることです。刺激を求めないと心が続かないのです。命は永遠だとかあれこれ言っていることも、この輪廻転生を自分が勝手にやっていることなのです。刺激を求めることで心は栄養を摂って、次の心が生まれる。また刺激を求めて次の心が生まれる、ということを限りなくやっているのです。

なぜ「死にたくない」のか?

 ですから、刺激を求めない心が現れたら、次にあるのは涅槃なのです。論理はすごく簡単です。刺激を求めるということは、「生きていきたい」という錯覚があります。「死にたくない」という恐怖感もあります。「生きる」ということを学んでいないのですから、生きること自体が成り立っていないと知らない。死ぬということは、なにが死ぬのですかね? それもよくわかっていないでしょう。
 
 単細胞で生まれて、その単細胞は死んでしまったのです。それは怖くなかったと思います。いまも三カ月間ぐらい経つと、身体の細胞は別な細胞に変わっている。それも死んだということでしょう。全然、怖くはありませんね。ですから、死が怖いということは何なのでしょうか。
 
 だいたい私たちは次の瞬間に納得するのです。そんなに大きな問題ではありません。例えば、自分が二十代や三十代の若い時は、五十代六十代の年を取っている人を見て、「年を取るってイヤだなぁ」と思っていたのに、自分が実際その年になってみたら、別にどうということはないのですね。
 
 それで、「認知症になったらどうしよう」「歩けなくなったら大変だ」「車椅子生活になったら……」「寝たきりになったら……」と要らぬ心配をしているのですが、もしその状態になったら何のことなく受け入れる。そんなものです。だったら何に怖がっているのか、自分でもよくわからないでしょう。それを無明というのです。
 
 よほどのアホでない限りほとんどの人間は、最後になってくると死を覚悟して穏やかに死にます。ですから、一生懸命に死を怖がり続けているのはバカじゃないですかね。そのように、生きることを観察しないことを無明というのです。

自分を向上させる刺激

 刺激を求めることは、どんな生命でもやっていることです。それがすごく激しくなっているとしたら抑えた方がいいのですが、一日でできることではありません。刺激に飛びつかない、じっとする訓練を失敗しながらでもやってみることです。
 
 もうひとつ、刺激を求めるなら自分を向上させる刺激を求める。自分を向上させるためにも結局刺激が必要になるのです。例えば、罪を犯さない生き方というと、ものすごく難しい。冗談ではないのです。罪を犯すのはいとも簡単です。簡単なことで得る刺激は大したものではありません。だったら、難しいことから刺激を得てみてはいかがでしょうか?
 
 例えば山に登るのに、車で上がれば山に登ったぞという感じがしないでしょう。それで山で遊んで、また車に乗って帰る。そうではなく、街から歩いて山に上がってみる。ものすごく大変でしょう。その時の刺激と車に乗ってきた刺激を比較できますか? まったく比較できない。そう考えてみると、人間というのはすごい刺激を得ることを避けているようです。タダで簡単に得られるような刺激だけを探している。だからダメなのです。

刺激をコントロール・管理する

「刺激を求める」ということ自体は、いますぐに切る・無くすことはできません。「刺激を求めない」という心が生まれたら、もう次に解脱ですから。そこで刺激を求めることは自然法則で、その中でたちが悪いのは、簡単にタダで得られる刺激だけを求めること。それで心がどんどん悪い方向へ堕落していく。ですから、そこは少し道を変えてみるのです。
 
 例えば、山から膨大な水が流れてきて街を破壊している。それなら山にダムを作って、そこで水力発電をすれば、洪水もなくなるし、人間の役にも立ちます。しかし、川の流れを止めたわけではありません。川は流れているのです。

 そういうことで、我々は刺激をコントロール・管理するのです。いきなり「刺激を求めることを止めます」というのは、それはあり得ない。冥想実践はすごく大変なことですから、「頑張るぞ」と思うと相当脳に刺激を受けます。その刺激でどんどん成長していくのです。堕落する簡単な刺激ではなく、心が向上するよい刺激を求めるのです。刺激を求めることにも道徳を入れてしまえばいいのです。


「いま」という時間は存在しない?

長老の著書に「“いま”という時間はない」というふうに書いてあったのですが、「時間はない」ということは、どのように捉えたらいいのでしょうか?

すべて「認識」から始まる

 難しい話になりますが、仏教はすべて「認識」というところから始まります。例えばこの全宇宙が物質だけであるなら、それだったら何も関係がありません。宇宙のことから何から何まで私たちが心配したりするのは、自分に心があるからでしょう。自分が認識をしているからです。「山は美しい」と言ったりするのは、ある人がそう認識したからでしょう。「山は美しい」というのは科学的なことではありませんね。ただそのように認識しただけなのです。地球が丸いというのも同じことで認識です。丸や四角や卵型というのは認識であって、変わらない普遍的な事実としては正しくないのです。

 そういうことで大変難しいのですが、心という機能・働きがあって、そうして心がものを認識しているのです。そこで、いろいろなアイデア・概念・思考が心に生まれます。太い細い、新しい古いなど、あらゆる概念が心に現れます。科学者にしても心に生まれる認識によって研究しているつもりなのです。しかし、結局すべては心のカラクリなのです。

