あなたとの対話(Q&A)

長老の話に執着してしまう/人と人の対立をどう解決するか/誓願のススメ/ニュース・報道への対処法

パティパダー2016年11月号(209)

長老の話に執着してしまう

長老の話は有り難く、生活の中で少しずつ活かしています。しかし、私が長老の話を聞くことに執着してしまっているのかもしれないと、時々感じることがあります。そのような執着はどのように考えればいいのでしょうか?

真理に執着することは成り立たない

 私の話に執着しても意味がないのです。私はお釈迦さまの教えを伝えていますが、それで自我を張っているわけではないのです。誰かが仏教を説かなければならないから、話をしているだけです。

 私だけではなく、お釈迦さまにさえ執着する必要はないのです。真理に執着する必要はありません。お釈迦さまは「ブッダを護る必要はありません。ブッダの教えを護る必要はないのです。なぜなら、それは真理なのですから」と仰ったのです。逆に、間違ったことを言うと、それは護らなくてはいけない。例えば、誰かが「私に」執着してしまったら、私の間違いまで、一生懸命に弁解することになるのです。子供が間違いをしでかすと、お母さんが弁解するはめになるようなものです。

 真理に執着するということは成り立ちません。私たちは太陽のエネルギーで生きていますが、太陽に執着する人はいないでしょう。同じように、「一切は無常である」という真理の言葉にも執着する必要はないのです。

 私に限らず誰かから仏教の話を聞く場合、個人的な意見を混ぜて説明される可能性もあります。それはフィルタリングして、個人の意見として受け取ってください。私の場合は、「これは私の主観です」とはっきり言います。その場合は、これはこの人の意見なんだと適当に理解してください。「これはブッダの言葉です」と言ったら、それは真理です。真理はそのまま理解するしかないのです。

 お釈迦さまは我々にとっては偉大なる師匠ですから、尊敬の気持ちを持つ必要があります。仏法僧に帰依するとは、執着ではありません。それは「仏門に弟子入りして導いていただきます」という心構えなのです。


人と人の対立をどう解決するか

人と人の対立をどのように解決していけばいいのでしょうか? 例えば、ある組織で部下と上司の方針が合わない、やり方が合わないとか、そういうことを単なる妥協ではなく解決するにはどうすればいいのでしょうか?

「我は正しい」という見解がぶつかりあう

 理性的に考えてみましょう。世の中には、一人として似た人間はいません。皆それぞれで、様々なのです。それだけです。「みんな互いに異なるものだ」というところで落ち着きましょう。相手の違うところを直してあげる必要はありません。違う意見を持っていても、それが性格になっているのですから、それを人が認めようが、否定しようが、そんなことはどうでもいいのです。

 「人はそれぞれ違います」ということを理解しておけば、人間の対立関係という問題は何とかなります。でも「対立」自体は無くなりません。対立が問題になって困るのは、「我は正しい」という見解同士がぶつかるからです。ブッダの教えを知っている人ならば、対立するような場面に立ち会っても「我は正しい」という態度は取りません。「これは私の意見です」と明言して終わるのです。

 人間のことをよく観察してみてください。上司のことも観察してみてください。みんな「我は正しい」という態度を取っているから苦しんでいるのだ、と見えてきます。

個人差を見事に活かす仏教の世界

もしも「我は正しい」という問題が無くなったとしても対立・違いというものは残ります。

 たとえば、お釈迦さまの弟子たちがいたでしょう。みな性格が違いました。アーナンダ尊者は話すのが上手で、人間関係では人気者で、それから物事をしっかり憶え、記憶力が世界一でした。サーリプッタ尊者は、またすごく性格が違います。智慧第一で、人間としてものすごく控え目、「あなた誰ですか?」というぐらい存在感を控える。しかしその人が、お釈迦さまの第一弟子だったのです。アーナンダ尊者と一緒に出家したウパーリ尊者という方は、アーナンダ尊者より先に阿羅漢になった方です。そのウパーリ尊者は法律家。ブッダの教えの中でも戒律に対して、ものすごく優れた能力を持っていました。

 このように、阿羅漢に達したお釈迦さまの弟子たちの間にも、個人の差があったのです。しかし、自我のない世界ですから対立問題は起きなかった。この問題についてはサーリプッタ尊者に聞きましょう、これはモッガラーナ尊者に尋ねたほうがいい、サンガで問題が起きたらアーナンダ尊者に相談しましょう、そうやってそれぞれの能力に応じて仕事をしてもらったのです。

違いを理解した上で仲良くすること

 一般の社会では、そこがなかなか上手くは行きませんね。それは俗世間ですから仕方ありません。この仕事は○○さんに頼んだ方がいい、ということにはなりません。「これはオレがやる」と自我を張って間違うのです。オレがやると言っても、どんなことでも上手くはできないでしょう。下手くそで何回も繰り返しながらやる。それでは傍迷惑です。仕事を上手な人に任せると自分の立場がなくなるのではないか、という自我が割り込んでくる。そういう問題がずっとあるのです。たとえば政治家の方は、みんな自分が総理大臣になりたいと思っていたりする。そんな感じです。総理大臣になれたとしても、その職を果たせるのかということは別の話なのです。

 すべての生命は互いに違います。夫婦であっても、別々の人格です。親子であっても別な人格です。似ていません。そのことを理解した上で、仲良くするのです。相手に自分の考えを押し付け、洗脳するものではありません。そういう気持ちを理解して頑張ってみてください。


誓願のススメ

輪廻という生と死をまたいで、また仏教にめぐり合う方法はあるのでしょうか?

