パティパダー巻頭法話

No.135(2006年5月)

躾と行儀作法は正しいと言えますか?

変遷する社会に適した道徳 Rules cannot rule a person, but understanding.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

お釈迦さまの出家弟子たちの中に、六人の不良グループがいました。不良といっても、戒律を犯したり、仏陀の教えを認めなかったりしたわけではありません。比丘としての基本的な戒律・規則は文字通りに守っていました。問題は、「文字通り」ということでした。釈尊の戒律の範囲に入らなかった悪いことなら、面白おかしくやっていたのです。たとえば、出家比丘たちは互いに喧嘩しないのが普通です。皆仲良く修行に励んでいたのです。この六人は、「暴力を振るってはならない」という戒律がないことを発見して、気が弱い年下の比丘たちに暴力を振るったのです。若い比丘たちは脅えて、泣いていました。それを報告されたお釈迦さまが、「出家は暴力を振るうなかれ」と戒律を定めたのです。六人は、暴力を忽ち止めました。しかし、脅すぐらいならいいだろう、戒律に触れないだろうと思って、またあの気が弱い出家たちを脅し始めたのです。それでお釈迦さまが「出家は他人を脅すなかれ」という戒律を定めるはめになったのです。この六人の不良行為のせいで、戒律の数はみるみるうちに増えていきました。この六人の「文字通り」は、クセモノでした。

見方を変えてみると、この六人をロクでもない出家だと言えないのです。戒律は常識で守るものだと釈尊は思っていました。法律的に禁止項目を定めると、精神的な自由がなくなるので、修行の障害になるのです。そこで、間違いを犯したならば、それを再び起こらないようにと戒律項目をお決めになった。戒律項目は、最小限に留めたかったのです。そうなると、人々は好き勝手に解釈して戒律の目をくぐることができるのです。六人比丘の趣味は、戒律の目をくぐることでしたので、釈尊は完全な戒律制度を設けることになったのです。釈尊の意に反して項目の数が増えたのですが、出家比丘サンガ制度が現在まで続くことができたのも、曖昧性が全くない完全な戒律制度があったからこそです。不良の六人比丘が単に他の比丘たちに迷惑をかけただけだったのか、それとも仏教にひとつ大事なことを提示した者たちだったのか、ここで断定するのはやめておきましょう。

お釈迦さまが竹林精舎に住んでおられたときの話です。お釈迦さまの周りは、何百人の人がいても、とても静かだったのです。誰も、互いに話したり、世間話をしたり、声をあげて笑ったりしない。仏陀のコミュニティの、この静けさ、この落ち着きは、インドの宗教界で、評判になっていたのです。ある日釈尊が、千五百人以上の比丘たちに説法をしていたのです。そのとき、一人の比丘がくしゃみをした。隣に座っていた比丘は、合掌していたから肘で小突いて「友よ、静かにして下さい。我等の大尊師釈尊が説法なさっているところではないか」とたしなめたのです。くしゃみなんか止められるものではないのに。それでも、仏弟子たちは静けさを重んじたのです。

話を竹林精舎に戻しましょう。あの有名な六人比丘たちは、両手で竹の杖を持って、下駄を履いて、かなりリズミカルに音を立てて、あちこち行ったり来たりしていました。出家者は、洞窟などの空き家で修行中です。その周りは、ほとんど岩です。この六人は固い岩の上で喜んで音を響かせながら歩いていたのです。周辺にはカランコロンという音が響いていました。静けさを重んじる修行者にとって、この上のない迷惑です。でも、どうすることもできない。歩くのは止めなさいとも言えない。音を立てるのを止めなさいと言えば、「音が勝手に出るんだから、私が知ったことではない」と言われる。下駄を脱ぎなさいと言ったら、「足が痛くなるでしょう」と言われる。

釈尊に騒音のことを報告しました。釈尊は六人比丘を呼んで、事実を確かめました。そして、「比丘は下駄を履くべからず」と、戒律が一項目増えたのです。また、「病気で、老いて、身体が弱くなっていない限り、杖を使ってはならぬ」という決まりも作ることになったのです。それで、誰が悪いということもなく騒音の問題は一件落着したが、この六人比丘は次の抜け穴を見つけるに違いありません。これを一番知っているのはお釈迦さまなので、道徳や行儀に関する説法をしたのです。

