パティパダー巻頭法話

No.285(2018年11月号)

こころを閉ざす見解のアリ地獄

見解の罠を破って覚醒者になる Abyss of views

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Appaṭividitasuttaṃ(SN 1.7)
不洞察経(相応部 1.7)

  • Sāvatthinidānaṃ.
    Ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā bhagavato
    santike imaṃ gāthaṃ abhāsi –
  • サーワッティ因縁。
    一方に立ったその神は、世尊の近くでつぎの偈を唱えた。
  • ‘‘Yesaṃ dhammā appaṭividitā, paravādesu nīyare;
    Suttā te nappabujjhanti, kālo tesaṃ pabujjhitu’’nti.
  • 「諸法を洞察することがなく 他の諸説に導かれ
    眠り、目覚めることがない かれらは今や目覚める時なり」と。
    (世尊は言われた)
  • ‘‘Yesaṃ dhammā suppaṭividitā, paravādesu na nīyare;
    Te sambuddhā sammadaññā, caranti visame sama’’nti.
  • 「諸法をよく洞察し 他の諸説に導かれない
    正しく覚り、正しく知る かれらは難路を平らかに行く」と。
  • 和訳 片山一良
    『パーリ仏典 第三期1 相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇I』
    大蔵出版より ※一部改変

見のアリ地獄

解脱を語るとき「見diṭṭhi」という言葉は否定的に使われます。しかし、八正道の第一項目は「正見sammādiṭṭhi」です。ここで正見といわれるのは、世間にあるすべての見解は人を解脱に導かないからです。ですから、世間の見解は簡単に「邪見micchādiṭṭhi」と呼ばれるのです。「見」といえば、見解・意見・データに基づいて達した結論・人の考え・ものごとを考える時ベースに使う概念などなどの意味で用いられます。科学的に立証された概念はたくさんあります。それらは人に害を与えるものではありません。「善因善果、悪因悪果」という法則は、科学的にを立証することはできません。かといって、科学者なら道徳観は関係ない、道徳に束縛される必要はない、という意見を出したら、人間にとって迷惑になるのです。それは邪見だと言わざるを得ないのです。

見解から自由になることは、人にはとても難しいのです。他人が自分に質問したと仮定しましょう。「世界で一番幸福な国はどこですか?」「一番豊かな国はどこですか?」そのような問いに、おそらく答えることは可能でしょう。しかし、それは自分の見解です。一番豊かな国とはどこか、ということを自分の価値判断で決めなくてはいけないのです。豊かさをどのように理解するのかは、人それぞれ違います。訊かれていることが、「今日は何曜日ですか?」だったら、誰にでも正しく答えられると自信を持っていえるでしょう。しかし、「何曜日か?」ということは人間が勝手に決めた概念に過ぎません。見解のない人にとっては、今日は何曜日でもないのです。「もう一つの日」というだけです。見解・判断・考え・自分の気持ちなどなどを使って、われわれは毎日生きています。瞬間瞬間、ものごとを判断しないで生活することは不可能なのです。

だからこそ、人々は見解を大事にするのです。より優れた見解を作るために、努力までします。そして、見解に執着するのです。自分の見解が攻撃を受けたら、怒りを抱きます。戦いに赴き、あるいは自己弁護を始めるのです。一日は昼と夜に分けられます。それは見解ではない、と思っているかもしれません。しかし、太陽がなかったら「昼と夜」という区別が消えるでしょう。「一日」という考えさえ、人間が作った見解なのです。ここで理解してほしいのは、「見」は私たちの人生と不可分であるということです。もっとも、あまり気にせず、そのまま使っても何の危険もない見解は無数にあります。ですから、「今日は何曜日でしょうか?」と訊かれたら、ちゃんと答えてください。「私は見解を使わないので、今日は何曜日かということは関係ない」などと述べて、笑いものになる必要はないのです。

見解とは、アリ地獄のようなものです。生まれてきた赤ちゃんに、親がさまざまな見解を順番に教えるのです。子供はその見解を、生きるために使います。それから、自分がいま持っている見解を土台にして、新たな見解をつくるのです。これは死ぬまで、続く営みです。自分の人生のなかで、見解は次から次へと変わっていくが、人はそれに気づかないのです。「いまの見解が正しい」と、愛着と執着を作るのです。自分が正しい見をもっているのだと威張ってはいるが、一週間くらい経ったら、その見解も変わっている可能性がおおいにあります。それでも、「自分は正しい見解を持っているのだ」と言い張るのです。見解から抜けよう、抜けようとしても、結果として、もっとキツイ見解に陥るはめになるのです。

