智慧の扉

2021年1月号

死を想うことは精進の原動力

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 みな人生の計画を立てますが、誰の計画にもひとつだけ「死」という確実な予定は含まれていません。生きていることが暗黙の前提で人生の計画を立てているのです。しかし、実際にはどこを見ても死が見えます。物事が壊れていく(変化する)ことは、毎日・秒ごとに見えています。それなのに、人間は死について、あり得ないことだと思っています。私たちが築いてきた社会・知識・政治などすべては、死という現実が存在してはいけないものであるかのように振る舞っているのです。日常的に死と隣り合わせの医学でさえ、死を避けるための知識体系になっているのです。医学は人を生かすための学問であって、死は最大の仮想敵になっています。

 仏教では、このアベコベな人類の生き方を転換するために、「死は確実な現実である」とくりかえし確認することを推奨するのです。そのためにお釈迦様が提案しているのは、死をシミュレーションすることです。具体的には、「死ぬとき私の心はどうなっているだろうか?」と考えるのです。そうすると、まだ貪瞋痴が残っていることを発見できます。貪瞋痴の心で死んでしまうと最悪です。そこで「いつ死ぬかわからないのだから、とにかく心の汚れを落とさなくてはいけない」と修行に励む原動力とするのです。

 たとえば服に火が着いた人や、髪の毛が燃えている人は、どれほどの勢いで火を消そうとするでしょうか? 火を消すこと以外は何も考えられませんね。現代では髪の毛が燃えるという経験は想像がつかないかもしれません。昔は長くのばした髪の毛にかまどの火が燃え移るような事故は頻繁にありました。そんな時は何よりも先に頭髪の火を消すことが最優先で、他のことは後回しにするのが当たり前です。現代人だって、「ちょっと服に火がついたけど、メールに返信をしないと失礼だから少し待って」と、そんな悠長なことはしません。

 覚るためには、それぐらいの必死の勢い・精進の原動力が必要なのです。不善をなくすため、心を清らかにするために、そのように頑張ってほしいとお釈迦様がおっしゃっています。ですから、「死」という確実な現実を認めることが、超越した心に成長するため欠かせない原動力となると憶えておいてください。死を想うことは、心に安穏をもたらし、人生を成功に導く秘訣なのです。