パティパダー巻頭法話

No.2(1995年4月)

罰の罰

人に係わっていくための約束ごと 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

罰という概念は人間だれでも好むものではありません。

「私は罰せられることが好きですから、いつでもどうぞご遠慮なく罰をあたえてください」というひとはどこを探してもいないはずです。みんながこんなに毛嫌いするのですから、いっそのこと、人間社会から“罰を与える”と言う規範をなくしたほうがいいのではないかと思うのです。

この世からもし罰がなくなったとしたら、社会の秩序が乱れたりしてきて大変ではないかと心配する人も多いかと思います。人がまちがいを起こしたり、罪を犯したり、他人に迷惑をかけたり、決まりを守らなかったりしたらどうなるのでしょう?

その点を、釈迦尊の教えに基づいて考え直してみることにいたしましょう。

罰にもいろいろあります。

体罰、罰金、減俸、謹慎、懲戒、免職、いじめ、嫌がらせ、批判、非難、否定、無視、暴力、喧嘩、脅迫、無視すること、褒め殺し……。これらの罰は、いずれを取っても受ける側の人には嫌なものにちがいありません。また一方で、罰を与える側を二つに分けることができます。一つは、国家や社会、会社などの法的な組織と、二つ目は、家族とか学校の仲間たちや友人同士でつくっているようないわゆるグループや個人としてのものです。

宗教は個人の信仰の問題、あるいは心の問題を扱っている以上、罰の概念についてもグループ、個人の問題として考えていくことが必要です。実践の柱として、心を清らかにする方法を述べられている釈迦尊の教えでも個人を中心としていることは確かです。社会は個人の集合体ですので、個人の問題を解決することは、必然的に社会の問題解決への道となっていくのです。

個人が個人を罰する場合、一人が過ちを犯し、一人がそれを判断する立場にいます。たいていは判断する立場の人が目上の人で、過ちを犯す側の人が目下の人という関係になっています。(この関係が逆の場合、つまり目下の人が目上の人を罰するという関係は、暴力と言って差し支えないと思います)

人が人を判断するということは、人間関係を構成する以上やむを得ないことかもしれませんが、その判断の結果は、必ずしも正しいとは言いきれません。人間の行動や言葉の判断は、判断する側の人間の主観にならざるを得ないからです。一例を挙げれば、子供がうるさく騒いでいるとき、母親が、「うるさい、静かにしなさい」と叱りますが、父親のほうは、「いいよ、子供だから仕方ないんじゃないか」と、寛大になります。両親でさえ、このように判断の基準がまちまちなのですから、一般の人間関係では、客観的な判断はまず無理であると言っていいでしょう。

人間は、罰そのものを嫌っていますから、罰を受ける側は、罰を与える側の人間に対してもおなじ嫌悪の感情をつくります。その人間の言動の判断が合っていない場合は、その状態はさらに悪化することになります。罰を受けた人の反発する感情を、目上の特権で力づくで抑えたとしても、悪因が悪果をひき起こすことまでは抑えられません。その人間を正すためとか、親の愛情だなどという場合の罰し方はどうなのでしょう。この場合も、罰を与えることは相手に肉体的か精神的な暴力を振るうこととおなじですから、その人の心につよい怒りの感情を刷り込むことになります。結果として、かえって暴力を振るう人間になってしまうか、自信をなくしてしまう人間になっていくのです。

罰を与えるまえに、自分を罰を受ける側に置いてみてください。たとえ、まちがいを犯してもそのことに対して自ら罰を与えられること、批判されることを好みますか? いじめられることを望みますか? 反対にその過失を許してくれたとしたら、優しく説得され、言い訳までも聞いてくれたら、相手に対して敬意を抱きませんか? そうまでされると、今度は尊敬の念さえ生まれ、二度とおなじ過ちを犯さぬように励もうという気になっていくのです。そうなるとこれは両者ともにすばらしい関係になったということになります。

さて、罰を与えたい、批判したい、いじめたい、暴力を振るいたいといった人間は、人を支配したい、管理したい、自我を強調したいといった病的な心理現象のあらわれなのです。これはその人の心に住みついている不安感からも生まれてきます。また、こういった心の持ち主は、時として他人の苦しみを楽しむサディスト症へと変わっていく傾向をも見せることがあります。このタイプの人は、暴力を振るうとますます病的傾向が強くなり、社会に迷惑をかけるだけです。

社会の決まりや常識を守らない場合の法的な組織が客観的な証拠によって罰を決めるとき、これはあくまでも客観的な判断によることで、個人が個人を罰することと根本的に違うのです。個人が国家や法廷などの組織に怒ってみたところでなんの意味もありません。逆らうことは初めからできないのです。自分で自分の過ちに対して反省するしかありません。しかしこのような場合も、案外と客観的な立場を忘れ、判断する側の主観が先行するという正義が履行されないようなケースも起こるのです。それだけに、罰という問題は、難しいのです。結論として言えることは、個人が個人に罰を与えることは、大変危険なことですから、止めてほしいということです。

他人ひとが過ちを犯したとき自分をまず抑えて、こう考えてみましょう。

  • 主観的に見ても、客観的に見てもその人の行動は誤っているのですか?
  • 相手がその過ちを認めるでしょうか?
  • どんな工夫をすれば自分も相手も、嫌な、暗い気持にならずに過ちを是正できますか?/li>
  • 過ちを糺したあともふたりの関係がより観しくなっていますか?

経典の言葉

  • Sabbe tasanti dandassa sabbesaṃ jīvitaṃ piyaṃ
    Attānaṃ upamaṃ katvā na haneyya na ghātaye.
  • すべての人々は暴力におびえる。
    すべての者は自分のいのちを愛しむ。
    わが身に例えて、他人を虐めるなかれ、殺すなかれ
  • (Dhammapada 130)