喧嘩の火種

見解は喧嘩の火種です。自分の見解は自分の主観に過ぎません。他人には他人の主観があるのです。主観は決して同一にはなりません。私たちは必死で、自分の見解と似た見解を持った人々を探しています。ある程度、似た見解の人々がグループを作るのです。仲間というグループを作っても、真の和合は成り立たないのです。みな似た意見を持っていても、それぞれ個人の意見は他の意見と違っているからです。見解に執着することは、恐ろしい結果を生み出します。昔の西洋人は。「白人こそが優れている」という見解を持っていました。そのため、黒人を人間扱いしなかったのです。黒人の奴隷は、鶏・馬・牛と同じく家畜財産として扱われました。世界大戦が起きたのも、見解の結果です。いま世界に蔓延る戦争も、それぞれの見解に執着して、「我こそが正しい」と思っているから続いているのです。夫婦喧嘩・兄弟喧嘩なども、見解を原因にして起きます。小さな子供たちも喧嘩します。その場を観察してみてください。喧嘩する子供は、各々の見解にしがみついています。譲り合いなんかは、子供にできないのです。見解のせいです。人間の世界がハチャメチャになっているのは、みな自分の見解にしがみついているからなのです。見解を大事にする限り、この世には平和も和合も安全もないのです。

危険な見解

証拠のない見解、立証不可能な見解は、すべて危険な見解であると理解したほうが早いのです。面白いのは、危険な見解に対する執着のほうが、無害な見解に対する執着よりもはるかに強いことです。「わたしとは何ぞや?」という疑問に、人々は自分勝手な見解を作ってきました。人間はふつう、「自分こそ偉いのだ、自分こそ一番大事な存在だ」と思っているので、「わたしとは何ぞや?」という疑問に対して、自分を過大評価する見解を作りだすのです。「あなたは神の子である」「あなたは神からの預かりものです」「あなたには仏性がある」「あなたは大日如来の分身だ」などなどと言われると、ずいぶん気分が良いことでしょう。これらの見解を「あなたは地球に現れた生ゴミだ」という見解と比較してみてください。後者の言葉を聞いただけでも、すでに腹が立っていると思います。否定したくて、攻撃したくて、仕方のない気分になっているはずです。

世にある宗教のすべては、「わたしとは何ぞや?」という問いから考え出された様々な見解なのです。自分の存在を過大評価していることは見え見えです。自分の見解こそが正しいと思っているので、違う見解を持っている人々を裁きたがるのです。攻撃して、潰したがるのです。現実的に可能ならば喜んでやりますが、それにも限度があります。ですから、異教徒や神を否定する輩のために、「永遠の地獄」まで作ってあげたのです。

宗教の話になると、証拠は何ひとつもないにもかかわらず、森羅万象の創造物語、唯一の神の物語、または神々の世界の物語、などが次から次へと現れてくるのです。自分についても、魂は永遠であること、死後の魂はどうなるのか、といった物語が現れてくるのです。「魂がある」「私がいる」という概念は、宗教と関係なく皆が共通的に持つ見解です。インドの宗教の世界では、魂があるだけではなく、魂の姿かたち・性質・汚れ具合・清らかにする方法、魂が最終的に達するべき目的、などなどについて詳しく語られるのです。しかし、証拠はひとかけらもありません。だから、肯定することも否定することもできなくなるのです。たとえば、「神は最初からも存在する」「神がすべてを創造する」この見解をどのように肯定すればよいのでしょうか? どのように否定すればよいのでしょうか? また、「神様があなたを創造しました」この見解を否定できますか? 肯定できますか? 宗教の諸々の見解に、証拠はないのです。否定・肯定が成り立つのは、いくらか証拠に基づいて作られた見解だけです。たとえば、①納豆とご飯だけ食べればガンが治る。②納豆とご飯だけ食べればガンになる。この二つの見解についてなら、たとえ結論に達することが無理でも、否定・肯定を論じられる範疇には入るのです。

