No.314(2021年5月号)
終わりのない戦い
こころは競争プログラムで成り立っている Programed to fight
今月の巻頭偈
- Pare ca na vijānanti
Mayamettha yamāmase
Ye ca tattha vijānanti
Tato sammanti medhagā
- 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」
と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、
争いはしずまる。
- 和訳:中村元『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫より
釈尊祝祭日ウェーサーカ祭
五月の満月(二十六日)には、お釈迦さまの降誕・成道・般涅槃を偲ぶ法要を行うのです。神々・人類の中で現れた、偉大なる師匠であるブッダの九徳を念じて、我々のこころの安らぎを目指す機会です。釈尊は究極の安穏への道を説き明かしました。生命のこころは無明という原因により病んでいるので、輪廻転生しながら苦しみの悪循環に陥っているのだと説かれたのです。五月二十六日は仏暦二五六五年の元旦です。皆様に仏法僧の祝福をいたします。今月の法話として、こころの安らぎを壊す原因の一つについて考えてみましょう。
争いは好き
表面的に言っていることとは裏腹に、人は争いが好きなのです。他人をライバルとして見ています。一人の力ではライバルを倒せないので、仲間・味方・友人をつくるのです。仲間だ、友人だ、と言っている人々の立場も、安定しません。友人が敵に変わったり、または友人を敵視したりする場合もあります。敵視すべき他人はたくさんいますが、味方の数はわずかなのです。友人の数を増やす方法、友人と仲良くする方法などはよく分からないので、それについて他人からアドバイスを受けたりもするのです。
「私たちは争いが好き」ということは明確です。なぜならば、誰一人も「敵の作り方、敵の数の増やし方を教えて下さい」とは言わないからです。それは本能として知っていることで、自分自身がプロなのです。他人のアドバイスなど要りません。しかし、友人の作り方になると話は別です。「敵ではなく、友人・仲間・自分のことを心配してくれる人々がいるならば、自分は幸せになるのだ」と分かってはいても、人には自分の本能と戦うことができないのです。結局、敵ばかりを増やしてしまう人生を送るのです。
自分を守ること
人だけではなくすべての生命は、自分を守りたいと願っています。「自分とは何か?」とよく分かってはいないけれど、その自分を必死で守とうとします。自分という形容詞を付けられるものなら、なんでもかんでも守りに行くのです。自分の命、自分の家族、自分の財産、自分の仲間、自分の国などなど、自分という形容詞を付けられるなら、なんでもです。「守る」という単語は美しく見えますが、その裏にある感情は恐ろしいものです。「守る」という場合は、敵・ライバル・悪い環境から守るのです。つまりは、他との戦い・争いに行くということです。そういうわけで、「守る」という言葉が示すものは、「人は争いが好き」という事実なのです。
守る手段
自分を守る手段、または戦術は、客観的なデータを判断して理性的に構築するものでないのです。人は「争いで勝ちたい」ということしか考えません。勝っても負けても、その結果のポジティブな半面とネガティブな半面を比較して見ないのです。勝利を目指してむやみに戦うことが、人類の文明の歴史です。科学世界でも、無数の発明品があります。科学の発達によって、どこまでポジティブな結果を出したのか、どこまでネガティブな結果を出したのかと計算しないのです。人類は原子爆弾、原発などを開発して、勝ったつもりになっています。原子力について考えたり研究したりするときは、そのエネルギーをどうすれば自分に都合よく使えるかと考えるだけなのです。いざ原発が事故を起こしても、その恐ろしさに怯えるばかりで、ネガティブな結果を無くす手段は持ち合わせていないのです。
原発はただの分かりやすい例に過ぎません。人生そのものが戦いなのです。「勝ちたい」という思考がまずあって、勝って良かったか悪かったか、後になって考えることにします。実際には、あとで考えることすらしないのです。結果が悪かったら、ひどく落ち込むだけです。それからまた、新たな戦いに挑むのです。夫婦喧嘩の場合も、双方が勝ちたいと思っています。しかし、戦いで勝つのは一方の側だけです。勝ち負けが決められないとき、離婚することに決めます。夫婦喧嘩で双方が勝利するために離婚を成立させても、それからの人生が良くなるのか悪くなるのかは分かりません。人の人生はすべて、戦いによって成り立っているのです。生きるということは、勝ったり負けたりすることの連続です。お釈迦さまは、〈争いでは、勝っても負け、負けても負け〉というニュアンスのことを仰っています。
