パティパダー巻頭法話

No.137(2006年7月)

小さな善から始まる

一日で善人にはなれません Self contradiction of the mind hinders your happiness.

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人間は、面白い性格を持っています。難しいことを喋ると、「難しくて嫌だ。簡潔に言えないのか」と思う。簡潔に言うと、自分の知識能力を軽視されたような気がして嫌になる。言われたことは、大したことではないと思う。難しい、複雑な仕事を頼むと、あまりにも緊張してしまってやる気が出てこない。やっても、失敗ばかり。失敗しないで仕事をこなすことが出来ても、ストレスが溜まりすぎて死にそうな気分になる。では、簡単単純な仕事を頼むと気持ちよく、明るくやってくれるのかというと、そうではありません。面白くもない、役にも立たないことを頼まれて、雑事係にされているような気分になる。

勉強する場合も、本などを読む場合も、同じ法則があるようです。何でも、とても分かりやすく教えてあげると、「大したことではない」と思い、教えてくれる内容を軽視する。少々真剣に教えると、「難し過ぎだ」と思い、集中しないし、理解しようともしない。かわりに、居眠りする。本などを読む場合も、「誰でもわかる、子供にも理解できる、30分で○○の全てがわかる、今さら聞けない」などタイトルとして形容詞を付けている本ばかり探す。専門書は遠慮する。それは、自分がしっかりした知識が嫌だからやっているのではなく、「自分が知識人である」という前提でやっているのです。しいて言えば、「私は知識人ですが、プロですが、簡単な本しか読まないぞ」という心構えです。

ですから私たち人間は、面白いのです。本人にさえも、本人が何者か、どんな性格の人間か、さっぱりわからないのです。私たちの心は、思考パターンは、いつも対立的です。ということは、基礎的には矛盾なのです。生きることは矛盾に基づいているので、悩み・苦しみ・失敗・対立などが絶えないのです。落ち着きがなく、不安で生きることになるのです。「人間はどうせ矛盾だ」と諦めて開き直ってしまえば、かなり楽になります。しかし、自分は矛盾であることを認めないといけないのです。しかし自分の矛盾を認めるのは嫌なので、皆必死で矛盾にならないようにと努力している。他人の行動にも矛盾を見つけたら、それを厳しく注意する。わかりやすくいえば、「私は誰とも対立しないのだ」といって、皆に対立することなのです。あるバラモン人が、お釈迦さまにお会いしてこのように言いました。「私は誰の考えも、決して気に入らないという考えを持っています。」これは、これからお釈迦さまがいろいろ話されるので、その前に、ケチを付けて否定しておいた方が良いのではないかという気持ちだったかもしれません。あるいは、自分が世の中のこと、人が言うこと、宗教家が言うことをよく考察して、勉強してみたが、気に入るものは一つもなかった、という自分の知識に対する自慢であったかもしれません。原因はなんであろうとも、お釈迦さまの返事はこのようなものでした。「あなたは『誰の考えも気に入らない』という考えでいらっしゃるならば、ご自分の『誰の考えも気に入らない』という考えも気に入らないでしょう。」バラモン人は、「見事です。完全に、釈尊に負けました」と、釈尊の答えを賞賛したのです。お釈迦さまは、人間が本来持っている矛盾という性格を、とても簡単に示されたのです。

仏教を学ぶ我々は、このポイントを重視しなくてはならないのです。なぜ仏教を学ぶかというと、人格を向上して苦しみから脱出するために学ぶのです。生きることが「矛盾というOS」の上に機能しているならば、人格向上の努力もハチャメチャになるのです。向上しようとすると、結果として堕落する恐れもある。また、自分がどうにもならない人間で、堕落した気分でいると、人格がもしかすると前進する可能性もあるのです。「やれば良い」ということにならないのは、このわけです。努力してもそれなりの手応えを感じないのも、この理由です。心の基本OSである「矛盾」が、行為と結果をハチャメチャにしているのです。

「善友に出会えば、仏道を完成する」というお釈迦さまの言葉はご存知だと思います。矛盾から脱出するのは、一人だけの力では無理なのです。一人で頑張っても、結局は自分自身で矛盾した態度をとってしまうのです。それで、得るべき結果は得られなくなる。

