冥想と病気/知的障碍と覚り/自己愛と自我/修行と俗世間のギャップ/逃げるべきか踏みとどまるべきか/二十四時間の冥想は可能か?
パティパダー2016年10月号(208)
冥想と病気
私は椎間板ヘルニアや頸椎ヘルニアという持病があるのですが、冥想というのは病気にも効果的なのでしょうか?
肉体の病気は治らなくてもいい
まず言いたいのは、別に肉体の病気は治らなくてもいい、ということです。だって生老病死は、自然の流れですからね。「あぁ、そうか」ということで、落ち着いていることがかっこいいのです。身体はそんな調子でも、別に気にしませんと。人間が完全に無病であるならば、命は成り立ちません。身体が壊れたり、老いたりするからこそ、我々はそれを修復するということをやっています。生きているということは、絶えず身体を修復し続けることです。ですから、病気が完治してしまったら、マズいのではないでしょうか? ひとは死ななくてはいけないのです。一般社会で病気だというのは、生命に法則としてそなわっている病気ではなく、そのプログラム以外で突然起こるインフルエンザ、肺炎、脳膜炎などなどです。
身体の病気は治しやすいのです。しかし、精神の問題で身体が病気になることもたびたび起こります。このような病気には、医学的に治療を施しても、なかなか治らないのです。精神が原因で現れる病気は、冥想をきちんと続けると治ります。身体の構造上の病気と、細菌などに感染するような病気の場合は別ですが。細菌に感染しても、そこは身体がすぐ抗体を作ります。しかし、精神的に喜びがない、楽しくないと感じている場合は、白血球など免疫システムが起動しない、働かないのです。精神的に暗いと免疫システムがスムーズに仕事をしないのです。交番にいるお巡りさんと同じようなものですね。交番にいることはいるのですが、何をやっているのかよくわからない。
しかし、何か問題が発生したら、そんなものではありません。すぐに関係各所に連絡し、現場に大勢のお巡りさんが駆けつけるのです。我々の持っている免疫システムは、身体の中に交番があるようなものです。いろんなところに交番があるのですが、普段は何をやっているかわからない。しかし何かに感染したら、いきなり連絡がいって、すぐにそれを対処(退治)するのです。
それで、こころが壊れている場合、機能するはずの免疫システムでは、何かに感染したとしても、そのまま連絡を閉じてしまうのです。ですから、交番があって安全なつもりでいるのですが、身体は壊れていくのです。ガン細胞を壊すためにも免疫システムが働かなくてはいけないそうです。
こころの状態によっては、免疫システムがしっかりと機能し、働きますよ。こころが明るくて、常に充実感があって、過去と将来のことに悩まないで、人生は今の瞬間だけだと、だからおどおどする必要はない、落ち着けという感じでいられる場合は、けっこう健康が保たれます。しかし、生きている限り、完全に健康ということは成り立たないのです。
椎間板ヘルニアや頸椎ヘルニアなどは、身体を構成する組織の組み立て問題です。長い間、正しい姿勢を保たないで生活することでも起こり得るのです。もしかすると元々、自信がない、精神的に暗い、などの精神問題があって、その結果、姿勢が悪くなることもあり得ます。原因はどうであっても、今は組織の組み立ての問題なので、こころの問題ではありません。肉体が与える苦しみに負けず冥想実践すれば、精神的に強い人間になります。精神的に健全になった場合、身体の不都合は気にしないでいることができます。病気が自分の人生の障害になることはなくなります。
知的障碍と覚り
知的障碍者は覚ることができますか? 知的障碍の人は、現実、または健常者の社会で流されるままに生きていくしかないのでしょうか?
知的障碍は簡単に判断できません
「知的障碍」というのはどういうことをいうのか、我々の判断では理解できません。覚った人が本人と喋ってみないと、知的障碍かどうかわかりません。私の経験では、健常者という人々の中で相当な知的障碍の人たちをたくさん見かけることがあります。逆に世界でバカにされている人の中で、ものすごい智慧のある人を見つけたこともありました。
ですから、知的障碍者か智慧があるかということは、一般の俗世間の基準で判断しないほうがいいのです。仏教の立場からみれば、「無常が発見できるかどうか」ということが基準です。それが不可能だとかわかったら、誰だって知的障碍者なのです。
論理的に言えば、知的障碍者は覚れません。しかし、それは差別的な答えではないのです。誰だって輪廻転生するのですから、この今の人生で宿題(レッスン)をやって、どんどん心を成長させていったほうがいいんじゃないかと思います。
誰にとっても、人生は学校なのです。自分の肉体も、すべて学校なのです。そこから何か学ばなくてはいけない、成長しなくてはいけないという宿題なのです。自分に与えられている宿題をやればいいのです。ということで、「覚れない」という答えは差別的な意味ではないのです。
知的障碍を持つ命には、その人に特定の宿題があるということです。そのハンディから何かを学んで精神的に進みなさい、というメッセージが入った宿題です。
自己愛と自我
「自己愛」と「自我」の違いがよくかわりません。教えて下さい。
優しい気持ちか、わがままか
「自己愛」というのは、自分をより良い立派な人間に育てましょうという、進歩的な優しい気持ちです。より良い人間になろうとか、こころの汚れをなくそうとか。そういうふうに自分を育ててみようと思う気持ちなのです。
「自我」というのは、わがままです。自分を成長させるというような気持ちはまったくありません。「私のことをやってくれ」というわがままで、はた迷惑をかけることが自我なのです。それで自分自身も破壊してしまうし、他人にも迷惑をかけるのです。
自己愛は、社会に認められる、応援してもらえる性格です。自我は、社会から非難を受ける、自分にも他人にも迷惑をかける性格です。自己愛は進歩で、自我は退化です。
