心の速度について
スマナサーラ長老の受け売りで「心の波動は光の速度の17倍くらい速い」と門外漢の友人に話したところ、「どうやって計測した数値なのか、いい加減ではないか」と不審がられました。単に「八百八町」のように数の多い事のたとえなのでしょうか。
ご質問ありがとうございました。かなりトラブルを起こすことばだと思います。
本を読んだり話を聞いたりするとだれでも言葉に引っかかります。 仏教は言葉だけの勝負で伝えにくいものです。
我々の人格というか、性格と言うか、いわゆる心の汚れを落とす目的で語られたもので、言葉よりもそれによって、我々の心に何を響くか、性格にどのような影響あるかが大事なポイントです。
仏教に出てくる例え、数字などをどのように理解するべきかは「HP管理人」は正しく説明していると私が思います。しかし、問題を作った犯人に説明する義務があります。
仏教は語る「物質とこころ」について、研究論文でも書かないと仏教の立場を明確に分析できないと思います。俗世間の思考パターンと違うところはたくさんありますからです。
物質は存在するという宗派もあるし、全く物質は存在しないという宗派もあります。どちらの思考にも支えになるような言葉をお釈迦様に語られたことも確かです。ですから宗派仏教も互いにめげないで踏ん張っているのです。ことばに引っかかることはお釈迦様に厳しく叱られた行為です。
では、光の速度:
俗世間に興味あるこの問題は仏教には関係がありません。
仏陀の時代の人間は速度なんか知らなかった可能性もあります。教育もなく、労働で生計をやっと立てていた人々にも真理を語られたので、逸話だけでも仏陀には間に合ったのです。知識人がこられたら、その知識に合わせて同じ真理を語られたのです。
「光の速度」私は現代の知識社会から拾ったものです。仏教から観ればのこころ変化は物質の変化速度と比べるとはるかに早い。では、世の中で一番早いと言われているものはと言えば光です。光は何なのか? 仏教から見ると物質です。であるなら、こころは光よりは早いに決まっている。
認識の最小の単位を作るためにこころは17回変化するとAbhidhammaでは教えていいます。(これはバラの花ですと認識すると認識単位はたくさん経ています。目をあけた瞬間で目に触れた光の情報によって、何か触れたぐらいしか認識しない。それから順番に触れたものはなんですか、云々と認識が流れていってやっと「バラの花」という認識になるのです。目を開けてから「バラの花だ」と認識するためにどれぐらい時間かかるか最先端の科学技術を持っている皆様に簡単に出来ると思いますが。もし教えてくれるなら、その概念も結局、私が拾って、法を説明するためにつかいます。)
なぜこころは17回変化するかと言う問いにAbhidhamma説は物質の瞬間はこころの瞬間の17倍ということになっています。
(注:時間の最初の単位はkhaṇa瞬間です。時間は存在しない。ものは変化する。その変化の速度が時間と言う概念を作る。物質の変化の速度の最小の単位はkhaṇa1です。こころの変化の速度の最小の単位もkhaṇa1です。しかしこころのkhaṇa17=物質のkhaṇa1です。言葉が同じで混乱するからこころの単位であるkhaṇaを一般的に使っているのです。)
ではAbhidhamma思想家が物質よりこころは17倍早いと計って分かったのですが。これは瞑想の達人達が得た超越した智慧に基づいて言っていることで、一般的には理解できないものだとAbhidhammaがサンザン言っています。それはそれで、Abhidhammも一つの学問だと思って考えてみましょう。そのとき私に見えたことは「物質の明確な認識の最小の単位を起こすために17種類の心が働くということです。こころは一つのながれなので、多数の心は一緒に働くのではなく一つ一つのこころは自分の機能を起こして消えるのです。こころに触れた物質は消えるまで反応を起こします。その間心が17回生まれて消えます。それで物質よりこころは17倍早いということになったのです。
スマナサーラが俗世間から光は一番早いと聞いたことがありました。俗世間のかたがたはそれなりの研究の結果から教えたことでしょう。うそを言っても意味がないし、あらゆる機械も嘘の概念に基づいてつくれないし。したがって、光は物質だから光の変化速度よりこころの方は17倍早いことにしたわけです。計ってないのです。
単純に言いたかったのは「こころの変化は途轍もなく早いです」ということなのです。それだけを言っても「漫画インテリ」社会は感動しないでしょう。耳を向けないでしょう。スマナサーラが決していいかげんで無責任で喋っている訳ではないが、昔の仏陀の話、そのまま日本語にしても意味が通じないのだから、一人で工夫するのみです。
それから、説法をするとき、自分の意見を述べる場合お釈迦様の意見だと誤解しないように、ハッキリと、明確にそれを断って言っています。注釈書に基づくときも「注釈書によると」と明確にいいます。
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「どうやって計測した数字なのか、いい加減ではないか」といわれてもいい加減なのはどちらでしょうかとも思います。
計測できるものもできないものもあるでしょうに。計測のしかたもそれぞれたくさんあるでしょうに。宇宙から来る僅かな信号で、写真まで作って「云々星団の写真を撮ったぞ」という。いい加減なのはだれですか? 宇宙から送られた写真の影をみただけで、うんうん惑星に水があるぞう。量はこれぐらいだぞと言う時もいかがでしょうか。いい加減なことを言って後に出たデータで何回も何回も説を訂正する世界もいい加減になるのでは?
