No.255(2016年5月)
唯一偉大なる存在
生命の順位づけ Difference and discrimination
今月の巻頭偈
DN27. Aggaññasuttaṃ
長部27 世起経
- Khattiyo settho janetasmim Ye gottapatisārino
Vijjācaranasampanno So settho devamānuse
- 氏姓に基づいて見ると 人間のあいだで王族は最高なり
明行足(如来)は 天と人間界の最上(の存在)なり
三大聖事
今月は、お釈迦さまを祝ってその教えを再び真剣に考えてみるウェーサーカ祝祭日があります。南方仏教において、一年を通して最高のお祭りになります。釈尊の降誕と成道、そして般涅槃を同じ日に祝うのです。この三つの出来事は、ある意味で最終的なゴールを指しています。修行を完成しながら輪廻転生してきた菩薩がシッダッタ王子として誕生したことは、最終の生まれです。これからは、輪廻転生することはありません。三十五歳の時、菩提樹の下で完全たる覚りをひらいて正等覚者になりました。いままでの修行の最終的な結果に達し、輪廻転生を終了できる資格を得たのです。八十歳になってから、釈尊の肉体の機能も止まりました。それも生命としての最終の死であって、これから輪廻転生は成り立ちません。というわけで、最終のゴールという意味で、この三つの出来事をまとめることができます。
南方仏教ではこのような解釈をしないで、単純に「釈尊の降誕はウェーサーカ月の満月に起きた。ウェーサーカ月の満月に最終解脱に達しました。釈尊が涅槃に入られたのもウェーサーカ月の満月でした」と理解しているのです。しかし、三つの偉大なる出来事が必ずカレンダーどおり同じ日になることもあり得ますが、そうならなくても何の問題もありません。北伝仏教では、この三大聖事は別々の時期に起きたとされています。仏教が宗派に別れる以前、この期日について明確な理解があったならば、南伝と北伝のあいだで差が生まれなかったでしょう。パーリ経典を調べても、三大聖事が起きた日にちを突き止めることはできないのです。しかし注釈書などの一般仏典になると、三大聖事がウェーサーカ月の満月に起きたのだと明確に記しているのです。
なぜ一日で祝うのか?
一般仏教徒の気持ちから考えると、祭りは三つあったほうがよいのです。祭りの代わりに修行することになっても、年三回、大事な修行の日を迎えることはたいへん有り難く感じるはずです。一般仏教徒の気持ちから見れば、三つのお祭りが一つになったことは勿体ない話です。三大聖事を一日にまとめたのは、昔の大阿羅漢たちであると思います。阿羅漢に達した聖者たちには、カレンダーの日にちはそれほど関係ないことです。しかし真理に基づいて考えると、三大聖事は生命としての最終ゴールを指し示しています。解脱に達することが最終的なゴールなのです。ですから、解脱を体験することを重んじてウェーサーカ祭をおこなうのです。そういうわけで、本師、法主、法王である釈迦牟尼ブッダの降誕・成道・涅槃という三つの出来事を併せて、一つの日に祝うことになっているのです。
生命の起源
今月は、われわれの偉大なる師匠である、また聖なる父でもある釈迦牟尼如来を祝うことにしましょう。
長部経典に、すべてのものごとの起源について語られた Aggaññasuttam(アッガンニャスッタン=世起経)という経典があります。
内容はできるだけ神話的に語ろうとし ているのです。お釈迦さまには、現代の科学者のように地球上で命がどのように現れたのかと精密に語る気持ちはありませんでした。神話的な色を抜いて経典を理解すると、科学者が発見することに相違するものはないが、釈尊にはその目的はなかったのです。
この経典でお釈迦さまは、人種差別は決していけないと説かれているのです。人種差別的な感情は、人間のいい加減な思考・妄想の結果であると示されています。生命はさまざまな条件によって変化してゆくものであるというポイントを強調します。現代の思考に合わせて言うならば、生命の進化論なのです。しかし、お釈迦さまには進化論を教えてあげる目的はなかったのです。さらに、生命は平等であるという、立証できない観念的な思考を正当化する目的もなかったのです。
