パティパダー巻頭法話

No.341(2023年8月号)

存在を征服する

人は命の真理を学ぶべき Conquest of life

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada 4.Pupphavagga
ダンマパダ(法句)第四章 華の章

  1. Ko imaṃ pathaviṃ vicessati
    Yamalokañca imaṃ sadevakaṃ
    Ko dhammapadaṃ sudesitaṃ
    Kusalo pupphamiva pacessati
  • だれがこの大地を征服するであろうか?
    誰が閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
    わざに巧みな人が花を摘むように、
    善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?
  1. Sekho pathaviṃ vicessati
    Yamalokañca imaṃ sadevakaṃ
    Sekho dhammapadaṃ sudesitaṃ
    Kusalo pupphamiva pacessati
  • 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、
    閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
    わざに巧みな人が花を摘むように、
    学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば感興のことば』岩波文庫より

世界征服

マンガなどのエンタメ業界では、「世界征服」という概念に人気があります。競争世界または妄想世界で、「世界征服」という概念が現れるのです。作品のなかでは、世界征服を企む悪役がいて、最終的にその計画が失敗するというストーリーになります。人間の歴史を振り返ると、現実に世界征服の野望を抱き、人類に多大な迷惑をかけた挙げ句、殺された人物の逸話があるのです。簡単に言えば、世界征服とは、独裁政治の拡大バージョンです。一般社会では、まともな人間なら世界征服する気持ちなど抱かないものです。そのような考えはマンガやゲームの世界でしか現れません。世界征服とは、人が決して持ってはならない概念なのです。

信仰世界

森羅万象を神が創造した、という基礎概念によって現れる宗教の世界があります。その基礎概念を敷衍【ふえん】すれば、「人間は神を信仰するべき」という考えが当然導き出されるのです。言い換えればこれは、信仰を用いた世界征服です。その目的で活動した人々が、歴史上にたくさんいます。しかし、成功者はいませんでした。地球の人類を一つの信仰で束ねることは不可能だと思います。なぜならば、人間は思考の自由を大事にするからです。「政治的には不可能であっても、信仰を用いて世界征服を考える人々はいるのだ」と理解したほうがよいのです。いずれにせよ、世界征服は実現可能な概念ではないのです。

仏教と征服概念

お釈迦さまも当然、人間が抱く「世界征服」という考えをご存知でした。昔の人々は、地球スケールでものごとを考えなかったのです。昔の人間にとって、「世界」とは行ったり来たりすることができる周辺の国々に限られていました。だから、世界とは理解できる範囲の地域のことになりました。そうすると、世界征服も「努力すれば成功する」概念に変わるのです。しかし、隣の国を侵略して人々を殺したり、奴隷にしたり、抑圧したりするのは、明らかに悪行為です。戦争とは昔も今も、欲にかられた支配者たちが行なう悪行為なのです。

釈尊が世界征服という概念について考察したという証拠があります。世間の政治的な考えに基づいた世界征服は断言的に悪行為なので、仏教ではそれと全く違った方法で世界征服を成し遂げた「転輪王」の物語を教えるのです。これは、断固として戦争に反対するメッセージが込められた教えです。転輪王物語に登場する王は、まず完璧に道徳を守る人間になり、国民のさまざまな問題を解決してあげます。大王というより、国民の大父親になるのです。国民は自分の実子と同じなので、限りなく心配する。国民は平和で豊かで幸福に溢れた生活をするので、盗むこと、殺すことなどの違法行為はすべて消えてしまう。そうなると、隣国の国民も平和で幸せになりたいので、この王の指導と支配を請うのです。その国にも、道徳に基づいた政治論を教えてあげる。それで隣国も、そのまた隣国も、国境が海岸に達するまで、同じ流れで転輪王に服するのです。とはいえ、転輪王が自分の支配下に入った国々を支配することはありません。ただ、正しい政治論を語り、実行させるだけです。そのように、東西南北どこまでも、海岸が国境になるまでこのシステムが拡がったところで、この王様は世界征服を成し遂げた王様になるのです。彼は道徳を武器にしたので、「法王」とも称えられるのです。