私は、私も、そちらもいい加減では無いと思います。能力のリミットの中でがんばっているだけだと思います。
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17倍かないかは関係がないのです。「こころは早い」。「物質より早い」。こころを清らかにしようとする人に必要なのはこれだけです。
三宝のご加護がありますように。
Sumanasara
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(以下はご参考までに管理人の返信文です)
タイトル:Re: 心の速度について
> スマナサーラ長老の受け売りで「心の波動は光の速度の17倍くらい速い」と門外漢の友人に話したところ、「どうやって計測した数値なのか、いい加減ではないか」と不審がられました。単に「八百八町」のように数の多い事のたとえなのでしょうか。
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お釈迦様の教えを教わり、学ぼうとする者の一人として、自分の場合はこのように思っております。
家で饅頭などの菓子1個を5つに切り分けて食べようと慎重に切ってやっても、半分冗談ですがジャンケンをしなくてはならないのです。正確に量るほどのことでもないからです。
お経の中で、8分の1とか16分の1などの喩が出てきます。
これは、精密な計量器で厳密にその大きさを量ることが大事なことだとは思いません。
私にでも幾つかに分けた1つにもならないほどの僅かなものだという実感できる数の喩であって、いや正確には15分の1なのでは、いや48分の1なのではないかと言って、譬えた数字が正確かどうかと調べることよりも、教えられようとしている大事なポイントは別だと思います。
国や時代の言い癖というか「17倍」もそのようにお釈迦様がお話になって、経典にあるかも知れませんが、その数値が正確かどうか、私にとっては2倍でも1000倍でも大した違いはないように思えます。
問題は光の速さと聞いて、秒速30万キロだとか、機械を使って月との距離を測ったとか聞いて、私たちは何か頭の中で光の速さがわかったような錯覚をしていますが、この身体で光の速度の何ほどのことが実際に感じられるかと思うとき、とにかくこの世で一番速いものだと口でいう程度にしか私には感じられるものではないので、とても基準に出来ません。
それなのに心の変化する速さは光よりも速いのだというのは、お釈迦様はおそらく知ったうえで実際の速さを譬えられたのだと私は思っておりますが、もしその数値の根拠を話されたところで自分には光も心も比べられる状態ではなく、妄想の種になるだけのように思います。
ヴィパッサナーを実践して心が落着いて観察ができ、今の瞬間の変化が見られるところで初めて通じる話だと思いますし、釈尊の教えを実践し変化消滅の速さを見ている方々は、疑いがないのだろうと思いますが、私の知ったことではありません。
心の何ものかともわからない今の自分に大事だと思うのは、「懺悔誓願の文」にある通りで「…、…瞬間瞬間変化消滅している現象を、ヴィパッサナーによって洞察し、真の幸福を得て解脱の道に導かれますようにとここに誓願致します。」と、実践する為の教えと受取ることだと思います。
興味の対象は人それぞれで、重要に思うポイントの捉え方も各自で決めるものですから、教えの内容でなく喩の数値が大事な場合があっても当然だと思います。
上手く表現が出来ませんが、お釈迦様の教を教わって実践しようとしている初歩の自称仏弟子の感想なので、心から怒り憎しみが消えて落着いていくように受取れたらそれでも良いのではないかという解釈になってしまいました。