パティパダー巻頭法話

No.262(2016年12月号)

言葉の使い方

言葉でこころの状態を読める Right speech is a product of pure mind

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Akakkasaṃ viññāpaniṃ
    Giraṃ saccamudīraye
    Yāya nābhisaje kañci
    Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ.
  • みやびに語り明確に 真理を伝えそれにより
    いかなる人も傷つけぬ そをバラモンと我は説く
  • 訳:江原通子
  • (Dhammapada 408)

野卑な言葉

お釈迦さまの時代に、 Pilindavaccha(ピリンダワッチャ)という大阿羅漢がいました。
この方は、他の人を呼ぶときに「下郎」なる言葉を使っていました。出家同士では、敬語を使うのが普通の習慣です。ピリンダワッチャ長老は、同じ出家者に対しても「下郎」と呼んでいました。品のない言動は、出家として規則違反です。出家比丘たちがこの問題をお釈迦さまに訴えたことから、長老は釈尊の前に呼ばれました。
ピリンダワッチャ長老は、皆を「下郎」なる単語で呼んでいる事実を認めたのです。お釈迦さまは、この方が阿羅漢果に達した聖者だと知っていました。そこで、阿羅漢にもかかわらず悪い言葉の癖が抜けない理由を探るため、ピリンダワッチャ長老の過去生を観たのです。この方は、過去五百回も続けてバラモン・カーストの人間として生まれていました。最高のカーストだと自負するバラモンたちは、他のカーストの人々を見下した言葉で呼ぶのが常識でした。ピリンダワッチャ長老も、ただ過去生の癖で「下郎」という単語を使っていたに過ぎませんでした。こころに煩悩は一切ないので、他を差別する気持ちもまったく持っていなかったのです。
お釈迦さまが判決を下します。ピリンダワッチャ長老には、「下郎」なる言葉遣いを改めるのは難しい。過去生からの癖でもあるし、本人にとっては単純に「あなた」という意味以外なにも含まれていないのです。ですから、言葉の表面的な意味で受け取らないでください。言葉の形式より、持っている意味のほうが大事です。

言葉の道徳

今月は、言葉に関するお釈迦さまの教えを学んでみましょう。経典には言葉の使い方について沢山の教えがありますが、今回の説明はダンマパダ四〇八偈の内容に絞ります。
この偈を理解するためには、エピソードだけ参考にすると問題が起きるのです。人間が粗悪語を使うとき、「過去の癖だからしようがない」で済ませてしまう危険性も出てきます。ひとは言葉を自由にしゃべってはいけないのです。言葉の使い方にも道徳があります。嘘・粗悪語・噂・無駄話をしてはいけないのです。悪語であって、悪行為になります。真実を語る、優しい言葉を使う、有意義な言葉を語る、社会の和合と調和を保つ目的で語る、などなどの戒めを守ることによって、こころが成長して清らかになっていくのです。ピリンダワッチャ長老のケースを、私たちの言い訳に使ってはいけません。お釈迦さまは私たちに、もっと別なポイントを教えているのです。

言葉の表裏

言葉は基本的に二種類の意味を持っています。
Denotation(文字通りの意味)とconnotation(暗示する意味)です。言語の発達とは、 connotationの発達を言うのです。
「匂う」とは、鼻で感じることが文字通りの意味(denotation)です。しかし、「疑いを感じる」という意味で「匂う」を使う場合もあります。
Connotationで単語の意味を拡張しているのです。言葉の達人と称えられる人々は、connotationの達人です。私たちも、人の話を理解するときには気をつけなくてはいけないのです。
文学世界では、言葉の使い方に徹底的にこだわります。私たち一般人も、文学者ではないにも関わらず、単語を自由に使います。文字通りの意味だけで単語を使うのは、幼稚的だと言っても構わないのです。科学者さえ、新しい用語を作る場合は文学的なシャレを考えるものです。ひとの話を聞く場合は、相手がどんな意味で単語を用いているのかと気をつけないと、意味が解らなくなったり、誤解したりします。外国人が敬語を使って日本語をしゃべると、日本人は笑ってしまいます。なぜならば、敬語の微妙なニュアンスを外国人がまだ理解していないからです。また、日本語しかしゃべれない日本人のなかにも、言葉を上手に使う人と、場違いの言葉を使う人との差があるのです。外国語を学ぶのが得意な人でも、一週間二週間程度では言語の達人になれません。言語のエキスパートになるのが簡単ならば、人類は皆、軽々と文学者になっているはずです。

言葉と脳の関係

脳には言語を管理する場所があるようです。ひとは他人に自分の気持ち、感情、考えたこと、経験したこと、などなどを伝えたいのです。しかし、感情、気持ち、経験したこと、などなどには言葉がないのです。そこで、言語野に溜まっている単語を当て嵌めていかなくてはいけなくなるのです。しかも瞬時にそれを行なう必要があるのです。言葉には、語順、文法などの規則もあります。その規則にも従わなくてはいけません。だから当然、話が上手な人も、下手な人も現れます。支離滅裂なことをしゃべっているにも関わらず、相手を巧みに納得させてしまう言葉の魔術師たちもいます。(これは悪行為です。)大事な内容を話しているのに、表現力が乏しいがために、聴衆から無視される人々もいます。「言葉の癖を直すのは容易いことではない」と理解してほしいのです。