お釈迦さまは恐らく、「人が人を支配することは悪行為だ」と思っていたのでしょう。それでも、現実には政治とは人を支配することであり、管理することです。道徳的に生きることは個人の自由な判断です。「転輪王などという存在が歴史上にいたわけではない」と却下する前に、「釈尊は転輪王物語を通じて、覚者として考えた政治論を語ったのではないか?」と推測することは可能です。ブッダの世界征服物語では、すべての人類もその他の生き物も、自由になるのです。

ブッダのことば

Ko imaṃ pathaviṃ vicessati
だれがこの大地を征服するであろうか?

お釈迦さまは謎かけをします。ブッダが思うところの大地とは、この世の地域に限らないのです。この偈では、大地にヤマ(yama
閻魔)の世界も繋げます。ヤマ世界とは、神話的に語られる「閻魔様が住む世界」ではありません。ヤマとは、時間を意味する単語です。時間という概念で存在を見ると、すべての現象が壊れて消えるのです。時間の流れに対立することは不可能です。もっとわかりやすく言えば、人は必ず死ぬのです。「この次元を誰が征服するのか?」と謎かけします。ふつう一般人は、「死後、天界に生まれれば永遠不滅になる」と信じているのです。この考えは、死に怯える人々の気休め以外のなにものでもありません。仏教的には、天界に天人が住んでいます。天人は生命です。生命であるならば、時間の流れから自由にならないのです。天人たちも、寿命が尽きたら死にます。ですから、謎かけはこのようになります。「ヤマ世界と天界を含む、この大地を征服するのは誰でしょうか?(Ko
imaṃ pathaviṃ vicessati, yamalokañca imaṃ sadevakaṃ)」

先に述べたように、「世界征服」とは、まともな人が考えるテーマではありません。しかし、昔の人々が考えた世界はそれほど大きいものではなかったので、世界征服の概念も生きていたのです。昔の人々にとっては、マンガの物語ではなかった、ということです。釈尊は、世界征服の概念を人間の考える範囲を超えて謎かけしたのです。大地も征服する。天界も征服する。死界も征服する。これはできる人は誰でしょうか?

真理を征服する

真理を征服する必要はありません。真理は発見するのです。人は「生まれたから生きている」存在です。命とは何? 生きるとは何? 正しい生き方は何? 生きることの目的は何? 生きる人が目指すべき目的は何?
それらの問題は考えないのです。しかし、お釈迦さまはそういった問題を真剣に考えてきました。修行の結果、その真理を発見したのです。仏教が語る真理とは、銀河系の大きさ、ブラックホールのありさま、宇宙の構造などのことではありませんでした。「命とは何?」という問いに答えを見出し、命の仕組みを発見したのです。生きる人のゴールは、命の循環(苦の循環)を脱出することです。釈尊の教えは、命のありのままの姿を説明して、それを脱出する方法を説いたのです。それも、わかりやすく、明確な言葉で。世界征服をしたい人は、真理を学んで、苦の循環を脱出するべきなのです。

ここで喩え話が入ります。華道の師匠が花園に行きます。いろんな花が咲いています。しかし、手当り次第なんでも摘むわけではありません。自分の作品に適した花を上手に選んで摘むのです。世の中にはいろんな教えがあります。いろんな宗教があります。相異なる哲学・思想もたくさんあります。そこで、「生きるとは何?」という疑問を抱いた人はブッダが語った命の真理を学ぶのです。摘んだ花を活けて作品をつくるように、真理を学んだ人はそれを実践して解脱へ達します。要するに、命そのものを征服するのです。お釈迦さまは続けて、謎かけをします。

誰が正しく語られた真理を選ぶのか? 誰が生きることを征服するのか?(Ko dhammapadaṃ sudesitaṃ, kusalo pupphamiva pacessati)