修行と俗世間のギャップ
まだ冥想実践を習い始めたばかりですが、世の中は汚いことが多いじゃないですか。修行でお寺に来て冥想しているときは落ち着くのですが、実際の生活に戻ったときにギャップで悩むということはないでしょうか? 世間に戻ったとき、どのように実践するのかわからないので教えて下さい。
世間は汚れているのが当たり前
「世間」というのは、汚れていることが当たり前なのです。ですから、仏教用語では「世間」とは「汚れた世界」という意味なのです。煩悩で生きている世間を見て、「世間が正しい」と認めることは間違いです。
譬えで説明します。魚が歩くことを期待するような感じです。これはちょっと無理な期待でしょう。世間では、わがままで自分のことしか気にしない、自分のためならどんな悪いことでもしてしまう、というのが普通になっています。
そこで私たちは、ほんの少しその環境から離れて、自分を育てようとするのです。最初は誰だって清らかな環境、世間と違った環境を作って、こころを強くしなくてはいけない。それで、こころがどんどん強くなって、清らかになってくると、別に特別な場所(環境)がなくても大丈夫になるのです。
世間は自分のこころを試す道場
世間の中にいても、世間の流れに流されないように、揺らがないようにと、自分のこころを試すことが、逆に修行になるのです。ですから、ステップは二つあります。世間にいる限りは、どうにもならない。世間の波に流されてしまって、みんなと一緒に泳いでいるだけです。弱肉強食の世界です。そこで我々は一時的に、ちょっと清らかな環境を作って、そこで自分のこころを強くしてみるのです。
それから、いつでも人工的に作った環境にいられるわけではありません。普段、皆様は自分の家で家族と生活していますね。道場に入って、こころがいくらか安定してから、また世間に戻ってみるのです。それでも、修行は続けなくてはいけません。その場合の修行とは、世間の波にこころが揺らがないように気をつけることです。それが自分自身の宿題です。
ですから、いかなる場合でも世間を指さして文句を言ってはいけません。例えば、ある人がものすごく性格が悪くて、他人に迷惑をかけてくるとする。はい、それでも私は落ち着いていなくてはいけません。迷惑な人を非難侮辱したりして、自分のこころまで汚す必要はありません。という具合に、世間・世界を「自分を育てるための道場」にするのです。反面教師のような意味です。それはすぐにできませんから、お寺などの修行道場に足しげく通って、能力向上に励んだほうがいいのではないでしょうか?
逃げるべきか踏みとどまるべきか
長老のご法話で「尻尾を巻いて逃げた方がいい」ということと、「腰抜けであってはいけない」という内容のお話がありました。その意味の差を教えてください。
向上から逃げてはいけない
まず、どんな悪行為をしてでも生きていきたいという状況からは、尻尾を巻いて逃げた方がいいのです。一方、「腰抜け」というのは、自分自身で成長しない、学ばない、勉強しない、自分を育てない、という意味です。物事を理解しようとしないのは、けしからんことでしょう。難しいことでも挑戦して学んでみる。頑張って先に進んでみる。それは生き延びるためにやっている醜い争いではないのです。そういう差ですね。
例えば、冥想実践をする。なんだか身体が疲れてきて、「まぁ、いいや。止めよう」と思う。それが腰抜けなのですね。そこで「怠けと闘うぞ!負けるものか」と闘わなくてはいけないのです。その場合に起きる意欲は、存在欲ではありません。
人々が自分のことを非難したり、邪魔をしたり、迷惑をかけたり、いじめたりする。その場合は「勝手にしろ」と自分が出ていけばいいでしょう。そこで他人とケンカする必要はないのです。そういうときは負けたほうがいい。人格向上の妨げになる環境からは、尻尾を巻いて逃げることです。人格向上をサポートする環境であるならば、いくら厳しい環境であっても逃げないで耐え忍ぶことです。
二十四時間の冥想は可能か?
ヴィパッサナー冥想は二十四時間体制でやると聞きました。寝ている間に夢を見ているときも冥想はできるのでしょうか? 何をどのようにするのでしょう? 夢の中だと自分の意志と関係なく物事が進んでいるように思いますが。
夢の中でも実況中継は可能
一般的にはそうですね。いつも現実世界を観察していて、その習慣が体に染みついているならば、夢を見ても「あぁ、これは現実じゃない」と気づけますよ。夢の中でも理性が働くということです。ちょっと冥想してみればできます。これはすごい能力ではありません。驚く必要もありません。
ヴィパッサナー冥想で「二十四時間体制」を強調する場合は、理論的なことを言っているのです。ヴィパッサナー冥想を論理的に定義するならば「生きることの研究」です。であれば、自分が生きているときに研究をしなくてはいけないのです。自分が生きていない瞬間というのは、どんな瞬間でしょうか? たとえ寝ているときでも、私たちは生きているのです。つまり、二十四時間生きているのです。生きることを研究するならば、結論として二十四時間研究することになるのです。これはセオリー(理論)です。
具体的には、目覚めているとき、起きているときに、実況中継して冥想することができます。寝たらその意識がストップするのですから、実況中継はできなくなります。夢というのは妄想が現れたということです。妄想したということなら、意識が働いているのです。それで目覚めているときに、サボらないできちんと修行をしていたならば、サッと実況中継が割り込んできます。
実況中継をやりたくなくても勝手に割り込んでくるまで、訓練しなくてはいけません。わざわざ「冥想するぞ、修行するぞ」ということはではなく、やりたいわけでも、やりたくないわけでもなく、勝手に実況中継が割り込んでくる。そこまで頑張ってみてください。その場合は、夢を見たとしても勝手に実況中継が起動します。



