パティパダー巻頭法話

No.257(2016年7月)

聖者のオーラは智慧です

覚醒者はこころの中身で発見する Characteristics of the enlightened person

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Gambhīrapaññaṃ medhāvim
    Maggāmaggassa kovidaṃ
    Uttamatthamanuppattaṃ
    Tamahaṃ brūmi brāhmanaṃ
  • 智慧深遠に怜悧なる 道と非道を熟知して
    阿羅漢果あらかんかをば得たる人 そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 403)

俗世間にいろいろな聖者がいる

さらに、完全な覚りに達した方々について勉強してみましょう。解脱に達した人に対して、私たちにも、私たちなりの考えがあります。その考えは各個人の理解と感想になるので、一貫しないのです。解脱に対する一貫しない個人の意見をできるだけたくさん学んでみても、覚者はどのような人間かと理解することはできないと思います。時々この世で、「私は最終解脱者だ」「私はブッダだ」「私は覚醒者だ」と公に発表する人々も現れます。その発表が正しいなら、その人々の生きかた、教え、指導方法は同じものでなければいけません。しかし、決してそうならないのです。生きかたも教えも、バラバラなのです。なぜこのようになるのでしょうか?
それは覚者に対して自分固有の意見があって、それに合わせて覚醒者気分になっているからだと思います。

聖者とはブッダです

この世で最初に、完全たる解脱に達したのはお釈迦さまです。ブッダという普通名詞は、お釈迦さまだけに使う習慣もあるのです。お釈迦さまの指導のもとで、たくさんの修行者たちが完全たる解脱に達しました。解脱に達した聖者たちは、偉大なる師匠である釈尊に対して尊敬の意を持って、自分たちもブッダであると名乗ることはしなかったのです。それはお釈迦さまが決めたことではないのです。師弟関係を壊すことで得るものは何もないので、お釈迦さまもブッダという言葉を自分だけに使われていることに、特に何も説かれなかったのです。しかし、「煩悩を滅尽して解脱涅槃に達する者はブッダである」とも説明するので、お釈迦さま自身は、ブッダという言葉を普通名詞として使われていたのです。解脱に達した釈尊の弟子たちは、阿羅漢として知られています。「バラモンという言葉を正しく使うならば、それは解脱に達した人に使うべきである」と、釈尊は説かれるのです。

聖者のことはブッダに訊く

解脱に達した人々はどのような存在であるかと正しく理解したければ、お釈迦さまに伺うことです。その問いに対して、お釈迦さまが明確な説明をされています。お釈迦さまが明確な説明をされていても、人間が解脱者に関して勝手な解釈をすることも、勝手な判断をすることも、なくならないのです。要するに自分たちの先入観に邪魔されて、釈尊の説明がこころの中に入っていないのです。

先入観があるから聖者を発見できない

この先入観は、信仰によって成り立つ宗教なのです。人間は皆、なにかを信じています。なにかの形の信仰を持っています。人間の生きかたを決める場合は、信仰という感情もだいじな役割を果たしているのです。信仰の世界は、証拠は成り立たない世界です。立証できない世界です。信仰は、迷信、神話、奇跡などの現象には栄養たっぷりの畑です。このような先入観で、聖者とはなにものかと考えるのです。当然、普通の人間より桁違いに優れた人間でなくてはならないのです。その優れたところとは何かというと、奇跡を起こす、空を飛ぶ、老いない身体を持っている、ひとの病を瞬時に治せる力がある、人々の希望を叶えてあげる、普通の人間には近寄りがたい存在、ということになるのです。聖者と勘違いしている人々と、聖者と名乗る詐欺師たちは、簡単に一般人の神話物語に乗ってしまいます。本物の聖者は、俗世間の一般人の迷信に富んだ神話物語に自分の生きかたを合わせないのです。ですから一般人にとっては、真の聖者が自分の周りに生活していても、発見することはできなくなっているのです。

超人探し

聖者に対するブッダの説明には、迷信・神話物語などは何ひとつもありません。阿羅漢に達した人々に関して、指を触れることで藁も金に変化させるようなたぐいの話はないのです。説明はすべて、智慧に関する話です。一般人のものの見方と聖者のものの見方はどれほど違うのか、という話です。それから、人格の話です。一般人と違って、聖者こそが人格者であると具体的に語られています。要するに聖者とは、身体を見ることで発見できる存在ではないのです。こころを観なくてはいけないのです。智慧によって顕わになる人格、生きかた、ものに対する価値観などを観なくてはいけないのです。世界は聖者探しに必死です。残念ながら超人を探しているだけで、人格者を探そうとはしていないのです。

