No.259(2016年9月)
武器を持たない精神
自我がないとは、味方も敵もないこと Perfect non violence
今月の巻頭偈
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章
- Nidhāya dandaṃ bhūtesu
Tasesu thāvaresu ca
Yo na hanti na ghāteti
Tamahaṃ brūmi brāhmanaṃ
- 強き弱きにかかわらず 生き物すべてに武器むけず
殺さずそして殺させず そをバラモンと我は説く - 訳:江原通子
- (Dhammapada 405)
聖者探し
「私はブッダになりました」「覚りに達しました」「覚醒しました」「私はブッダの生まれ変 わりである」などと言う人々がいます。
公に「ブッダになった」などなどと発表する場合は、本当にその通りなのでしょうか?
勘違いなのでしょうか?
他人を騙しているのでしょうか?
なんとなく言ってみただけなのでしょうか?
他人に認められ尊敬されたいという気持ちをもっているのでしょうか?
実際のところ、よくわからないのです。これは現代に限った問題ではありません。昔からたくさんの人々が、自分が覚醒したことを発表してきました。その中にも、本物と偽物がいたのです。「解脱に達した」という気持ちが正しいか否かを確かめてみる方法が必要です。他宗教と違って仏教の場合は、特に重大な問題です。なぜならば、ブッダの教えは解脱に達することを目指して実践するものだからです。
覚ったつもり
出家は必死に修行するのです。できるだけ早く解脱に達したい、という気持ちをもっているのです。修行のはじめは戒律です。戒律になじんでくると、こころに欲と怒りの感情が現れなくなります。瞑想実践を行なうと、簡単にこころが落ち着いて安定した状態になります。このような状況に達した修行者は、自分のこころの中で睡眠している煩悩に気づかないのです。こころは常に清らかな状態であるから、解脱に達したのではないかと思ってしまうのです。この修行者は、決して詐欺師ではありません。正直なのです。この勘違いは、仏教で adhimāna ・増上慢と言います。仲間の修行者たちは、アドヴァイスをして問題を解決してあげなくてはいけないのです。
Adhimāna を atimāna・高慢と勘違いしないでください。
出家が意図的に他を騙す目的で「解脱に達した」と発表したならば、出家者としての資格が失われます。たとえ衣を着ていても、出家の仲間ではなくなるのです。
解脱者に認定はいらない
修行者は、「解脱に達したとは、どのような精神状態なのか」と知る必要があります。一般の方々も、聖者に導いてほしいと思うのであれば、聖者を発見する方法を知ったほうがよいのです。巻頭法話として二十三偈にわたって、解脱に達した人を見分ける方法を説明してきました。今まで語ってきたのは、「解脱に達した聖者の性格とこころの中身は、どのようなものですか?」ということです。この話を読んで理解しても、聖者を発見することは難しいと思います。なぜならば、解脱とは何かの組織が与える会員証みたいなものではないからです。自分の修行の結果、自分のこころの汚れが二度と生まれないように完全に消えて、安穏な境地に達するのです。それを他人が認定する必要はありません。しかし、解脱の道を初めて世に明かしたのはお釈迦さまなので、「解脱に達した人のこころは如何なるものか?」と説明しておかなくてはならなかったのです。どなたかが解脱に達したと発表したならば、その真偽をブッダの教えに照らし合わせて判断しなくてはいけないのです。
俗人と聖者の比較
今月も「解脱のこころ」とは如何なるものかと理解してみましょう。解脱に達したこころに当てはまる言葉はありません。すべての言葉は、俗世間の状況をあらわすものです。出世間をあらわす単語は存在しません。解脱に達した人のこころを理解するために、俗世間の人々のこころと比較してみなくてはいけないのです。このようなやり方です。一般人のこころに欲があります。解脱者のこころに欲は存在しません。一般人は怒る。解脱者は怒りません。それでも、なんでもかんでも否定していいわけではありません。例えば、「俗世間はみな食事をとる。解脱者は食事をとりません」ということは成り立ちません。他にも、「一般人は老いる。解脱者は老いません」「一般人は死ぬ。解脱者は死にません」のように、成り立たない比較もたくさんあります。お釈迦さま在世の頃、失礼にあたる言葉を常に使う出家がいたのです。丁寧で優しい言葉を使うのは出家の決まりでしたから、比丘たちがこの問題を釈尊に訴えたのです。しかし釈尊は、その訴えを却下しました。理由は、その比丘は解脱に達しており、こころは清らかですが、きつい言葉を使う過去生の癖が残ってしまった、というものです。ですから、一般人の判断で聖者か否かを決めてはいけないのです。
俗人に「味方を増やすこと」が不可欠
解脱に達していない人々に、必ず存在欲があります。存在欲がなければ、生きていられません。俗世間の方々は、生きていきたいという衝動で必死に努力しているが、解脱に達したいという衝動は生まれません。俗世間の人々には、存在欲のないこころを理解することすらできません。存在欲とは、なんとしてでも自分の命を守りたい、という気持ちです。命を守るために、生命は二つのことをやらなくてはいけないのです。一番目は、「味方を増やすこと」と名づけてみましょう。命は儚いものです。あっという間に壊れて死ぬのです。ですから、常に命を支えてあげなくてはいけないのです。呼吸する、食事をとる、衣服を身にまとう、薬を飲む、住居を得る、仲間をつくる、環境を選ぶ、知識・能力などを身につける、などなどをしなくてはいけないのです。
「敵を攻撃すること」も欠かせない