人が高度な躾を受けた人格者か否かは、行儀作法でわかるのです。身体の立ち居振舞いは、その人の躾と心の状態を世間に表すのです。心を落ち着かせることも、成長することも、智慧の開発も時間がかかる可能性があります。身体の所作に気をつけることは、それほど難しくありません。それで釈尊は、先に身体の所作に気をつけなさいと注意するのです。身体を好き勝手に動かすことは止めた方がよろしい。自分の好き勝手に身体を使うと、周りに大変迷惑なのです。人々の間で立ち居振舞いに気をつけないと、普段怒らない人まで怒ってしまうのです。人間は、野性の動物の集団とは違います。「私はやりたいんだからやる」ということは、人間の社会では成り立ちません。教室で運動することも、キャッチボールすることも良くないのです。国会で皆サンバを踊ることも良くないのです。手足を伸ばしたり、走ったりするためには、適切な場所と時間があるのです。このような身体の行為は、一つ一つ別に取って考えると、悪いことではありません。道徳に反している訳ではありません。しかし、場所と時間は問題です。不適切なところで行うと、とても行儀が悪いことになります。頭がおかしいと言われることになります。文明人・社会人でないと言われることになります。周りに大変な迷惑をかける人間になるのです。ですから、他人の批判、怒りを買うことになる身体の所作を止めることは、行儀なのです。道徳でもあります。身体を制御することになります。

道徳・規則項目をいちいち定めることは、簡単なことではありません。人間が間違いを犯すたびにそれを禁止項目にしなくてはならない。人間が何をやるのかとわかったものではありません。時代が変わると、社会が発展すると、生き方は変わっていくのです。生活習慣が変わっていくのです。その時その時、迷惑になる行動を発見するたびに、禁止しなくてはいけなくなります。たとえば、今、人々の間でインターネットのコミュニケーションが流行っています。誰でも自由に発言したり、好きな情報を得たりする。一見、何も悪くない、昔の人々にできなかった素晴らしいことです。しかし、チャットで犯罪を促したり、自殺の方法を教えたり、自殺願望の人々を集めて集団自殺をさせたり、爆弾の組み立て方などを教えたりすると、どうなるでしょうか。また、他人の機密情報にアクセスしたり、それを公表したりするのはどうでしょうか。何も制御がないから、自由な発言ができるからと、人を誹謗中傷したりするのは、どうでしょうか。また他人のホームページに入って、その中身を書き換えたり消したりするのは、どうでしょうか。全ては悪い行為です。しかし、今までそれらを規制する法律がなかったのも当然です。社会が変わると、新しい法律を作り続けなくてはならないのです。これは、終わりのない作業になるのです。

釈尊はその問題を二千五百年前に知っていたのです。だから、戒律項目を定めるのは、極力控えたのです。間違いを犯したときのみ、戒律項目を設定したのです。その代わりに、常識に従って自分を戒めることを期待していたのです。だから、「社会を怒らせる、非難を受ける、他人に迷惑になる身体の行為を止めた方が良い」と説かれると、常に変わっている時代に適応できる、普遍的な戒めになるのです。いちいち替える必要はありません。また、自分で気をつけて考えて、行動しなくてはならないから、頭が良くなるのです。厳しく躾されたならば、誰でもその決まりを自然に守るようになるのです。これは、連鎖反応的なもので、知識開発に関係がありません。たとえば、犬猫さえも躾されたら、言われた通りにやるのです。それは、自分で考えて悪いことを止めたわけではありません。人間も、決して行儀が悪いと言えませんが、殆どの人々は、自分の判断で理解能力に基づいて正しいふるまいを知っているわけではありません。小さいときからの躾のお陰で、反射的に行っているのです。

西洋で生まれ育てられた人は、西洋の行儀作法が身につく。東洋の方に来て生活してみても、自然に自分の生き方をしてしまうのです。東洋の価値観から見れば、行儀悪いと思われることも気付かずやってしまうのです。東洋に生まれ育った人が西洋に行っても、同じことになります。それで、互いに批判し合う。これが、社会問題を引き起こすのです。違う文化環境で自分の習慣を固く守ろうとするのは問題です。たとえば、フランスは学校に宗教を示す服装で登校してはいけないと定めたのです。フランスから見れば、宗教を剥き出しにして闘うことを止めて、皆仲良くするために必要な、良い決まりでしたが、イスラムの人々は猛烈に反対したのです。これは女子が頭をヴェールで隠す問題でした。イスラム教に、「女性は手足先以外他人に見せてはならない」という決まりがあるのです。それと西洋の思考が衝突したのです。

