智慧の扉

2021年3月号

邪見 ――心に棲みつく悪の王様

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 ブッダが教えた十悪のなかで、最も危険な悪は「邪見」とされています。そう言われても、ピンと来ない人が多いと思います。しかし、確かに悪の王様は邪見なのです。「邪見」という言葉がわかりにくければ、「生命を不幸に導く思考パターン」と理解してください。

 たとえば、何かトラブルが起き人をぶん殴ったからといって地獄に堕ちることはありません。ごめんなさい、すみませんと謝れば、その程度の罪はチャラになってしまうぐらいです。しかし、そこにもし邪見が絡むと、些細な行為であろうとも想定外に恐ろしく悪い結果になってしまうのです。

 現代の事例を出すならば、「黒人は劣った人種(白人がもっとも優れている)」という差別思想を持っているなら、それは邪見です。何か事件が起きると、「黒人だからお前が犯人に決まっている」と邪見で人を裁く。黒人が道路を走っていたら、何の理由もなく止められ罪をなすりつけられたりもする。白人であればそんなことは絶対に起こりません。「コイツは黒人だから何か悪いことをしているに違いない」と、皮膚の色を見て悪人であると断定する。そのような思考パターンが邪見なのです。

 世の中では、みな邪見を喜んで大事にしています。これにはとことん気をつけないといけません。例えば「唯物論」という考えがあります。物理学など科学の世界では徹底的に世の中を調べ上げ、「物質しかない」という考えを持つ。前提として研究対象が物質しかないので、当たり前の結論ですが、そこから「心は存在しない」というあまりにも極端な思想に凝り固まってしまうのです。そのようにして、世の中にあらゆる邪見が存在します。この邪見によって、生命は「想像を絶する」という言葉でも言い表せない苦しみを味わうはめになるのです。

 なぜ邪見がそれほど危険なのかというと、私たちは行く・止まる・回る・喋る・食べるなどのすべての行為を判断して行なっているからです。その判断するための基準となる思考パターンが心を動かしています。ある決まった思考パターンによって、認識した現象を比較してYES/NOを決めているのです。その思考パターンを「見解」と言います。その見解が邪見に染まってしまったら、やることなすことすべて間違った、不幸をもたらす行為になってしまうのです。

 邪見には多くのバリエーションがありますが、もっとも危険な邪見は「善悪の行為の結果は無い」という決定論とされています。ですから、お釈迦様は生命が邪見を離れて正見に達する糸口として、「善行為には善い結果がある。悪行為には悪い結果がある」というシンプルな因果法則を認めることを推奨するのです。