2013年8月号
智慧を妨げる心の迷い(疑)
心に迷いが働いていると、智慧が現れません。智慧の開発には、しっかり迷いなく「私はこれを知っている。これを知らない」と区別判断する能力が不可欠なのです。その能力を欠いた状態、心がふらふら迷っている状態をvicikicchā・疑と呼ぶのです。
たとえば時々、「私は輪廻を認めません」と断言する人を見受けます。明快な意見に聴こえますが、それもまた「疑」なのです。証拠もなしに「輪廻を認めない」という自分の気持ちだけ喋っても、それはただの意見で、真理とは無関係でしょう。そうではなく、「いろんな宗教が輪廻を説いていますが、私の知る手段では輪廻は分からない」と言うならば、正しい答えなのです。私が知っているのは、目で見て、耳で聞いて、五感の他に機械で計測したり、実験したりして知れる情報だけです。私たちの持つ「知る手段」では、輪廻は視野にも入らない。だから「私には輪廻は分からない」と言うならば、はっきりした態度です。その人に迷い(疑)はないのです。またブッダの説かれた初期経典を読めば、随所でごく当たり前に、はっきり輪廻を語っています。ブッダには人を騙しても何の得もないのです。「それならば、ブッダの説かれるとおり輪廻はあるのではないか」と納得して、迷いをなくすことも可能です。べつに輪廻の証拠があろうがなかろうが、智慧の開発の邪魔にはなりません。
迷いがないというのは、すべて知っている状態ではないのです。「これは知っている。これはちょっと分からない」と区別判断する能力が身につけば充分です。料理を例にすれば、「煮物だったらまかせて!でも、天麩羅は揚げられない」というくらいのこと。自分に何ができて、何ができないかを自覚しているなら、迷いがないでしょう。迷いがなければ、心はうまく成長するのです。