No.84(2002年2月)
この世は泡沫です
「ある」という苦と「ない」という苦
「ものがある」と思うと、無限の苦しみが心に流れ込むのです。
では、「ものがない」と思えば、幸福になるわけでしょうか?
そもそも我々に「ものがない」と、そう簡単に思えるのでしょうか。なにより先に、有・無の意味を理解する必要があります。有無についての、役には立たないが高度な哲学思想は、世の中にかなりあります。実践的な面で役に立つように、有無について考察してみましょう。
夜独りで寝ているとき、真夜中に色んな音が聞こえてきます。「足音ではないか」「ドアを開ける音ではないか」「ドアノブを廻している音ではないか」などなど、推測します。どんどん恐くなって怯えてきて、身体も震え始めます。「殺されるかもしれません」と思って、死の恐怖さえも感じてしまう可能性もあります。これらの苦しみはすべて「音がある。その音は人が作る。音を作る人がいる」という認識から生まれるのです。
次にその人が「この部屋には私独りです。誰もいるわけじゃないし、勝手に入ることも不可能です。ですから、この音は人が作る音ではない」と思うことにします。そうすると、恐ろしい死の恐怖感が消えます。なぜなら、「人がいる」と思ったことが、「人がいない」という認識に変わったからです。
しかし、音が聞こえるので不安になってきます。眠れなくなってきます。聞こえてくる音も、二種類あります。突然聞こえてくる音、また足音や蛇口から水が漏れる音など、何かパターンがある音です。
次にその人は、突然起きた音だから「幽霊ではないか」と思う。また、パターンがある音だから「幽霊ではないか」と思う。そうなると「幽霊が確かにいる」という認識になります。それからは幽霊に怯えなくてはならなくなります。
またその人が「幽霊がいるわけじゃない、これは自然の音だ」と思うとします。そうなると、「人も幽霊もいない」ことになったので、恐怖感は消えます。しかし、それでもまだ落ち着かなくて、眠れない状態が続く。苛立ってくる。神経質になったりもする。睡眠不足で健康状態にも影響が出る。それはまだ「音がある」と思っているからです。
その人にもう一つ、選択が残っています。それは、音も「ない」と思うことです。
妄想で「ある」と思ったものは、論理的に考えて「なかった」と思えますが、実際にある音については「ない」と思うことは不可能です。たとえ耳栓をして聞こえないようにしても、「音がない」という認識にはならないのです。ですから、「音がある」という思いから生まれてくる苦しみに付き合わなくてはならないのです。「何もない」と思って、気楽になることは簡単な作業ではありません。つまり、気楽に「何もない」と思うことも、妄想に過ぎないのです。たとえば、耳に入る音に対して強引に「音がない」と言い聞かせるか、音がない状態をイメージして、さらに妄想しなくてはいけないのです。
「人が私を殺そうとしている、人が私を憎んでいる」などと妄想して怯えている人に対して、我々は「精神錯乱をきたしている」と思うのです。また「私は人気者だ、皆に好かれている」と思って明るく元気に振る舞っている人に対しては、羨ましがって、精神錯乱だとは思わないのです。それはただ、別に、結果が悪くないだけのことなのです。やはりそういう人々も自分の妄想でしょっちゅう人に迷惑をかけたり、失敗したりすることになるのです。それもまた良いことではありません。妄想を置き換えただけで、人の苦しみに答えを見つけたわけではないのです。
暗い妄想の生き方も、明るい妄想の生き方も、無知な生き方であることには変わりはありません。ですから、「ものがない」と簡単に思いこむことも正しくはないし、幸福の道でもないのです。
ダイヤは高価なものである、お金さえあれば何でも手に入る、あの人は容姿端麗なので私のものにしたい、などと思ってむやみに苦しむことも、あの人は敵だ、ライバルだ、遠ざかりたい、人より成功したい、などと思って怒りで戦うときも、「ものがある」という概念のせいで苦しんでいることになるのです。人に叱られて苦しんでいるときも、その苦しみは「その人がいる、その人が怒っている(怒りがある)、その人に叱られている(叱りの言葉がある)、私がいる」という、「いる・ある」という概念で生まれるのです。かといって苦しまないために、「その人がいない、私が叱られていない」と思うことも、無駄・無理・不可能・無知なことなのです。
「ない」と思うことも幸福の道ではなく、苦しみの道なのです。実際は、人に「ない」と認識することはできないのです。お金がない、仕事がない、知識がない、美しくない、友人がいない、生きる意味がない、暇がない、時間がない、健康ではない、気力がない、体力がない、などなど、探せばきりがないほど人は「ない、ない」と言っているのではないでしょうか。この「ない」という概念は、「ない」ではないのです。あって欲しいものがないから、訴えているだけなのです。欠乏感に苛まれているのです。このような人々が苦しんでいることは明らかです。結局は、「有・主義者」も「無・主義者」も相変わらず苦しみの循環の中にいるのです。
では世の中をどのように観察すればよいのでしょうか。幻・蜃気楼・夢の中で食べるご馳走・画餅として観察すればよいのです。この作業も無知でやってはいけません。妄想で強引にやっても意味がないのです。真理として、事実として認めて実践するのです。
「人に叱られる」とは、「言葉が流れてくる、耳に音が触れる、聴覚が生まれる、判断する、怒りが出てくる、言葉に合わせて怒りの感情の強弱も起こる」というプロセスです。突然その人が他の人に別なことを言う。その瞬間、自分の怒りが止まってしまう。またその人が自分に話しかける。その時、怒りがまた出現する。その流れの中で何かが変化したら、結果もすぐ変わる。たとえば、「この言葉に何の意味もない」と思う。あるいは「叱られて然り」と思う。その時は、怒りがないのです。雑音が入って、声が聞き取れなくなる。その時も怒りが生まれなくなる。
このように、実際は何かが「ある」のでもなく、「ない」のでもないのです。この身体も心も固定しているものではなく、瞬間瞬間因縁によって変わるものなのです。全てのものが同じく瞬間瞬間因縁によって生まれては消えていくのです。執着しても、瞬時に変わるので、無意味です。怒って逆らおうと思っても、瞬時に変わるので、怒っても意味がないのです。
一切は無常だと理解して、ものにも自分にも執着をしないことで幸福になるのです。
今回のポイント
- 「ものがある」と思う人は苦しみを買う。
- 「ものがない」と思うと、苦しみに無知も付ける。
- 賢者は一切を泡の如く観て平安に住む。
経典の言葉
- Yathā bubbulakaṃ passe – yathā passe marīcikaṃ,
Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ – maccu rājā na passati. - 世の中は泡沫の如しと見よ。世の中は蜃気楼の如しと見よ。
世の中をこのように観ずるならば、死王も彼を見ることがない。 - (Dhammapada 170)