智慧の扉

2013年11月号

慈悲を携帯する方法

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 心はクセモノです。自分の癖はなかなか変えられません。喋るときも、ご飯を食べるときも、寝るときも、自分だけの癖を持っているのです。それは肉体ではなくて、心に起因するものです。
 
 学校ではみんな品格のよい日本語の標準語で教わるのに、下校すると誰も使いません。NHKのアナウンサーも、仕事が終わったら普通の日本語で喋ります。そこに各個人の言葉の癖があります。作家にもそれぞれ作家なりの言葉の演奏法がある。学術論文でも学者によって言語の使い方が違う。この癖は脳ではなく、心が持っているものです。レストランのブッフェのように、心の癖にしたがって、自分の好みで皿(脳の言語野)から言葉を選んで取って喋るのです。このように、生命の身口意の行いには、いつも自分の癖が割り込みます。厄介なことに、その癖が善いものか悪いものか、なかなか判断できない。自分の癖にひかれて、不幸に陥るケースもよくあります。
 
 そこで仏教では、慈悲を「癖」にすることを推奨するのです。レストランで食事するときも、欲ではなく、慈悲で判断するのです。自分に向けて慈悲がはたらいて、「余計に食べてはいけない」という結論になります。そうやって思考に慈悲が割り込むたび、「慈悲が自分をよく守ってくれた。いつでも気分よく、自分が失敗せずに済んでよかった」と喜びを感じるのです。自然な慈悲のサポートで、性格も善くなるのです。
 
 慈悲を携帯する方法は、「慈悲が癖になるまで実践すること」です。毎日、朝晩かならず『慈悲の冥想』をやってみましょう。そうすると、布団に入ると自然に慈悲の言葉が回転するようになる。朝起きたら最初の考えは慈悲になる。通勤通学の電車の中でも、余計なことを考える暇があったら慈しみを実践する。そうやって、つねに慈悲の言葉が心に浮かぶならば、あなたは慈悲を携帯しているのです。