制限された観察能力

では、聖者・バラモンとはどのような存在なのかと勉強してみましょう。 Ggambhīrapaññaṃ 「智慧は深遠なり」という意味です。智慧とは知識ではありません。知識の達人たちは、この世にいくらでもいます。頭でっかちならば覚っているのだ、という意味ではないのです。智慧とは、ありのままに一切の現象を観察して達する結論なのです。
へぇーっ、ありのままに観る?
それだけで十分?
そのとおりです。しかし、ありのままに観るということを軽視してはいけません。人間にその能力がないのです。すべての生命についている観察能力は、それぞれの命を維持することだけに制限されています。われわれ人間に、カラスの知る世界はまったく関係ないのです。動物の死骸を見て、ごちそうを発見したと喜んで大騒ぎするカラスの気持ちを理解することはできませんし、理解したくもないのです。
恋に落ちる人間は、ラブソングを歌います。発情期の猫たちもラブソングを歌います。そのラブソングは、人間にとってはうるさくて気持ち悪くてたまらないのです。人間のラブソングを聴いて、その気持ちになる猫は一匹もいないのです。人間のラブソングが猫にとって気持ち悪いか否かは、猫に訊かなくてはいけないのです。それで理解してほしいのは、「それぞれの生命の知識範囲はそれぞれの生命を維持管理するために限られたものである」ということです。
ですから、生命にとっては、ありのままに観ることは困るのです。河岸に流されている魚の死骸は気持ち悪いし、皿に載せている魚の死骸はごちそうであると理解しなくては困るのです。生命には現象をありのままに観る能力がないだけではなく、さまざまな方法で、現象を「あってほしいまま」に見ようと工夫までしているのです。人間の知識、科学、技術、文学、芸術、文化、文明のすべては、人間という肉体のために作ったものです。そちらに、ありのままに観る智慧のひとかけらもないのです。

如実に観る訓練

ブッダの教えを実践しようとする弟子たちは、俗世間的な知識能力を育てるのではなく、ありのままに現象を観察しようと励んでいるのです。もともと人間にありのままに観る能力はついてないので、決してスムーズに進む作業ではありません。肉体を維持管理するためについている観察能力から始めて、ありのままに観られる能力を育ててゆくのです。たとえで言えば理解しやすいのです。地球を回る軌道に人工衛星を載せたいとしましょう。一番障害になるのは地球の引力です。しかし、衛星を載せたロケットを地球にしっかりと据えつけておかなければいけません。ロケットは地球の引力をバネにして、宇宙まで飛ぶのです。ありのままに観察する能力を育てる場合も、肉体を維持するために限られた観察能力をバネにするのです。

一切を知るということ

ありのままにものごとを観察できると、はじめて真理を発見するのです。発見する真理はどのようなものかと、お釈迦さまが説かれています。それでも、私たちには理解できないのです。ありのままに観られないからです。ありのままに観られる聖者は、一切の現象の本来の姿を知っています。誤解しやすい俗世間の言葉に代えるならば、聖者が知らないものは何ひとつもないのです。しかし、すべてを知っているとは、貪瞋痴に汚染された一般人が妄想する一切智となんの関係もないのです。一切の現象のありのままの姿を発見した方の能力に、智慧と言います。一切の現象のことを知っているので、その智慧は広大で深遠なのです。

聴いてもわからない聖者が発見する真理

智慧のある人が発見する真理をお釈迦さまが明確に説かれたので、自分たちもそれを知りたくなっていると思います。これから教えますが、それを知ったからといって、深遠なる智慧が現れないことは確かです。なぜならば人間のこころに、ありのままに観る能力が備わってないからです。その真理とは、「一切の現象は無常であり、苦であり、無我であります。一切の現象は因縁によって成り立っていて、因縁が変わると壊れていきます。無知な人は現象が実在すると勘違いして、執着します。執着不可能なものに執着するから、生命は苦を感じます。一切の執着を捨てることで、究極の安穏に達します」というものです。これはいつでも聴いている話でしょう。しかし、肉体を維持管理するだけに限られている俗世間の知識では、理解して納得できる話ではないのです。みずから、ありのままに観る能力を開発して、発見しなくてはいけないのです。