戦いで勝つために、人は悪行為をします。嘘を言ったり、事実をごまかしたり、殺生したり、嫉妬・怨み・憎しみを抱いたり、他人を不幸に陥れたりするのです。悪行為する人は必ず負けるのですが、後の結果を気にしないのも人間です。
正しい道
ここまでの説明を理解するならば、正しい道は簡単ではないと分かるでしょう。なぜならば、戦うことは人の本能なのです。その本能を変えなくてはいけないのです。それはとても難しいことです。本能は個の性格なので、平和な社会を築くことは社会全体の義務というより、社会を構成する個人の義務にかかってきます。他人に平和を訴える前に、自分の本能を完全に改革しなくてはいけないのです。仏教が個人の安穏、個人の平和、個人の解脱、個人の自由を勧めているのは、そういうわけです。このポイントを理解できない方々は、大衆の平和、大衆の幸福、大衆の解脱、大衆の自由を語るのですが、美しいフレーズに過ぎません。具体的な実行力はないのです。
ブッダが説かれる道は、治療方法だとも言われます。生命はこころが病んでいるのです。こころの病は複雑です。今月とりあげるダンマパダの偈では、「争いが好き」という症状について考えているのです。いま我々は、COVID-19の攻撃で困っています。日本国が新型コロナウィルスで悩んでいるからといって、日本という国にワクチンを打って抗体をつくることが答えになるでしょうか? 結局は、個人個人にワクチンを打たなくてはいけないのです。こころの病にも、個人治療の他には治療法が存在しないのです。
ブッダの治療プログラム
ブッダの治療プログラムは、道徳を守ることから始まるのです。道徳を守る人は、他人と戦うこころの意欲が弱くなります。それから慈悲喜捨を実践します。他の生命がライバルである、という気持ちがなくなります。命の尊厳を守る人間になります。こころが統一して、安らぎを感じます。争い本能が機能停止します。次に八正道を実践するのです。結果として、こころの病はすべてなくなります。治療プログラムなので、個人で実行しなくてはいけないのです。しかし、治療を受ける仲間がたくさんいるならば、自分にも最後まで頑張れる勇気が現れます。仏道は個人治療ですが、ことさらに孤立して実行する必要はないのです。
私は死ぬ
「私は死ぬ」というフレーズは、人類にとって福音なのです。面白いのは、誰一人として「私は死ぬ」という前提で行動しないことです。医者から「余命はあとわずか」と宣告されると、驚い恐怖に駆られます。気が動転してしまうのです。死は現実なのに、こころが拒否しようとするのです。これはつまり、こころが「私は死なない」という前提で活動していたのだ、ということです。
個人がこころの平和を目指すならば、社会が社会の平和を目指すならば、世界が世界の平和を目指すならば、簡単な方法はたった一つです。皆、「私は死ぬ」という事実に基づいて、人生設計を改良することです。これも、先ほどのブッダの治療プログラムを他の言葉で言い換えたものになります。
不死という醜悪な言葉
無知な人は不死を目指しています。人生の中では、「人は死ぬ」ということをしばしば見聞きしてきたはずです。しかし、死は嫌なので、わけもわからない不死の境地を求めるのです。不死は非現実なので、「不死の境地は天国にある」と決めつけます。もし、「あなたは不死の境地を確保した」という洗脳を受けたならば、自分の道を邪魔する人々に害を与えることすら躊躇しなくなるのです。
戦いに挑む人々は、自分も死ぬ可能性があると思わないのです。自分が死ぬ可能性も極めて高いと知ったならば、戦いに挑む勇気がなくなります。戦争を惹き起こす場合は、皆、敵軍を粉砕することだけ考えるのです。人々を戦闘に駆り立てるためには、「我が軍勢は強力であり、敵は惰弱である。我々は不滅であり、必ず勝利する。敵には破滅だけが待っている」といった洗脳が欠かせません。ゆえにすべての戦いは、現実離れの嘘、虚飾の表現に基づいているのです。それでも、戦闘すれば自軍の兵士も死にますから、事前の洗脳が破れる恐れがあります。そこで、「国のために死んだら必ず天国に迎えられる」と洗脳手段を変えるのです。自爆テロ行為をする現代の人々も、「自爆した後には不死の境地が約束されている」との洗脳を受けています。俗世間においては、最悪の言葉は「不死」であると言っても構わないと思います。不死という言葉こそが、想像を絶する不幸へと人類を陥れたのです。「我らは死ぬ」という事実を認める社会があれば、その社会は平和なのです。
今回のポイント
- 争いは生命の本能です
- 人は敵をつくる能力を持って生まれます
- 生きることは争いそのものになります
- 勝利を目指すが幸福になる保障はない
- 「私たちは死ぬ」は平和をもたらすフレーズです