パティパダー巻頭法話

No.24(1997年2月)

無知から生まれるわざわい

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

愚か者、無知な人という言葉はよく使いますが、この言葉のなかには非難する気持ちも否定する気持ちもまったくありません。「無知、愚か者」(bāla)という言葉は我々生命が本来持っている性格を表わす仏教の専門用語です。

修行というのは、この本来の性格を正す実践方法です。それは智慧の道だともいえます。無知に基づいた生き方はあらゆる苦悩を招きます。しかし普通、人間はそれを見ようとしないのです。愚か者という言葉さえ、自分自身に関係ない言葉だと思いたいのです。人生は幸福だ、何とか努力すればもっと幸福になれるはずだと自分に言い返し、潜在的な心の本当の状態をまったく見ようとしません。それは自分をごまかすことだといえます。事実から逃げることにもなります。いくらごまかして生きていても、生きているものの苦しみはなくなりません。というわけでさらに、無知という概念について今月も引き続き、考えてみましょう。
自分をアピールしたい、自己主張したい、自分のアイデンテティを認めて欲しいという気持ちは人によくあるようです。謙虚にひそかに生活しても、なかなか人に認めてもらえないという事実もあります。それで認めてもらうためにいろいろ工夫します。そこに問題が起ります。なぜそんなに認めてもらいたがるのかというと、自分自身の生き方に何か不満があるでしょう。心のなかに何か空洞があるのではないでしょうか。自分自身の生き方に充実感を感じている人は、認めてもらうかもらわないかということは気にしません。ですから、不満を感じる人こそ自己主張のために、自分をアピールするために努力します。それで実際に自分が持っているものより大きく、自分を見せなければなりません。社会の受け止め方も気にしなければならないのです。こうなったらその人の生き方は不自由なものになってしまいます。本当の自分を押えつけ、作り出したイメージに合わせて生活するようになります。それは自分で自分の牢獄を作ることです。この苦しみの生き方は、社会ではよく見られます。釈迦尊の時代で、出家しても空洞な心を持っている尼丘たちに対して、このように述べられました。

「愚かなものは、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らの間では上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう」(Dh.73)

「在家の人々も出家した修行者たちも、私の行ないだけをよく知って欲しい。何かことが起ったら、それについて私の指導に従って欲しい。—— 愚かなものはこのように思う。こうして欲求と高慢とが高まる」(Dh.74)

ですから自己主張したがるのは愚か者の性格であることを理解しておきましょう。本来持っていない力を出そうとしないで、あるいは見栄を完全にやめて、自分にできることだけ真剣に真面目にしておけば楽だと思います。人が認めても認めなくても自分の生き方に対して充実感を感じるはずです。

自分の愚かさに気付かないで、自分をよくしようと努力するものも大勢います。そういう人々はいろんなことにチャレンジしてみます。自分の名前にできるだけたくさんの肩書きをつけようとします。社会を見ると、有名な大学を出たり賞をたくさんとったり、いろんな資格を持ったりしているが、我がままで高慢で落ち着きがなくて何の役にもたたない人々が見られます。精神的な世界にもチャレンジしようといろんな修行方法をかじってみたり、超能力まがいのものを持っていると言い張るものもいます。それで自分が悟った、解脱を得た、神と一体になったと思いっきり宣伝して国の法律も破って犯罪まで起します。愚か者は、修行しても、心清らかにしようと妙な行をやってみても、本人にも社会にも何もいいことはありません。要は、愚かさに気がつかない限り、修行さえ無意味ということです。

釈迦尊はおっしゃいます。

「愚かなものはたとえ毎月(苦行僧の風習に習って一月に一度だけ)茅草の端につけて(ごく少量の)食物をとるようなことをしても、(その功徳は)真理をわきまえた人々の16分の1にも及ばない」(Dh.70)

人は知識を得ようとよく努力します。人間は、知識を生き延びる道具として持っている生き物ですから、それは当然のことです。高慢なく、余計な欲もなく、ただ幸福で生きるために知識を求めることは、それほど問題になりません。でも人々は、高慢、限りない欲、見栄、名誉、権力、社会で自分の立場を確立すること、そういう目的のために知識を得ようとするのも事実です。その人々は人間の本来の愚かさを無視しています。何でもできると勘違いしています。そのような目的でたとえ知識を得ても、それはその本人の人生そのものを破壊するだけでなく、他人にも大変な迷惑や損害を与えてしまいます。愚か者の知識さえも、人が愚か者である限りそれは危険です。

釈迦尊はおっしゃいます。

「愚か者に知識があっても、それは彼には不利なことになってしまう。その知識は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし彼の頭をうち砕く(人生が破滅する)」(Dh.72)

悪人の行動は自分にも他人にも不幸を招くことは明確です。一方愚か者といえば、悪人だけではなくすべての人々のことを意味します。普通の人々は法律を犯すことなく道徳、常識を破ることなく生きていこうと努力しています。
その結果として私達は、平和な社会で物質的な豊かさのなかでいられます。それは感謝すべき事実ですが、一歩進んで考えると、世界は平和ではありません。人類みんな豊かでもありません。豊かな国々のなかでも、生きるということは大変な競争です。大自然も破壊していきます。医学を発達させても不治の病はそのままです。そのうえ、幸福であるが故に現われる精神的な苦しみも身体的な病も次から次へと生まれ絶えることはありません。結果が悪ければその行動は正しくはありません。その理論から考えると、道徳的な普通の人間の生き方についても、問わなければならない。現代人が必死で走っているこの道は本当に正しいか正しくないかと。長い年月を経て、現代社会の今までの生き方について疑問を持つ人が増えています。これは行動の結果はすぐ生まれないからです。愚か者たる我々の行動は結局は良い結果を出しません。

今回のポイント

  • 心が空洞な人こそ自己主張に苦しみます。
  • 愚か者の知識も修行も、危険な結果を生みます。
  • 愚かさに気付かない限りは人のどんな行動でも最終的には不幸な結果になります。

経典の言葉

  • ahi pāpaṃ kataṃ kammaṃ – sajju khīraṃ va muccati,
    Dahantaṃ bālaṃ anveti – bhasmacchanno va pāpako.
  • 悪事をしてもその業(カルマ)は、牛乳のように、すぐに固まることはない。
    その行為は灰に覆われた火のように徐々に燃えて悩ませながら愚者につきまとう。
  • (Dhammapada 71)