あなたとの対話(Q&A)

お金の管理と生存欲/「不貪」を育てる方法/掃除と冥想/こころの成長段階

パティパダー2016年5月号(203)

お金の管理と生存欲

お金の管理をするということで、普通に管理をすることは欲とは違うのでしょうか? それは正しいことなのでしょうか? 経済状態が悪いので将来を心配している人が多いと思うのです。お金がなくなっていくので、気持ち良く使えないという状況というのは、個人の生存欲にからめ取られているだけのことなのでしょうか?

「日々、生きてみる」ということ

 財産の管理をするということは、生きるために必要なことで、生存欲ということと分けて考えてください。

 それから、世界的に経済状態が悪い、国の経済状態が悪いから将来が不安だとか、余計な心配をするのは、それはちょっと病的です。それは欲があり過ぎ。ですから、仏教的に言えば「日々、生きてみる」ということになります。

 では、仮定として将来が悪くなったとしましょう。と言っても、いまから苦しむ必要はないでしょう。全体的に国の経済がダメになってしまったら、みんな同じ状態ですから、その時不安はどうでもいいことになるのです。ということで、今日の安らぎを失ってはいけません。

 仏教でも財産(お金)をいくらか置いといてくださいと言っています。予想外のいろんなことが起こりますから、病気になったり事故に巻き込まれたり、それはわかりません。その時のために、いくらかお金を置いておく、万が一何かあったときに使うためです。それから借金をしないためにも。借金は、仏教ではあまり認めません。借金をしたということは、お金の管理を失敗したということになります。

 自分が生きている社会で、一人ひとりの社会の範囲は、どれぐらいの人と付き合っているのかで、それぞれ違います。その社会の中で楽に生きてみる。それで十分でしょう。10年先に不幸になるかもしれないと、いまから悩んで苦労する必要はありません。「その時は、その時」とした方がいいと思います。

 正しく生きる人にとっては、全然そんな問題は起こりません。余計な心配はしません。例えば、両親が子どもたちのことを心配して、お互いにひとつの社会として生きていると、家の経済状態を子どもも小さいなりに知っているのです。ですから、モノがほしいと言う場合でも、自分たちでもそれなりに考えて親に要求したりする。経済状態が悪くなると、子どもたちもそれに合わせて協力してあげたり、仕事を手伝ったりするのです。そうすると家族は幸せです。ということは、家庭という社会の経済状態は良くなったり悪くなったり変わりますが、家族の生きる幸福は変わらないのです。

 あまりにも将来のことを考えるのは、欲ということになります。「日々、安穏で楽しく生きる」ということでいいのです。例えば、贅沢に食べるといっても、体の健康のことも考えているのですね。そういうように「余計なことはしない」ということで十分です。

生き方を間違えると破産する

 だいたい倒産したというのは、みんな生き方が間違っていたのです。個人破産するということもあります。それは必ず生き方が間違っているでしょう? 収入に適さない贅沢をしたとか、あるいは余計なことにお金を出してしまったとか、あるいはあまり信頼性のない人の連帯保証人になってあげたとか。借金することは良くないことなのに、他人の借金の保証人になるのはね。そういうところで失敗するのです。それは気をつけた方がいい。もし連帯保証人になるなら、その場合は銀行と同じで徹底的に調べた方がいいでしょう。銀行ではすぐにお金を貸してくれないでしょう。お金の管理が悪いと個人破産することになります。


「不貪」を育てる方法

「むさぼり」が自分の持っている財産や健康などを、どんどん引き離すエネルギーで、「不貪」は引き寄せるエネルギーだとお聞きしました。貪瞋痴の場合、怒りと無知を減らすためにやるべきことは、慈悲の冥想であったり、気づきの冥想など、いろいろとあるかと思います。「不貪」を育てるのはお布施が思いつきますが、それ以外に日常生活の中で「不貪」をどのように実践したらいいのでしょうか?

「私のものではない」という見方で生きる

 簡単です。「私のものではない」という見方で生きるのです。すべてのものを、そのように観るのです。例えば、いまこのホールを使っていますが、これはあなたのもの? この会場であるホールは、あなたのものではありませんね。ですから、このホールに対して欲(むさぼり)は生まれていないでしょう。生まれません。

 では、あなたの持っている財布は誰のもの? それは、「私のもの」と思っているでしょう。

 本当は何から何まで、すべて「私のもの」ではないのです。財布も同じです。「私のもの」ではないから、誰かに盗まれること、盗むこともできる。例えば、自分の財布を奥さんが持っていって買い物することもできます。本当に私のものだったら、そんなことできるはずがないでしょう。

 例を出しましょう。本人を示す身分証明書があります。その証明書を持って小学生の子供がお店に行って、酒を取って「これ、ください」と言う。買えますか? まあ買えません。子供が持ってきた身分証明書は、本人のものではありませんから。

 ですから、身分証明書みたいに自分のものと言えるものはありますか? 身分証明書も失くしたり、燃えたりしますから、それも本当は自分のものではありません。

 そういうことで、ひとつひとつを「これは、私のものでしょうか?」とチェックしてみるのです。そのように実践すれば、智慧と不貪が生まれ育ちます。


掃除と冥想

掃除をすると気分がスッキリしますが、掃除をすることと冥想と何か関係がありますか?