誓願で生存欲の形が変わる

 方法はあります。しかし、これは宇宙の法則という問題もあって、気が狂うほどの時間単位で考える羽目になります。そんなに難しくはありません。輪廻転生するのは、「私」とレッテルを貼っている「識」(viññāna,認識機能)なのです。この「識」は自我ではありません。瞬間、瞬間、無常で消えていきます。次の生まれを作るのは識なのです。ですから、いま現在で識を育てておけば、その育てた能力は次へ次へとコピーしていくのです。

 仏教の専門用語では、「誓願」という言葉があります。いまできなくても必ず解脱に達しますと、こころに言い聞かせて刻んでおく。誓願は、意志(cetanā)です。その意志が識に影響を与え、存在欲にも影響を与えます。存在欲の形が変わるのです。「生きていたい」「死にたくない」「死んだら生まれ変わってやるぞ」ではなく、「生まれ変わるのは仕方ない、だけど道を歩んでいく」という誓願をしておけば、仏道を学べる・実践できる環境が現れると、その環境のなかにうまく転生することが可能です。

誓願が成り立たないケース

 とはいえ、なんでも誓願が可能というわけではないのです。善行為をする人には、誓願を立てることができます。しかし悪行為をする人が誓願を立てても、その通りにはならないのです。悪行為を止める気持ちがまったくなく、死後、幸福になりたいと誓願を立てても、おそらくそれは叶わないでしょう。悪人が人を恨んで、生まれ変わっても相手に仕返ししてやるぞと誓願する。それは成り立ちません。自分の誓願自体が悪行為なので、本人はその悪行為の結果を受けなくてはいけないのです。他人を苛める誓願をしたのに、悪行為の結果、周りから厳しく苛められる生まれになってしまうでしょう。善行為をする人々の誓願は、決して反対の結果を出しません。因果法則と業の条件が揃ったら、誓願どおりの結果になります。

 善行為をするとは、悪に走りたがるこころを調教して直すことです。要するにこころのプログラムを改良するのです。ですから誓願する人は、その意志に相応しいところに生まれることがあり得るのです。誓願して、善行為をして、こころを清らかにする。自分のこころを戒めて、こころに誓願というプログラムを入れておくといいのです。

まずはこの世で覚るように頑張ること

 まずお釈迦さまの言葉からいうと、この世で覚るよう頑張ってみてください。可能性は大いにあります。でなければ仏縁に恵まれて、いま仏教に出会うことはないでしょう。人間に生まれて、ある程度楽に生きていられる。たとえば経済的にものすごく豊かであれば、逆に覚ることはできませんよ。その豊かさにこころがやられてしまうのです。ですから、まあなんとか生きていられる状態というのは一番良い状態です。なんとか間に合って生きている。ということは、こころもそんなに汚れていないし、その上仏縁にも恵まれている。皆さまは純粋なお釈迦さまの教えを聞くことができるチャンスも得ている。これは考えてみれば、とてつもないチャンスでしょう。ですから、もしかすると覚りに達するかもしれません。

 というわけで、そのような気持ちになってみてください。今生でたとえ失敗したとしても気にする必要もないのです。いま解脱を目指して真面目に修行しているのだから、育てた能力は識(viññāna)に残るのです。大丈夫です。


ニュース・報道への対処法

毎日ニュースなどでは許せないような嫌なことがあるのですが、そういうニュースなどを見たり聞いたりしても、スマナサーラ長老は怒ったりしないのでしょうか? 悪いニュースを見て怒ることも人にはあると考えるのですが、どうでしょうか?

悪いニュースはこう観察する

 私は悪いニュースを見ても怒りません。その代わりにこう考えます。「なぜ人々はこんなことをするのでしょうか? 良いことができたはずなのに。世の中はいつでもこんなものだ。無知によって社会に迷惑をかけて自分自身を破壊しているのだ」というふうに考えて理解するのです。私も自国のニュースや情報を毎日見ますが、悪いニュースしかありません。ある日ニュースキャスターが、こう言ったのです。「朝からいつも暗いニュースばかりで申し訳ありません。明るいニュースを伝えたいのですが、今日も明るいニュースはひとつもありません」と。

 人間というのは、やはり皆我がままで自分の利益しか考えていない、慈しみに欠けた存在なのです。ですから、問題や事件などがひっきりなしに起こるのです。ニュースや事件というのは、ほとんどネガティブで、暗いものばかりですね。そんなことを見て、どこまで怒り続ければいいのでしょうか? 世界の人口はどれぐらいいますか? 皆無知ですから、一人ひとりがやっていることはたいてい悪いことなのです。

 ですから、どんな悪いニュースを見たり聞いたりしても、大きな心で「これは無知のせいである」と理解したほうがいいのです。「世の中は無知で狂っている。気をつけなくてはいけないのだ。こういう過ちを自分は絶対にしてはいけないのだ」と、そこから勉強して、学ぶのです。そのように対処するしかありません。

ニュースを見るのは自分の勉強のため

 日本のニュースを見ても、信じられない事件というのがいっぱい起こっています。そういうのを見て、たまに説法のテーマとして出したり、例として出したりもします。問題は、皆に智慧がなくて感情で生きていることなのです。それを解決するためには、ブッダの教えを学ぶしかありません。だからといって、誰も仏教に興味もないでしょう。ですから、私たち一人ひとりが「こういうことはやってはいけない」と勉強しましょう。ニュースを見ることも自分の勉強のために見るのです。            

 たまに良いニュースもありますね。誰かが驚くような善行為をした、ということも稀にニュースになります。そんな時は「こんな素晴らしい人間もいるのか」と感動してもいいのです。良いニュースに対しては随喜して、悪いニュースに対しては自分を戒める。それしか方法はないと思います。

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