釈尊は、生命の第一の善友です。また仏道を実践して完成した人々は、善友なのです。仏陀は、絶対的唯一の神のような恐ろしい存在ではないのです。我々のことを心配する、とても有り難い善友なのです。このポイントもよく覚えておいて、釈尊を親しみを込めて身近に感じるようにしなくてはならないのです。仏教の世界では、先輩は常に後輩に教える。また、指導する。生命は皆、自由で平等だという立場を強調しつつも、相手に教える。指導する。これも、矛盾でしょうかねえ? いいえ、矛盾ではありません。他人に教わることなく一人で努力しても、期待する良い結果をたやすく出せないのです。超人的な能力がある人は別ですけど。ですから、慈しみと心配の気持ちで、後輩に教えたり指導したりするのです。仏教は、師弟関係で成り立っているものです。しかし、生涯一人の師匠につく必要はありません。沢山の先生たちに教えてもらうのは、結構なことです。師匠も、弟子に自分にできることは全て教えて、できないことは別の指導者に頼むのが普通なのです。ですから、仏教徒たちは互いに競争したり、ライバル意識を持ったりすると、仏教は成り立たなくなる。兄弟意志を持つこと、平和と調和を保つことは必須条件です。仏教の世界で師弟関係が現れたのは、人間が本来持つ「矛盾というOS」の問題を解決して解脱へ導くためなのです。

矛盾の問題を解決する方法の一つをこれから説明します。心を清らかにすることになると、誰でも一回で、十分以内でやりたくなるのです。瞑想のやり方を習いに来られるときも、「友達と約束があるから、30分で教えてくれないのか」と言うのです。3時間かけても基本の基本しか教えられないのに、本人は30分さえも長すぎだと思っているようです。それでも、30分で苦労して超特急スピードで指導するならば、論理的な立場は、徹底的に真剣に集中して聞いて実行することですが、相手が取る態度は「どうせ30分だから、大したことはない」というものです。真剣には聞かないし、理解もしないし、言う通りにはやらない。順番でゆっくり教えれば理解できるし、半端にやったならば、やりなおしてもらうこともできる。しかし、そのためには決して自分の時間を空けてくれません。それから「私の怒りを何とかしてくれませんか、対人恐怖症を簡単に治してくれませんか、落ち着きのない性格を処理できる何か智慧がないのか」などをよく頼まれます。一生かけて築いてきた問題を一秒で治すとは、無理な話です。できないと言ったら嫌われるし、この方法でいかがでしょうかと教えてあげると「そんなもので治るものか」と苦笑いをされてしまうのです。矛盾の問題は、とても乗り越え難いのです。

仏陀の教えによると、一日で完全たる善人になることをやめた方が良いのです。確かに、仏陀の言葉を聞いて短時間で完全たる悟りを得た人々はいました。しかし、彼らは矛盾の問題を既に解決してあったのです。ですから、素直でやる気があったのです。仏陀の説法は、人が持っている矛盾度に合わせるのです。矛盾度がとても低い人に直接真理を語る。矛盾度が高い人に、順番で心が徐々に清らかになる方法を教えてあげる。矛盾度が低い人は、この世の中でいないと言えるほど、少ないのです。私たちみんなの矛盾度は、相当厚いのです。

そこでお釈迦さまがアドバイスするのは、小さな小さな善いことからスタートすることです。それに昔の社会環境から示された例えがあります。「純銀のアクセサリーや器が欲しい場合は、まず銀脈を掘って、鉱石を採らなくてはならない。鉱石でアクセサリーを作ることは全く不可能です。しかし、鍛冶工は諦めず複数の行程を経て純銀を作るのです。最初はただの土で、素人にはこの中に銀が隠れているということも理解できないほどです。いろいろ行程を経たところで、金属の固まりが現れてくるのです。しかし、銅や鉄、鉛などが混じっているので、色も悪いし何の役にも立たない。さらに作業を進めると、不純物は徐々に減っていくのです。最後の最後に、光輝く純銀が現れてくるのです。純銀ができたところで、意のままにアクセサリーや器が作られるのです。このように、智慧のある人も、少しずつ、瞬間瞬間、善いことに努力して完全たる解脱に到達するのです。ヴィパッサナー瞑想では、瞬間に絶大な価値を入れてあるのは、こういうわけです。

しかし、二時間も瞑想するのだと見栄を張って、睡眠することに挑戦する人はよく見えますが、この瞬間だけでもよいから、真剣に気付きましょうと努力する人が少ないのです。一時間、二時間、一日中、一年間、などなど、ピリオドを決めて頑張るつもりでいても、矛盾のOSが邪魔するから結果ゼロで終わるのがオチです。「今、ここで、この瞬間」に気付いてみますと、努力すると、確実に結果があると思います。瞬間だけだから、矛盾のOSに邪魔をする時間がないのです。