自分を上位にする区分けかた
生命には差があります。一人ひとりの生命は、互い違いの命なのです。説かれたかったのは、「生命には差はあるが、差別はけしからん」ということです。それでも人間は、生命の優劣を考えて順位をつけたがるのです。その場合は、こころのバイアス(自我)が割り込んできて、自分のほうが優れていると言い張る結果になるのです。西洋の宗教にある聖書は、ユダヤ民族によって書かれたものです。ですから、ユダヤ民族が選民になっています。インドの宗教はバラモン人によって語られたものです。ですから、人間のあいだでバラモン族こそ最高の存在になるのです。この病気は他の国々の民族のあいだでも見られる現象です。中国は世界の中心にある国です。日本国は神の分身なのです。日本の皆様も神の身体のうえで生まれ育って繁栄しているので、相当、偉いものなのです。というわけで、人間がおこなう順位づけは、何の意味も持たないのです。単純に自分のエゴを正当化しているだけです。
順位と区別はこころの働きで決められる
そこでお釈迦さまは、人間の順位ではなく、生命の順位をつけてみることにしたのです。お釈迦さまのこころには、バイアスは一切ないのです。ですから、お釈迦さまの順位づけは、一つの意見ではなく真理の教えになります。生命は環境によって進化(変化・退化を含む)してゆくのだと、お釈迦さまが認めるのです。しかし、それよりも大事な原因を見出したのです。それは、同じ種の生命であっても差があることです。人間は皆、生物学的に一種ですが、一人ひとりは互い違いなのです。現代の知識に頼る人々は、遺伝子の差だと言いたがるでしょう。しかし、一卵性双生児であっても人格は同一ではないのです。
順位づけは釈尊にしかできない
この原因は、こころの働きなのです。感情はこころに生まれるものです。思考はこころがおこなう作業です。生きかた、好み、人格などは、こころの管轄です。こころは肉体に依存しているが、肉体に支配されてないのです。こころが肉体を支配しているのです。ですから、こころが汚れた人の順位が低くなって、こころが清らかな人の順位が高くなるのです。それはその人の生きかたで全体的に見られる、立証できる事実です。私たちも人間に順位をつけたいと思うならば、こころの汚れ具合と清らかさ具合をチェックするしかないのです。それには他人のこころを知り尽くす必要があります。自分自身のこころの働きかたも知らない、管理できない人間には、無理なことになるでしょう。ですから、順位をつけたがる気持ちをやめて、一切の生命をことごとく慈しんだほうが無難なのです。私たちが順位をつけたくなったら、それは私たちの自我の働きになります。順位づけはお釈迦さまだけに任せておきましょう。
区別は行為次第
バラモン族は自分たちが神の口から生まれた最上の人間であると言い張っていました。両親がバラモンであるならば、その人は生まれによって聖者であるとも言っていたのです。しかし、お釈迦さまがこのエゴ自慢を科学的に分析した教えが、スッタニパータのワーセッタ経にあります。偈の一つを引用します。
Yo hi koci manussesu, adinnaṃ upajīvati; Evaṃ vāsettha jānāhi, coro eso na brāhmano. (Sn.621)
「ワーセッタよ、もし人間のあいだで誰かが盗むことで生計を立てているならば、その人は盗人でありバラモンではないのです。」
要するに、人の生きかたで自然に順位が現れる、という意味です。悪行為をする人は悪人です。善行為をする人は善人です。生まれた国、民族、肌の色、性別などによって、その真理は変わらないのです。何人であろうとも、盗む人は泥棒です。ひとの行為によって順位をつけることは、それほど難しくありません。悪行為・善行為をおこなう原因は、こころにあります。こころが悪の感情で染まると、行為は悪になります。善の感情で染まると、善行為をおこなうのです。ですから、こころの汚れ具合と清らかさ具合で、より精密に順位を考えることができます。