「気分爽快」は冥想ではない

 気分が爽快になったという定義を、冥想と結びつけたがっているかもしれませんが、気分が爽快になることが冥想ではありません。智慧が現れることが冥想です。気分が良くなるだけなら、いろんなものがありますから。気持ち良くなるということは、ただ貪瞋痴が刺激を受けたという場合もあります。

貪瞋痴が刺激を受けると気持ちいいのです。

ですから、「怒る」ことも気持ちが良いのです。怒鳴りたくなったら怒鳴るのが気持ち良い。貪瞋痴が刺激されて、気持ち良くなりたがっているのです。その代り怒鳴ったら、毒を食ったことになりますが。

 ということで、気持ち良い・気分爽快ということだけで判断はできません。何か智慧が現れないと。例えば掃除をするなら、掃除をしてキレイになっていくのだけど、瞬間に汚れていく。掃除機をかけてキレイになったと思っても、瞬間にホコリが溜まり始めるのです。それで「あぁ、そんなものか」とか、「ものごとは瞬間に変化していくんだ」「掃除機をかけたからといって、キレイになっても次の日も掃除しなくちゃいけない」とか、『ものごとをありのままに観る』という智慧が現れていくなら、それは冥想の世界になります。

 気分爽快ということは基準にしないでください。気分がものすごく悪くなるときにも、智慧が現れる場合があります。智慧が現れる方法・やり方は、すべて冥想に入ります。

どん底の時にも智慧は現れる

 ものすごく大失敗して、どん底に落ち込む羽目になったときにも、智慧が現れる可能性はあります。私はよく言っていますが、日常をいつでも実況中継して、妄想しないで生きてみてください。妄想するということは、貪瞋痴をかき回すことです。実況中継することで、貪瞋痴をかき回せないのです。その時は、気持ち良い場合もあるし、実況中継がやりづらくて、面倒くさいと思う場合もあります。面倒くさいと思ったとき、貪瞋痴が働きたくて働きたくて頑張っていることがわかります。その葛藤に気づくことで智慧が現れます。そういうふうに頑張ってみてください。


こころの成長段階

長老の本で、「人の幸せを喜ぶ」というようなことが書いてありました。他の本をどんどん読んでいくと、感情を捨てるというか、例えば山がキレイだと思うこと自体、心が汚れていることにもなると。「山がある」「花がある」と客観的にみることが正しいことだと書いてありました。最終的にどのようになるのか、感情で物事を判断せずにいるのがいいのでしょうか?

楽観主義から落ち着きへ

 これは、すべて成長次第です。成長を始める人は、山や川をキレイと思った方がいいのです。その方が気持ち良いでしょう。気持ち悪いよりは、気持ち良い方がいいに決まっているでしょう。それで、いつでも何を見たとしても、「いいですね、キレイね」とか思って自分が良い気持ちでいる。そういうふうに出来たところで、かなり苦しみなく生きているはずなのです。

 次はその人の能力次第ですが、「なぜ、山はキレイに見えるんだろう?」と観察してみる。例えば、自分が立っている谷から山を見るとキレイに見える。山に登ってみて頂上から谷を見下ろすと、谷の方がキレイに見える。結局、そうなってくると「美しさ」というのは遠くなるのです。手に入りません。そういうふうに観ることもできます。

 そうすると、以前のような何でも楽しいという楽観主義ではなく、少し落ち着いてくるのです。暗くなるわけではありませんよ。その人は山や谷がキレイだと知っていて、落ち着いているのです。自分が立っている場所によってキレイに見えるんだと知っている。例えば、お月さまもキレイでしょう? だからといって、月に行ってはいけません。月はとんでもない環境ですから。

 次に、「欲しいものを追うところに間違いがある」ことを観察したほうがよいのです。そういうふうに順番で心が成長していくのです。

例えば、ご飯を「おいしいね」と思って普通に食べても、家族と楽しく食べることも、その時に自分が幸せを感じていることは、第一段階としてはいいということでしょうか?

錯覚に気づく

 第一段階としては、それで構いません。次のステージに行ってみれば、すごく違う世界が現れてきます。「ご飯がおいしい」というのは、錯覚なのですね。家族と食事をするときには集中力がありませんから、そういうことには気がつきません。その時は、いろいろと話したりして食事をすることを、脳が見事に「おいしい、楽しい」と間違った判断をしただけです。

 自己観察していくと、美味しい・不味いなどは、脳の勝手な判断であると発見することができます。家族でわいわい騒いで食べる場合は、一つひとつ精密に理解することは脳にできなくなります。ですから、家族団欒が刺激的で楽しいので、その影響でついでに食べものも美味しいと決めてやるぞと脳が思ったのです。客観的にものごとを判断しない、大雑把に働くのが脳であって、それほど頼りになるものではないと理解することができるようになります。そういう順番でひとつひとつ進まなくてはいけないのです。

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