智慧の扉

2017年8月号

仏道の真髄

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;
Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.
(ナ パレーサン ヴィローマーニ ナ パレーサン カターカタン;
 アッタノーワ アヴェッケッヤ カター二 アカターニ チャ)

「他人がやったこと、やらなかったことを気にする必要はありません。
 自分自身が何をやったのか、やらなかったのかを、よくよく観察してください」

 よく知られているダンマパダの偈(五〇)です。この偈で、お釈迦さまは仏道そのものを語っています。決して一般論を語ったわけではないのです。仏道とは、「私は悩み苦しみをどうずれば乗り越えられるのか? 私が完全たる人格者になるためにはどうすればいいのか?」という問いへの答えです。
 
 この偈で説かれているのは、生命の心のリアルなありさまです。私たちは、自分の心を顧みないのです。自己観察を拒んだまま、自分を基準にして物事を判断する。要するに「私」を尺度にしているのです。「自分は百点満点」「私は完璧」という前提で他人を評価しています。他人の欠点を非難します。年寄であろうが子供であろうが、どんな生命も同じ生き方です。いつでも、自分が模範の存在だという態度でいるのです。

 ひとが本物の仏教徒になりたいと願うならば、信仰は微塵も必要ありません。必要なのは、「他人の性格の善し悪しはその人の生き方であって、私には関係ない」と決めることです。そう決めた時点で、心は平和になります。他人とぶつかる精神が消えてしまうのです。人づき合いでストレスが溜まることがなくなるのです。他人の性格の善し悪しは私には関係ない、と理解しはじめた瞬間から、目の前に心の穏やかさが現れてくるのです。
 
 他人の性格や生き方と、自分の人格向上は関係ありません。「あなたのせいで私に智慧が現れない」ということはナンセンスです。家族がうるさくて冥想できないというのも、自分の怠慢を相手のせいにしているだけです。

 そうではなく、自分がやっていることをみるのです。自分の行為を観察して、やってはいけないのにやっていること、やらなくてはいけないのにやっていないこと、などを素直に確認する。そうすることで、「自分は完璧だ」「自分こそ模範的存在だ」という恐ろしい妄想概念が抑えられます。この自己観察する生き方を続ければ、心の悪い性質はみるみる消え、良い性質が増していくのです。

 やがて自分自身が、本物の模範的な人格・性格になってしまいます。それが涅槃・覚りということです。これならば、年齢にも学歴にも関係なく誰にでも実践できるでしょう。お釈迦さまはこのたった一偈で、仏道の真髄を教えてみせたのです。