喋る人、聞く人

他人に理解できるように話すのは話し手の義務ですが、そうはうまくいかないものです。成否は、本人の言語能力によって左右されるからです。聞く立場の人々にも、相手が語る言葉から、伝えようとしている意味を調べる義務があります。要するに、理性と区別能力を持って他者の話を聞くことです。先生方は、生徒たちに一生懸命教えようとします。しかし、先生が言葉の達人でない場合(ほとんどのケース)、生徒たちは集中して聞かないのです。それどころか、授業の邪魔をするのです。結果として、生徒たちは何も学ばずに時間だけ無駄にしてしまうはめになります。相手が言葉の達人だからといって、無批判的に話に乗ってはいけません。相手の言葉遣いが下手だからといって、話を聞かないで無視するのもよくないのです。自分の人格向上に役立つ話を、自分自身の宿題として受け取って、理解することが肝心です。何を聞き入れるべきか、何を聞き流すべきか、というフィルターを持つことが欠かせないのです。
完全に語ることのできる能力は、正覚者たるお釈迦さまにだけ備わっている特徴であって、他の人間は言語能力の完成に程遠いのです。ですから、我々は「完全に納得できるように喋ってほしい」と他人に期待するのを考え直すべきです。聞く人のほうにも、宿題があるのです。

言葉遣いと文化

言語と文化は一緒です。文化とは、人々の生き方であり価値観なのです。その文化に合わせて、言葉の使い方も変わるのです。世界中で広く使われている英語には、方言がたくさんあります。日本語をしゃべる日本にしても、関西弁、東北弁、広島弁、博多弁などがあれば、標準語もあるのです。関西弁ならば表現できる様々な意味を、そのまま標準語で表現できないケースもあります。人間はどちらかというと、自分が生まれ育った地方の方言を使いたいのです。そのほうが気持ちをしっかり伝えた、という気分になれるからです。それから、しゃべる人にとっても苦労しないで話せます。ピリンダワッチャ長老のケースは一般的ではありませんが、あえて一般化してみましょう。長老の方言では、「あなた・君」を意味する方言は「下郎」だったのです。そうすると、愛情いっぱいで相手を呼んだことになります。しかし常識的に考えると、「下郎」とは差別用語で、他人に対して使うべき言葉ではないのです。
言語は脳の工場でつくられる製品です。資源は、感情・価値観・経験・アイデア・インスピレーションなどなど、言葉にならないものです。もしも心が貪瞋痴で汚れているならば、悩み苦しみで病んでいるならば、資源の品質は劣化します。資源の質が悪ければ、当然、言語工場の製品の品質も落ちるのです。結果として、怒っていないのに怒ったときに使う言葉を使ったり、「そんなことは止めたほうがいいでしょう」と言いたい気持ちを伝えるために「お前はバカか」などの侮辱語を使ったりするはめになるのです。単語を connotation (暗示する意味)で使うのは人々の能力であり、讃嘆するべきことです。そ うではなく、使うべき言葉を間違ってしまう場合もあるのです。言葉を間違えるのは、心が混乱している証です。また、人格に問題があるときも、間違った言葉を使うのです。

美しい言葉は清浄なこころから生まれる

お釈迦さまの指導に基づいて修行して、煩悩を絶った人は解脱者です。こころが完全に清らかになっているので、感情の問題も、思考の問題も起こりません。修行すると脳も徐々に開発されます。脳の開発は解脱ではありません。こころの煩悩を絶つことが解脱です。ですから、解脱者に脳の機能的な問題があるはずはないのです。解脱者の言葉は、スマートです。

Akakkasaṃ ――洗練されている。意味がしっかり含まれているから、相手に通じるのです。相手の心がよくわからない、と困るはめにはならないのです。

Viññāpaniṃ ――明瞭である。自我の錯覚が消えているから、自と他の差も、解脱者に はないのです。自我の錯覚があるゆえに、相手の心を傷つける気持ちが起こるのです。
ですから、解脱者の言葉には、相手の心を傷つける語は一切入らないのです。

Nābhisaje kañci ――いかなる人も傷つけない。もし、人の言葉がこのような性質を持っているならば、その人は真のバラモン(聖者)であるとお釈迦さまは説かれます。要するに、正しい言葉を使える能力を身につけるためには、心の汚れを落とす必要があるのです。

阿羅漢たるピリンダワッチャ長老は、果たして品のない言葉で他人を呼んだのでしょうか?
過去生の話を持ってくると、宗教的な解釈になります。私はピリンダワッチャ長老が生まれ育った環境の方言のせいだ、と解釈したほうが良いのではないかと思います。この解釈の差は、日本語の方言と比較してみると理解できると思います。ある地方で乱暴な言葉と受け取られる単語も、別な地方では愛語として受け取られる可能性があるのです。
言葉の表面的な意味に足を引っ張られないように気をつけましょう。相手が伝えたい気持ちはなんなのかと注意をして、人の話を聞くようにしなくてはいけないのです。

今回のポイント

  • 言葉は表・裏という二つの意味を持っています
  • 表現したい気持ちと言葉は完全には一致しません
  • 正しく話すだけではなく、正しく聞くことも必要です
  • 言語を完全に正しく使えるのは正覚者だけです