智慧の扉

2021年2月号

慈しみは無限の行為

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 私たちの心には常にリミット・制限があります。いつも自分のいる場所(立場・状況)に縛られ、物事を固定的に考えてしまうのです。心を自由にして、フルパワーを発揮させるためには、このリミット・制限を外さなければいけません。それを可能にする方法が慈しみです。お釈迦様が推奨された「慈悲喜捨」を実践するならば、心は束縛を捨て去り自由になることができるのです。

 慈悲喜捨についてより深く理解するために、行為の有限・無限の違いを観察してみましょう。例えば、ある人がかつて殺生をしていたとします。他にも戒律を破り、悪行為をして生きていました。それからブッダの教えを聞いて、悪行為(十悪)を止め、善行為(十善)を行なう人になったとします。その人の心は自由になりました。そこで無限の行為を実践する条件が整います。慈悲喜捨という乗り物(道具・方法)によって、心を無限に向かって開くことが可能になるのです。

 悪行為と慈悲喜捨の行為を比較すれば、違いは明らかです。例えば、殺生とは誰かの命を奪う行為です。明確な悪行為です。しかし、この行為の範囲は有限なのです。ひとりの人に地球上のすべての生命を殺すことは不可能です。人間だけに限っても、殺し尽くすことは不可能でしょう。そのように、悪行為は有限なのです。誰かが殺生を犯しても、ほんのわずかな生命が対象になるだけです。しかし、もし同じ人が「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じたならば、どれぐらいの数の生命が対象になるでしょうか? 無量無辺の数限りない生命が、慈しみの行為の対象になってしまうのです。

 お釈迦様は、生命が日々繰り返している有限の行為を超越するために、慈悲喜捨を育てる「無限の行為」を推奨されました。人々は有限の行為(悪行為)に足を引っ張られて、苦しみに陥ることを繰り返しています。誰だって無始なる過去から悪行為をしてきたのです。でも、有限の行為に引っかかってはいけません。慈悲喜捨の心を育てる「無限の行為」によって心を解放して、真の自由を獲得するべきなのです。これはただの観念ではありません。誰もが自分自身の心で「無限」ということを経験できます。慈悲喜捨を足がかりにして、人は善も悪も乗り越えた解脱・涅槃の境地に達することができるのです。