2018年2月号
善悪を乗り越える善の完成
今回は「善悪」の問題について考えましょう。仏教では、いわゆる悪を「罪pāpa」と「不善akusala」の二つに分けます。「罪」は激しく、「不善」は徐々に命を破壊する悪行為です。例えば殺人罪を犯してしまったら、それで自分の人生は終わりでしょう。もし上手く逃げおせたとしても意味がありません。毎日、犯した罪pāpaの重さで自分が破壊されてゆくのです。
一方、不善akusalaとは感情や煩悩によって判断を間違ったり、失敗をしたり、要するに「下手」な行為です。当然、不善ならば何をやっても結果が良くないのです。不善は遅効性の毒です。じわじわと人格が堕落していき、徐々に命が破壊されます。たとえば、失敗するとどうしても落ち込んでしまうでしょう。失敗したからといって死ぬことはありません。しかし、落ち込みによって能力が低下するのです。この二種類の悪には、いずれも「完成」が成り立ちません。罪や不善はどこまで行っても未完成に終わります。完成する前に人は死んで不幸に陥るのです。だからこそ、悪行為を続ける限り、輪廻を解脱することはできないのです。
いわゆる善も、仏教では二つに分けます。「功徳puñña」と「善(善巧【ぜんぎょう】)kusala」です。人を助けてあげること、ボランティアで社会に貢献すること、お布施をすること、仏教を学ぶこと、戒律を守ること、冥想実践をすることなどは、功徳puññaになります。善(善巧)kusalaとは、右に示した同じ「よいこと」を行為の意義をよく理解したうえで、理性的な判断能力を使って行うことです。訳語に巧【たくみ】という漢字が入っているのは、そのニュアンスを伝えるためです。
この二つとも「よいこと」に変わりありませんが、大きな違いは「完成が成り立つか否か」です。功徳puññaの善はいくらやっても「完成」しません。例えば困っている人を助けるとします。自分一人で何人助けることができるでしょうか? もし仮に全生命を瞬間的に助けられたとしても、生命は次から次へと生まれるのですから、仕事を完成させる前に必ず自分が死にます。結局、無限に輪廻を繰り返したとしても功徳は完成できないのです。
善(善巧)kusalaの場合は、完成が成り立ちます。善の完成とは、智慧が顕れて解脱に達することです。人格の向上、理性の開発、正しい判断能力を身に付ける、正しい観察能力を身に付ける、よく理解したうえで正しい行為をする。そのような理性的な善行為kusalaによって、智慧が顕れるのです。ただ「善いと言われているからやる」気持ちで功徳を積んでも、智慧は顕れません。世の中には、誰にも敵わないくらい善行為に励むが、それが功徳puññaの善に留まって、智慧が顕れないままの人もいるのです。
完成する善kusalaとは、物事を理解して判断能力を正していくことです。何か理解するということは、智慧のきざしなのです。智慧が顕れることで善が完成したならば、私たちは善悪そのものを乗り越える解脱の境地に達するのです。