民族によって行儀作法も習慣も変わるものです。宗教によっても変わるのです。また、時代によっても変わるのです。現代は昔と違って、人間は地球中を動いています。誰がどこに住むのかわからない、自分の仕事場がどんな国になるのかわからないのです。生まれた国に、生まれた場所に死ぬまでいるということは、いまさらあり得ない、考えられないことです。それなのに、人々が自分個人の躾、習慣などを固持して、全く違う価値観のある環境で守ろうとすると、大変苦労するのです。文化の壁で隔離されるのです。衝突が生まれるのです。新たな差別が生まれるのです。互いに理解しあい、仲良くする必要を一部の人々が感じてはいますが、なかなか解決策は見出せません。釈尊が説かれたように、「社会に非難される行儀作法、習慣を止めれば」簡単ではないかと思います。そうなると、誰の宗教が偉いか、誰の生き方が上等か、という問題は起こりません。

次の問題は、言葉です。人は言いたかっただけで、思っただけで、喋ってはならないのです。瞬時に思うことはほとんど感情的で、いい加減で、我が儘な思考なのです。それを発言すると、大変な結果になります。話すことは自由だ思うのは勘違いです。「言論の自由」というのは、ものごとを完全に把握しなかった人々が、ある側面だけ考えて言ったことです。普遍的な真理ではありません。完全たる自由を教える仏教が、「言論の自由」という表現を決して使っていないことに、がっかりしてはならないのです。

話すということは、聞く相手がいることです。そこで、社会というものが成り立っているのです。社会には、社会の決まり、守らなくてはいけないことがいっぱいあるのです。自由に話すということは、ある個人が自分が好き勝手に考えた自己主張を語ることになりかねません。それが、社会の決まりを破ることになるのです。言葉を発言するときは、たとえ相手が一人であっても、その言葉が社会の情報になることを忘れてはならない。言葉が生み出す結果の責任を、発言した人が担わなくてはならないのです。だから、言論の自由は成り立ちません。

語る人は、社会に非難される、相手が怒る、相手の尊厳を侵害する言葉を語ってはならない。言葉を制御し、管理しなくてはならない。それが出来ない人の言葉は、汚物を振りまくようなものです。行儀良く上手に語る能力のない場合は、釈尊が沈黙を守るようにと諭すのです。世界はうるさ過ぎ。皆、キャーキャーと喋っているが、聞く人はいません。喋るだけで、頭は良くなりません。却って悪くなります。聞き上手は、得します。

言葉の管理は、身体の躾より難しいのです。人間は、喋るのが好きです。楽しいのです。言葉を発しない生活は無理です。感情がこみ上げてくると、どうしても喋りたくなります。それを強引に抑えるとストレスが溜まって、困ることになります。しかし、言葉には戦争を引き起こすくらい、人々を地獄に陥れるくらい、恐ろしいパワーがあるのです。正しく使えば、人類を幸福へ導くこともできるのです。話すたびにその言葉の責任が自分に掛かってくるので、重大な罪にもなります。言葉は遊びじゃないのです。危ないのです。気をつけた方が身の安全です。

身体の振る舞いが悪い、言葉が乱暴という問題がなぜ生まれるのかというと、思考が汚れていることによるのです。欲、怒り、憎しみ、怨みなどで汚れた思考をすることこそが、『悪の枢軸』なのです。無知で行う妄想が、精神力を徹底的に浪費させるのです。要するに、思考を管理すれば全ては解決するということです。

今回のポイント

  • 身体の振る舞いで、他人に迷惑を掛けない。
  • 言葉の暴力を振るわない。
  • 言葉の責任は、話した人が担う。
  • 思考を正せば、楽に生きられる。

経典の言葉

  • Kāyappakopaṃ rakkheyya, Kāyena samuvuto;
    Kāya duccaritaṃ hitvā, Kāyena sucaritaṃ care. (Dh.231)

    Vacīpakopaṃ rakkheyya, Vācāya samvuto siyā;
    Vacī duccaritaṃ hitvā, Vācāya sucaritaṃ care. (Dh.232)

    Manopakopaṃ rakkheyya, Manasā samvuto siyā;
    Mano duccaritaṃ hitvā, Manasā sucaritaṃ care. (Dh.233)

    Kāyena samvutā dhīrā, Atho vācāya samvutā;
    Manasā samvutā dhīrā, Te ve supari samvutā. (Dh.234)

  • 身をば怒りに任するな 身の行動をよく守れ
    身にて行う悪を捨て 身による善をなせよかし

    言葉いかりに任するな 己の言葉 よく守れ
    言葉によれる悪を捨て 良き言葉にて善をなせ

    こころ怒りに任するな 己の意よく守れ
    意によれる悪を捨て 良き意にて善をなせ

    英賢常に防護して 諸煩悩よりを守り
    言葉を守りを守る 完全無欠の制御者せいぎょしゃ

  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 231-234)