面白いエピソードがあります。お釈迦さまがいた時代、ある村の隣に森がありました。その森の中に修行に励む比丘たちが住んでいました。朝、托鉢に森から出てきて村に入る前に、衣を正式的に身に纏い、村に入ります。大事な衣ですから、森の中では着ません。衣を畳んだままで村の近辺まで持ってくるのです。あるバラモンが、比丘達が衣をとても大事にして、村に入る前に身に纏うことを見ていました。その場所は草がぼうぼうと出ていて、朝露に衣が濡れるのです。バラモンは思いました。「この修行者の大事な衣が濡れてはいかん。」彼は草を刈ってあげたのです。それから、また見ていたのです。でも、地面がぬかるんでいるので、衣にはいっぱい泥が付いたのです。「大事な衣に泥がついたらいかん。」彼が何日もかけて、その場所に砂利を運んで平らにしてあげて、ぬかるまないようにしたのです。苦労の甲斐あって、当分良かったのです。毎日のように、比丘達の真剣な生き方と衣を身に纏う姿を見て、喜びを感じていたのです。

しかし、雨が降り出しました。衣を身に纏う比丘達は、びしょぬれになりました。バラモンは、また「これはいかんことだ」と思いました。覚悟を決めたのです。こちらに建物を造ってあげる。そうすると、比丘達は雨が降っても濡れないでしょう。彼が苦労してその場所に建物を造ったのです。折角造った建物だから、お釈迦さまも呼んで、食事の御布施をして、比丘サンガの使用のためにこの建物を寄付しようと思ったのです。それから、その法事を行いました。

お釈迦さまが食事を終わられたところで、バラモン人は感激の気持ちがいっぱいで、自分がこれほど大きなスケールの善行為ができるようになったのかという道順をお釈迦さまに報告したのです。最初は大胆なことをしようという気持ちは全くなかったのです。ただ、この比丘たちはかわいそうだ、草くらい刈ってあげようかという、軽い気持ちでした。しかし、一つの善いことは、次の善いことにつながるのです。小さな善いことをして心の喜びを感じた人は、次から次へと善いことをし続けるのです。時間が経つと、最初は想像もつかなかった大胆な善いことでも、軽々とできるようになるのです。お釈迦さまは、バラモンの行為を賞賛して、このことを教えてあげたのです。

「小さな善から始まる」が、キーワードです。これだけ真剣に守れば、人は徐々に向上していくのです。本来の矛盾を破る方法は、これです。一日で善人になることは、成り立たないのです。諦めた方がよいのです。矛盾のOSがこれにも何かケチを付けたがるでしょう。「小さな善から始めると、目的地は気が遠いほど遠くなるのではないか。我々は忙しい。気を長くして何かに挑戦することには慣れていない。今は全てインスタント主義です。ボタンを押して結果が出なかったらダメな世界です」云々を思うでしょう。何でもハチャメチャにする心は、何を言っても事実に逆らえないのです。インスタント主義の現代人に、今日生まれた赤ちゃんを一週間程度で幼稚園児くらいに成長させることができますか? 妄想しかできない頭でごちゃごちゃ何を考えても、それは矛盾というOSの働きです。負けてはいけないのです。

ですから、「小さな善から始まる」のです。これが、仏道を完成する道なのです。ちょっと待ってください。「一日一善」を聞いたことがありますねえ。これは、仏陀の言葉ではありません。一日一善であるならば、一年経たところで三百六十五善しかやっていないのです。これではいつ悟るのかとわかったものではありません。人格を完成し、悟りをひらくために仏陀が説かれた完全なアドバイスは、「小さな善から始まる」ということなのです。

今回のポイント

  • 生命は基本的に矛盾です
  • 矛盾は成長を妨げる
  • 智慧ある人は、矛盾の壁を乗り越える
  • 人は、徐々に成長して完成する

経典の言葉

  • Anupubbena medhāvi, Thoka thokaṃ khane khane;
    Kammāro rajatass’ eva, Niddhame malaṃ attano.
  • おのが垢 賢者は順次少しづつ
    その都度 都度にとり除く 鍛冶工鑛垢を除くごと
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 239)