聖者のオーラは智慧です

聖者とは、深遠なる智慧が備わった智者なのです。身体からオーラを放っている人ではないのです。私たちは世間のものごとのほんのわずかしか知りません。知っているものも、自分の肉体を維持管理する目的で、捏造して知っているのです。肉体に対する愛着から世間を観察すると、不安、悩み、心配事が限りなく現れるのです。やるべきことはなんなのか、やっていけないことはなんなのかと、わからないのです。良かれと思ってやったことも、逆効果になります。明日、地震が起こるか起こらないかは、知らないのです。先に知りたいと思って、工夫までするのです。先に地震が起こると知っていても、その時間になったら、不安で怯えるのです。このような精神的な悩みがいっぱいあるのは、生きていきたいからです。一般人は、先を知りたいのです。やるべきこと、やってはいけないことを正しく知って、それに合わせて行動したいのです。しかし残念ながら、その能力はまったくないのです。ですから、不安からは解放されないのです。

明日を知る

聖者は違います。生きていきたいという存在欲が消えているのです。一切の現象の本来の姿を、ありのままの智慧で発見しているのです。ですから、明日はどうなるのか、ということも、なにをすればよいのか、ということも、知っているのです。聖者の判断は間違わないのです。聖者は過ちも犯さないのです。「明日のことも知っている」と言葉でいいましたが、聖者は予言者ではないのです。予言者という概念は、欲に絡まっている、強烈な存在欲を持っている人々の夢物語です。明日を知るとは、真理を知るという意味です。過去・現在・未来という時間軸の問題ではありません。釈尊が、聖者は medhāvim であると言うのは、この意味です。

道・非道を知り尽くす

一切の現象の本来の姿を知っているので、やるべきことも、やってはいけないことも、知り尽くしているのです。俗世間の人々は、生き延びたい、死にたくない、という決して叶わない夢を抱えています。しかし、人間の生きかたは、生きのびる生きかたではなく、寿命を縮める生きかたなのです。不死になる生きかたではなく、死を早める生きかたなのです。聖者に伺ってみれば、決められた寿命をまっとうできる方法も、生きている間に余計に苦労しない方法も、教えてもらえます。それだけではなく、人格向上する方法も、知識の次元を破って超越した智慧に達する方法も教えられるのです。輪廻転生する生きかた(非道)、輪廻を脱出する生きかた(道)を知っているのです。
ですから、智慧のない一般人は、聖者を指導者にするべきなのです。一般人は仲間からアドバイスを受けたり、先輩からアドバイスを受けたりします。しかし、仲間も先輩も、正しい生きかたを知っているわけではないのです。俗世間のアドバイスは、人間の役に立ちません。世間にアドバイスすることに相応しいのは、道・非道を知っている聖者なのです。聖者は maggāmaggassa kovidaṃ 「道と非道を熟知している」と、お釈迦さまが説かれるのです。

最高の境地

一般人は「一切を知っているならば、すごいことでしょう。いくらでも儲けられるでしょう」と思うかもしれません。存在欲があるから、執着があるから、そのように思ってしまうのです。存在欲を断ったならば、一切の現象を知る能力はクールな話になります。たとえで説明します。地球の引力に反発することができる何かの品物を開発したとしましょう。その品物を何かの物体につけたら、その物体は浮くようになります。それなら、面白くてたまらなくなると思います。ふつうの車にもその品物をつけたら、空を飛んで好きなところに行けます。十トンの荷物であっても、手で持ち運ぶことができます。面白い話でしょう。しかしその話が面白いのは、地球の引力に引かれて生きている場合だけです。それで、なんの引力の影響も受けない宇宙空間に住んでいる人がいるとしましょう。その人に、引力に反発する品物をいくら売ろうとしても、買いません。ただであげようとしても、断られます。引力の影響がない人には、関係ない話です。聖者が存在欲を断ったとは、このような意味です。聖者には、一切の現象を知る智慧があることも、それほど驚くべきことではないのです。道・非道を知っていることも、それほど驚くべきことではないのです。すべてを脱出しているのです。それをお釈迦さまは、uttamatthamanuppattaṃ 「最上の境地に達した者」と説かれているのです。要するに、阿羅漢果に達しているという意味です。「その人こそが真のバラモンであると私(釈尊)は説く(tamahaṃ brūmi brāhmanaṃ)」というフレーズで、お釈迦さまは話を終了します。

聖者は智慧で判断するべきなのです。

今回のポイント

  • 智慧と知識は違います
  • 如実に観る力は生まれつきではありません
  • 道・非道を知らない人間に悩みは尽きないのです
  • 執着を断つことが最高の境地です