パティパダー巻頭法話

No.117(2004年11月)

つきあう前に人を選ぶ

人間関係は知人と友人を選ぶことで始まる Your friend controls your happiness.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

健全な人間関係を築こうと思って人間が為している行動によって、その人の自由が失われてしまい、自発的な終身刑になってしまうのだと先月号で説明いたしました。社会という組織を重んじてまともな社会人として生活をしても、社会という組織自体は、個人に対してあまりにも冷たいものです。個人は「義務を果たしなさい」と社会から要求されるのに、役に立たなくなる時点でものの見事に捨てられてしまうということも紹介しました。個人は、自分のことを真剣に心配してくれる人から正しい生き方を学ぶ。社会に対する義務をできる限り果たすが、社会に対してはそれほど期待しない生き方をする。それで個人は自分の自由を保ち、明るく生きていられるのです。ここまでは、先月号の要約です。

人間は他人から何でもかんでも教えてもらう。教えてもらわないと何もできない。「教えてもらいなさい」というのは、人間の宿命です。しかし、何でもいいから教えてもらうことも、人を教えてもらうことも、危険な行為です。誰から何を教えてもらうのかを選択しなくてはいけないのです。それはなぜでしょう。有効的な知識と、破壊的な知識という二つがあるからです。教える側の人間も、後輩のことを心配して幸福を願う人もいれば、相手がどうなっても構うもんかと思う人もいるのです。この選択を間違えれば、人生は不幸になる。失敗する。従って、仏教は信仰より信頼、崇拝より尊敬を重視します。わかりやすくいえば、正しい人間関係です。

善友(kalyāna mitta)に巡り会えば、人生を成功するだけではなく、輪廻を脱出して解脱を得ることもできるのです。善友と自分は同格の人間だと思わない方が良いのです。自分のことを見返りを期待せず心配する。善悪を教えてくれる。悪を止めさせて善を行わせる。人格向上に導く。既に知っている善いことを完成させる。知らないことを教えてくれる。それが善友というものです。同格者ではなく、尊敬に値する人格者なのです。

なぜそのような人格者に対して友(mitta)という語を使うのでしょうか。それは、生命は命あるものとして平等だからです。横の関係を強調するためです。仲間の間で必要に応じて縦の関係があっても、縦の関係は絶対的ではないからです。人間にとっての理想的な善友は、釈尊自身だと説かれたのです。誰とつきあっているのかということによって、自分の人生は幸福になるか不幸になるか決められるのです。ですから幸福を願う人は、何よりも先に善友を探し求めた方が良いのではないかと思います。

全ての人間とつきあう必要はありません。全社会と関係を築く必要はありません。それは無理に決まっている。我々は個人的に小さな社会を築いて生活しているのです。世界が狭いというのはネガティブ語ですが、広い世界を築くのは簡単ではありませんし、その必要もないのです。良くないのは、極端に狭い世界なのです。無闇に沢山の人とつきあって広い世界を築こうとすると、結果として自分がダメになってしまうのです。性格・生き方・好みなどが種々雑多な人間と仲良くして自分の世界を広げるためには、よほど苦労をしなくてはいけないのです。その能力のない人は、無理をする必要はないのです。自分に気楽につきあえるぐらいの人々とつきあって、自分の社会を築けば充分です。個人の世界は、その人の対人に対応できる能力に適するべきものです。例えば十人と仲良くすることができる人は、二十人の友人を作るとかなり苦労する。逆に、知り合いは三人しかない場合は寂しさを感じる。十人ほどの知り合いがいれば楽しく生活できる。「人には何人ほどの知り合いがいれば良いのか」と聞かれると、決まって「できるだけ沢山」と言うでしょう。しかし、正しい答えは「その人に対応できる人数」ということなのです。

皆とつきあわなくても良いということは、あまり知られていない事実です。ですから、人間関係でよく苦労します。トラブルは絶えない。環境を改善しようとすればするほど、悪化してしまうのです。自分とつきあいたくない人とも無理につきあおうとする。つきあいたい人を無視する。沢山の人とつきあおうとして予測できないトラブルを起こす。特に自分の性格と合わない人とつきあうことは難しい。無駄話をする人とつきあう場合は、自分も無駄話をしなくてはならない。もし自分が有意義な話を好きな人であるならば、この状態はきついものです。自分の頭も悪くなる。遊び好きな人と仲良くするために、自分も遊び人にならなくてはならない。平和好きで法律を守る人には、暴力団とのつきあいは難しい。悪い人とつきあうと、自分は否応なしに悪い人間にならなくてはならない。ですから、つきあう人は多ければ多いほど良い訳ではありません。性格の悪い人とつきあうことで、予測さえもできないトラブルを招くことになる。相手は決まって我が儘・自己主張が激しいから、仲良くすること自体も災難なのです。釈尊の言葉で言えば、不倶戴天の敵と同居しているようなものです。

誰とでもつきあえば良いということで、自己破壊の道を歩むのは愚かな行為です。人は誰でも、幸福で、幸せで生きていられるべきです。それには異論がないと思います。「人は苦労した方が良い」と言う場合も、それは苦労を好んで言っている訳ではなく、苦労することによって人生の経験を得て幸せになるという思いからです。ですから無数の人々と人間関係を築くのではなく、自分に対応できる数にリミットするのです。しかしそれだけでは不完全です。未知なことを教えてくれる、自分が歩む道を正してくれる、善悪を教えてくれる、自分の人格向上を支えてくれる善友と、必ずつきあわなくてはいけないのです。善友なら一人でも充分です。普通の人間なら何十万人とつきあっても、一人の善友ほどの価値がないのです。人と全くつきあうことができない人にでも、一人の善友がいれば、その人の世界は格段に広いのです。決して狭いとは言えないのです。智慧のある人とつきあうことは、大事な親戚と一緒にいるときのように幸せを一杯感じるのです。

そういう訳で、我々は人を選んでつきあうのです。誰とでもつきあう主義はやめるのです。友人を選ぶ基準もあります。それは相手の影響で自分の人格が向上するか堕落するかという基準です。従って、善友とつきあわなくてはいけないということは、鉄則になるのです。仏陀の教えがある限り、我々には釈尊という、この上のない善友がおられるのです。仲間を増やしたい人は同じ目的の仲間を探せば良いのです。人格を向上させたい、悪をなくしたい、善を行いたいという目的を持つ仲間がいれば、相手を指導する能力が無くても、互いに協力し合って向上するのです。

今回のポイント

  • 得るべき知識もつきあう人も、選ぶべきです。
  • 顔が広くても、心が広いとは限りません。
  • つきあうべき人数は、自分に対応できる人数です。
  • 賢者とのつきあいは、人間にとっては鉄則なのです。

経典の言葉

  • Bāla sangatacāri hi – dīghaṃ addhāna socati,
    Dukkho bālehi samvāso – amitten’ eva sabbadā,
    Dhīro ca sukha samvāso – ñātinam’ va samāgamo.
    Tasmāhi dhīrañ ca paññāñ ca bahussutañ ca,
    Dhorayha sīlaṃ vatavantaṃ āriyam;
    Taṃ tādisaṃ sappurisaṃ sumedhaṃ,
    Bhajetha nakkhatta patham’ va candimā.
  • 愚かな人と道行けば  長途にわたる愁いあり
    共棲の苦は敵に似る 賢者と暮らす幸せは
    親族と共に逢う如し
    (さればこそ)英賢にして智慧・多聞
    忍耐・持戒の聖善者 親近せんはかかる人
    星宿示す月のごと
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 207,208)