智慧の扉

2019年11月号

心は常に依存症

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 瞑想する人には、手強い敵が立ち塞がります。それはkāmacchanda【カーマッチャンダ】(愛欲) 、欲を好むという障碍です。具体的には、この欲界で眼耳鼻舌身に触れる色声香味触という五つの物質を得ようとする衝動です。五つの物質といっても、地水火風という四つのエネルギーの組み合わせです。その中で、眼で認識できるものを色(しき)と呼ぶだけの話です。

 瞑想する人は一時的にでも愛欲を離れ、ひとり静かに修行するのですが、結局は形だけに成りがちです。時々、森の中に隠れて修行して、それで愛欲を抑えられたと勘違いしてしまう人もいます。しかし、彼らはその環境を離れた途端に元の木阿弥になってしまうのです。

 普通の人々は、眼で見るものが欲しくて、心がいつでも見ることに頑張るのです。「見たい」という衝動です。心が必死になってやっている仕事は、物質に触れたいということです。瞑想をしている人であっても、心は物質に触れることを期待しているのです。ほとんどの人が瞑想の目的として、何か良い経験を得たい、気持ち良くなりたい、安らぎを感じたいと思っています。これは「物質に触れたい」と同じ意味だということに、気づいていないのです。
 
 心には、常に物質に触れていなければいけない、という怯えがあるのです。魚が陸に打ちあげられたような感じで、絶えず恐怖に怯えてビチビチと跳ねています。輪廻の中で、物質に触れたいという心が、この肉体を作ったのです。ですから、心は常に肉体で物質を感じたがっています。肉体の感覚が鈍くなったり、感覚がなくなったりすると凄まじい恐怖が起こるのです。少し足がしびれただけで、気になって仕方ない。大変なことが起きたように思うのです。
 
 心はどうしても物質に依存したがります。そして、心自体も地水火風を作っています。心が作った物質と外にある物質が接触して世間と繋がろうとするのです。といっても、チャンネルは眼耳鼻舌身という五つしかありません。この五つの窓口から外の世界と必死に繋がろうとしているのです。世間との関係といっても、突き詰めればその程度のことです。
 
 物質に縛られた心を解き放ち、どこまでも拡大・成長させたければ、認識の次元を破りたい、真理を発見したいと願うならば、為すべきことがあります。物質との関係を持とうと必死に求める渇愛、常に物質に依存しようとする衝動を、気づきと集中力によって一時的にでもストップするのです。精進して、物質への依存を一旦停止・ログアウトしないといけません。心を成長させる絶好のチャンスが、その時点から現れるのです。