生きることの目的

生きることには目的がありません。生まれたから生きているのです。生きられればよいと思うから、生きることを支えるならば、どんな行為でもするのです。善悪は関係ありません。命を守るために、悪行為でもするのです。そうやって必死に生きていても、死は隣り合わせです。どんな瞬間でも、人は死ねる。わずかな不注意で命がなくなる。必死で頑張って、並ならぬ努力をして生きることに挑戦しても、人は死ぬのです。死後の世界に期待をかけて、死の恐怖を忘れようとする人もいます。しかし、誰も死後の世界を知らないのです。各信仰組織は、各自でユニークな「死後の世界」について語ります。すべて妄想概念なので、世の中で死後の世界についてもさまざまな考えが林立しています。自分の信仰組織で語られる死後の世界を信仰して、安心することにも意味がないのです。

学びなさい

ブッダの指令は「学びなさい」です。客観的に、具体的に、「生きるとは何?」と観察して調べてほしいのです。釈尊はありとあらゆる方法で教えています。なぜ人は必死で生きているのでしょうか? なぜ落ち着いて気楽にいられないのでしょうか?
命は苦でできているのです。何もしないでいると、激しい苦を感じます。苦を耐えられなくて早く死にます。世は生きることに頑張ってみる。仕事をしたり、財産を求めたり、家族をつくったり、社会関係を築いたり、政治活動をしたりもする。あらゆるものを取得しようと頑張る。しかし、生きることに頑張るいとなみも、苦なのです。たまに楽しみもあるけれど、苦のほうが多いのです。人生に成功して豊かになったと思っても、時間の流れには勝てません。必ず老いる。病に陥る。死ぬ。全体的に、生きることは虚しい行為です。

虚しい行為?
一般の人はそう思わないのです。意味があるはずと思います。それは何かと聞くとわからない。虚しいと認めることで、ふたたび恐怖感が生まれます。虚しいと認めたくはないが、生きる意義も見つからないのです。このディレンマも、苦になります。お釈迦さまはそれに答えを出します。生命に存在欲があるのです。(生きていたい、死にたくない、という気持ちです。)存在欲があるから、必死で生きようとします。目的があってもなくても、生きようとします。家族のため、国のため、などなどの偽装目的も作ります。人は誰のために生きているのでもありません。存在欲が人を奴隷にして生かしているのです。存在欲があるから、死が究極の恐怖だと思っています。しかし、死は恐怖ではないのです。自然の流れです。一つが死んで、また別なものが現れます。米が死んで、ご飯が現れます。ご飯が死んで大便などが現れます。死は自然の流れです。現象の流れです。生と死は切り離せない現象です。問題を惹き起こすのは、「存在欲」です。人は無知です。無知を脱したければ、命の流れを学べばよいのです。存在欲を根絶すれば、問題を解決します。その人こそ、生きる目的に達します。だから、ブッダはシンプルに「学びなさい」と言うのです。

征服者

ブッダの世界には、征服者がいます。ヤマ世界と神々の世界を含む大地を征服する人がいて、華道の師匠が適切な花を選んで作品をつくるように「生きること」を実らせる人々がいるのです。その人をsekho【セーコー】と呼ぶのです。要するに、学ぶ人のことです。学んで、実行もしなくてはいけないのです。仏教の学ぶ道は、実践に繋がっています。学ぶ人という場合には、実践する人という意味もそこに入っています。文学的に表現すれば、仏道を学ぶ人は世界征服者なのです。この世もあの世も征服するのです。時間の流れから離れるので、生老病死を乗り越えるのです。Sekhoという単語で、「預流果に達した人」を意味します。仏道を実践して預流果に達することができたならば、その人は世界を征服した人です。ここでは、世界という単語を「命、生きること」として理解するのです。

今回のポイント

  • 世界征服とは文学の概念です
  • 世界征服は成り立たない悪行為
  • しかし仏教は世界征服を推薦します
  • 仏教の世界征服は真理を学ぶことです
  • 真理を学ぶ人は命を征服します