二番目は、「敵を攻撃すること」と名づけておきましょう。自然界では、命を支えてくれるものはわずかです。命を危険に晒すもので溢れているのです。植物はたくさんあるが、わずかな植物しか食べられません。空気は欠かせない味方ですが、台風・竜巻などの場合は敵にまわります。水も欠かせないものですが、洪水・津波などの場合は敵にまわります。仲間や家族が敵にまわることもあります。それらと違った敵もいるのです。空き巣に入る泥棒、引ったくり犯人、敵対する国の人々、不倶戴天の敵、などなどもいます。味方を増やすだけでは生きていられません。敵を排除する努力もしなくてはいけないのです。
存在欲と恐怖感から派生する欲と怒り
「生きていきたい」という存在欲は、天が与えた恵みではなさそうです。存在欲は、ただ ではありません。絶えず苦労することで、やっと成り立つものです。少々の手違いで、すべてが崩れるのです。存在欲と敵に対する恐怖を維持管理するために、自我・自分という概念を使うのです。存在欲がなければ、自我という意識もなくなるのです。すべての生命が持っている「敵を排除しなくてはいけない」という気持ちを参考にして、お釈迦さまは解脱に達した聖者のこころの中身を語られるのです。生命が本能として持っている存在欲と恐怖感には、日常それほど気づきません。我々が知っているのは、存在欲と恐怖感から派生した「欲と怒り」なのです。解脱に達したとは、存在欲がなくなった、ということです。言い換えると、生きることに対する執着が消えたのです。生きる競争に負けて、自殺願望を抱く失敗者の気持ちとは違います。存在欲は成り立たないと、解脱者は智慧によって発見しているのです。解脱は成功者のゴールで、自殺願望は敗者のゴールです。
怒りと怯えの違い
生命の本能である恐怖感は、怒りと怯えに変身します。自分の命の味方にならないものに対して、怒りを抱きます。味方にならないものが自分より強い存在だと知る場合は、怯えを抱きます。津波・地震などについて怯えを感じます。自分に迷惑をかける人々に対して、怒ります。なぜならば、攻撃できるからです。我々は怒りと怯えを感じるたびに、このポイントを思い出したほうがよいのです。この煩悩も混乱する場合があります。攻撃できる相手ではないのに怒りを抱いたり、自分より弱い相手なのに怯えを抱いたりするならば、煩悩が混乱しているのです。普通の煩悩も苦しみの原因になるのに、混乱した煩悩は人の精神状態を壊して、発狂させてしまうのです。
武器を持つ習慣
解脱に達した人には存在欲と恐怖感がないので、怒りと怯えは成り立たないのです。日本ではあまり見られませんが、世間の人々は護身用の武器を持っています。護身用の武器を持ちたがる気持ちは皆にあります。日常使わなくとも、野生の動物が住んでいる森に入る場合は、護身用の武器を携えるのです。武器を携帯したくなるのは、敵を攻撃するためか、自分を守るためです。日本のように犯罪が少ない平和な社会であっても、精神的に一般人なので、武器を携帯したいという気持ちはあるはずです。しかし、武器は手に入りません。その分、かなり不安になります。家にセキュリティ・システムでもつけようと思うのです。子供に防犯ブザーを持たせるのです。
武器を持たない精神
相手が強い生命であれ、弱い生命であれ、聖者は武器をもつ気持ちから離れているのです。存在欲がないから、武器をもつこと自体が無意味なのです。身を守るためこの世に現れている様々なややこしいカラクリは、聖者には要らないのです。存在欲がないから、聖者にとって他の生命は味方でも敵でもありません。ただの生命です。聖者は、たくさんの味方をつくろうという努力も、敵を排除しようという努力もしないのです。聖者にとって自分の身体は、自然の他の物質と同じものです。自分の身体、という気持ちもありません。こころも、ただの認識作用を行なう働きに過ぎません。自分のこころ、という気持ちはないのです。「自分」という気持ちが消えたら、相対する「他人」という気持ちも消えます。この状況を俗世間の人々に理解できるように語るならば、「聖者はすべての生命に対して武器を持つことは致しません。生命を殺したり、殺させたりすることは一切ないのです」という言葉になります。
生命に優しいだけでは足りません
ダンマパダの四〇五偈で言っている「聖者は他の生命に対して武器を持たない。他の生命に害を与えたり与えさせたりしない」という言葉は、一般常識的に理解してはいけません。俗世間でも、武器を持たない人々は相当います。他人に害を与えない優しい人間も相当います。それだけでは、解脱者になりません。存在欲と恐怖感を断って、その二つの感情をまとめる自我という錯覚を破って初めて、こころから敵・味方という区別が消えるのです。武器を持つ、害を与えるとは、聖者のこころの中に決して現れない、意図的にでも惹き起こすことができない感情なのです。
覚ったと公言するために自我が必要
解脱に達した聖者は、「覚った、覚った」と言いふらすことは決してしません。自我をなくしたので、「われは覚った」という気持ちは成り立ちません。自我の錯覚が破れたならば、それを知っているのです。自分が実在する、他人が実在する、という気持ちは消えたので、それも知っている。生命は味方でもなく敵でもないので、それも知っている。こころに煩悩がないことだけではなく、煩悩は生まれるはずもない、ということも知っている。聖者のこころは、このようなものです。聖者のこころの中に、「私は覚っている」という概念はないのです。一般の方々にとって、聖者探しは容易いことではありません。
今回のポイント
- 覚醒したという公言を鵜呑みにしてはいけません
- 解脱の真偽を問う方法を学びましょう
- 俗世間には存在欲と恐怖感が不可欠です
- 解脱者に味方も敵もいません
- 解脱の公言は成り立ちません