感情は性格を決定する
すべての生命のこころは、貪瞋痴で汚れているのです。この汚れ具合はさまざまです。いつも激しい怒りを感じる人もいるし、たまに激怒する人もいるのです。欲が強い人も、弱い人もいるのです。時々、人々は貪瞋痴を抑えることもします。その時、こころには不貪不瞋不痴が働きます。この働きかたもさまざまでバラバラです。
ものごとのありさまを観察すると、こころに理性が生まれてきます。理性が入り込むと、貪瞋痴が弱くなります。理性をさらに育てるために、ものごとをありのままに観察するならば、徐々に真理を発見します。その状態に智慧と言います。智慧は貪瞋痴の正反対の特色を持っているのです。智慧が現れると、こころのなかで貪瞋痴に仕事をすることができなくなります。智慧は徐々に現れるものです。ですから、貪瞋痴の力も徐々に弱くなるものです。真理を発見して完全たる智慧が現れたら、こころから貪瞋痴が完全に消えてしまうのです。貪瞋痴の変身である千五百の煩悩(感情)も、跡形もなくこころから消えるのです。これがこころの成長の最上位です。ですから、智慧を完成した人、貪瞋痴を根絶した人こそが、生命のなかで最も優れた人間になるのです。
如来が最上位になる理由
お釈迦さまは、一切の生命のなかで最も優れた生命の一人です。お釈迦さまの指導のもとで真理を発見して智慧を完成した人々も、一切の生命のなかで最も優れた順位に達するのです。しかし、聖者たちのあいだを観察すると、お釈迦さまが師匠であり指導者なのです。ですから、お釈迦さまの地位は、断言的に一切の生命のなかで最高位になるのです。
お釈迦さまは智慧を完成しただけではなく、さまざまな瞑想方法でこころを究極のところまで強化した方でもあります。お釈迦さまの過去を見られる能力には、リミットがなかったのです。生命のこころを読める能力、性格を理解する能力、生命を躾ける能力なども、最高位に達していたのです。弟子たちは時間をかけて瞑想して禅定状態に達するが、お釈迦さまには瞬時に禅定に入ることも、禅定から出ることもできたのです。このような能力は、他の生命にはありません。他の正等覚者にも、等しい能力が備わります。しかし、全宇宙のなかでブッダは一人しか現れないのです。そのブッダの教えが生命からきれいに消えて忘れられたところで、他の正等覚者の一人が現れる可能性があります。二人のブッダは同時に存在しないのです。
というわけで、正等覚者である釈迦牟尼ブッダは、人間・梵天・神々を含む一切の生命のなかで、唯一無二の最も優れた存在になるのです。ブッダの完成した智慧と、完成されたこころの能力をあわせて、 vijjācaranasampanna(ヴィッジャーチャラナサンパンナ )というのです。明行足とは、その意味です。
長部経典の Aggaññasuttaṃ では、生命の進化と順位について語って終わったところで、お釈迦さまはサナンクマーラ梵天がとなえた偈を引用します。この文章の冒頭で紹介したのは、そのサナンクマーラ梵天の偈です。それは仏説ではないでしょうという必要はありません。お釈迦さまはその言葉を真理に適った言葉であると評価して、再びブッダの言葉として説かれるのです。
釈迦牟尼如来は一切の生命のなかで最も優れた方です。釈尊に等しい存在はいません。われわれはこのようなお釈迦さまの弟子になって、指導を受けているのです。では、釈尊祝祭日にちなんで、釈迦牟尼如来にこころを込めて礼拝いたしましょう。
Namo buddāya.(ナモー ブッダーヤ)
今回のポイント
- 解脱とは生命が達するべき最終ゴールです
- 生命とは進化・変化・退化する存在です
- 生命に差はありますが、差別はいけません
- エゴがあるから、人の順位をつけたくなるのです
- 生命の順位づけは釈尊にしかできません
- こころの浄・不浄によって順位がなりたちます
- 如来が最上位の存在です