 地球の重さであろうが、それもきちんと計算できます。太陽は一秒でどれぐらい質量が減っていくかとか、それも心のカラクリで、心(認識)がなければ何もないのです。

時間論は心が作った概念

 そういうことで、過去・現在・未来という時間論も心が作った概念ということになります。実際、心がなければ話にもならないのです。それで、過去と将来は実在しないというのが仏教の立場になります。なぜなら認識が不可能だからです。データがありません。データがないのに認識したということは、心の勝手な遊びです。床を見て、ここは畳の部屋だと認識することはできます。その場合、データがあります。しかし、私が勝手に隣の建物も畳の部屋だと決めたとしたら、どうでしょうか? 隣に建物があるかどうかもわかりません。心にデータがないのに畳の部屋があると決めつけるのは、はっきり言えばいい加減ということでしょう。

 ですから、過去と将来はデータもないのに認識したということになるのです。しかし、認識したことが正解だったら、一概に否定することも難しいのです。実際には見たことはない地球が丸いということも認識ですが、一概にそれはあなたの妄想だということも言えません。そこら辺はかなり気をつけなければいけません。ですから、過去のデータを私たちは事実としていますから、まあ過去は思い出すことができます。でも、それは心の中で起こっているだけのことなのです。認識する人には、過去があるかのように感じるのです。将来も同じことで、心がイメージを作ってしまう。イメージを作っている心にとっては、それはあるように感じるのです。そして、そのイメージが与える欲、怒り、嫉妬、恐怖などの煩悩が必ず一緒に現れるのです。

 過去はもうないのに、過去のことを思い出して怖くなることも、悲しくなることも、落ち込むことも、怒ることも、なんでもできます。しかし、それも単なる認識のカラクリということなのです。ややこしいのは、過去や将来を考えて怖くなると、その感じている恐怖はいま現在ですから、それは事実なのです。落ち込んだら、いま現在落ち込んでいる。落ち込むために使ったデータは、十年前のもう存在しないことかもしれません。なのに、落ち込みだけは現実なのです。そんなバカなことは止めたほうがいい、ということになりますね。ムダなことをやっているのです。

時間とは現象変化のユニット

 認識がどうなっているのか発見していくと、このカラクリから抜けることができます。私たちにとって過去がものすごく重い荷物になっている。将来も潰されるぐらいの重い荷物です。心が感じていることは事実です。しかし、その原因は存在しないのです。お化けや幽霊を怖がるのと同じことです。実際に自分で見たのでしょうか? 勝手に妄想しただけです。

 他宗教で神様を信仰している方々は、本当に神様がいると思っています。そんなものはいません。しかし、結構実感もあって「私は信じています」「証拠があります」と言っています。どうにもなりませんね。話も通じません。無知のどん底です。この心のカラクリに引っ掛けられて嵌められているのです。
 
 まず認識論としてそこまで理解しておいたなら、それが答えの前半となります。これから時間について答えます。時間とは、時計で表しているものではないのです。本当の時間というのは、心で起こるある現象がどのように変化するのかという、そのユニット(単位、要素)のことなのです。
 
 私たちは物事を観察すると、その物事が変化していきます。変化しているのですが、それが同じものであると錯覚を作りたい。ですから、そこでユニットを作るのです。無常でなければ、時間ということも成り立ちません。現代では原子や素粒子という物質変化から時間を計算しています。無常で計算しているということです。しかし、認識しなければ時間は存在しません。無常の流れというのは、ものによって違います。

「いま」はどれぐらいの時間なのか?

 それで質問にあった「いま」とはどれぐらいの時間なのかということですが、これは認識として、はじめから秒で計算できるものではありません。私の「いま」と皆様の「いま」は、それぞれ違います。「いま」というのは、私がある現象を認識できるユニットのことです。自分の認識能力によって、「いま」という時間のスパン(間隔)が長くなったり短くなったりする。
 
 人生は長いと感じる、思う人々もいるでしょう。それは、その人の認識能力なのです。バカでかい単位でないと認識できないのです。仏教では命は瞬間だと言っています。鋭い観察能力があって、微妙な変化を認識して言っているのです。観察能力・集中力が上がれば上がるほど、「いま」というスパンが小さくなっていきます。そのスパンが小さくなればなるほど、無常の激しさが見えてくるのです。最終的には無常しか見えない、それしかないというところまでいくと、心は何かを認識することが不可能になって、そこで解脱に達するのです。お釈迦さまは「一切の現象は無常であると発見する人が解脱に達する」と説かれています。ずいぶん簡単な言葉で、この膨大で複雑な認識のカラクリを教えているのです。この言葉は精密で科学的な言葉なのです。

結論

 みんな偉そうに「すべて無常だ」「物事は変化する」とわかったつもりで言ってはいますが、じゃあ覚ったのか、貪瞋痴が無くなったのかというと、覚ってはいませんし、貪瞋痴が無くなったわけでもありません。ということは、無常はわかっていないということになります。まだ現象が「ある」という認識をしているのです。その人に見える無常というのは、「いま」というスパンがあまりにも長すぎるのです。譬えて言えば、台風が来てはじめて風が吹いていると感じるほどの認識なのです。人間の認識能力はそんな状態です。それではダメです。手を動かしただけでも空気を感じるぐらいの認識能力が必要です。説明はそこまで。「いま」というのは、そういうものなのです。
 
 認識機能として、「いま」のみあるが、「いま」という時間は無いようですね。

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