感情と主観だけで現れる宗教哲学に、人は強烈に執著します。その執着を「絶対的な信仰」という言葉で上塗りしているのです。これは、マインドコントロールと洗脳以外のなにものでもありません。人類の歴史の中で、宗教は戦争も惹き起こしてきました。人種差別も正当化してきました。そして、信じる者/信じない者に、人類を二分化してきました。だから、仏教的に「危険第一の見解」とは、諸々の宗教が語る存在論になるのです。

見解と真理

見解とは主観です。主観を作るために、データがあってもなくても構いません。「キャビアは贅沢な食べ物で、さすが美味しいものでしょう」という見解を作るために、必ずしもキャビアを食した経験は要らないのです。自分で食べたことはなくても、マスコミから流れる薀蓄データに基づいて見解を作ることができます。証拠を調べて、見解が正しいという結論に達することができれば、その見解はもう主観でなくなります。他人にも同じ見解を作ることができるのです。ですから、見解のアリ地獄から抜けたければ、「試してみる、調べてみる」という手段が必要になります。たとえば、「地球は丸い」という見解を主観として持つこともできるし、「丸い」と言うための証拠を調べて、「地球は丸い」という結論に達することもできるのです。地球の形が見解だけで語られていた時代に、誰かが「地球は丸い」と言ったならば、彼の命は危なかったのです。いま、証拠がじゅうぶん揃ったから、「地球は丸い」という概念が見解から真理になったのだと言っておきましょう。現在の世の中で、地球の形について議論する人、喧嘩する人、裁かれる人は一人もいません。「地球は丸い」とは、もはや見解ではないのです。このテーマについて、われわれは見解から解放されました。同じように、「客観的に調べると、生きるとはどうなっているのか?どのような仕組みなのか?」と探求するならば、人はすべての宗教から、すべての信仰から、解放されるのです。しかし、問題もあります。証拠のない主観的な見解に対する執着は、強烈です。だから、調べてみる気にならないのです。見解を破る人は、偉大なる人格者になります。見解がないところにあるのは、真理です。

女神の問い

ある女神が、釈尊が真理に達したことを知ったのです。その女神は、さまざまな見解に嵌められることで、人々が悩み苦しみに陥っていること、争いが絶えないこと、だれが正しくて誰が間違っているか決して判断できないこと、を分かっていたのです。「真理を知ったならば、生命はみな楽になるのではないか」と思った優しい女神です。彼女は、釈尊にこのように尋ねます。

‘‘Yesaṃ dhammā appaṭividitā, paravādesu nīyare;
Suttā te nappabujjhanti, kālo tesaṃ pabujjhitu’’nti.
真理を発見できなかったので、人々は他の諸説に導かれていたのです。
(見解の罠に嵌っている)彼らは、眠っていて目覚めないのです。
(真理を発見されたので)いまこそ、彼らの目覚める時間です。

少々、解説します。自分の意見が正しいと思っていることを、「寝ている」という言葉で表現しているのです。私たちは何かの意見が正しいと執着すると、他のデータを取り入れなくなります。こころを閉ざすのです。見解に凝り固まったら、抜けることは不可能と言っていいほど難しいことになります。見解を作ったら、その人はその見解をさらに強めるデータしか受け入れないのです。マンガが好きな人は、マンガ本だけ探す。恐怖映画が好きな人は、恐怖映画ばかり探し求めて鑑賞する。わかりやすいでしょう? 宗教に否定的な人は、信仰に徹している人と付き合いません。その代わりに、宗教を否定する人々の仲間に入るのです。見解を作ったら、それでこころが閉鎖状態になります。女神は、「宗教家は見解に閉じ込められて寝ているのだ」と言うのです。

釈尊の答え

お釈迦さまは、女神の問いにこう答えます。

‘‘Yesaṃ dhammā suppaṭividitā, paravādesu na nīyare;
Te sambuddhā sammadaññā, caranti visame sama’’nti.
真理を見事に発見して、人々が他の諸説に導かれていないならば、
覚醒者になるのです。ものごとを正しく知る彼らは、
混乱した世界で安穏に生きるのです。

解説しましょう。見解は頼りにならないので、真理を発見する努力をします。ものごとをありのままに観察するのです。観察する場合は、決して他人の見解と自分の主観に頼らず、客観的に観察するのです。そこで、「生きるとは何ぞや?」という問いに対する正解を見出すのです。要するに、真理を発見するのです。真理を発見したならば、人の見解を参考にすることも、人の見解に導かれることも、終了します。要らなくなるのです。いかなる見解であっても、根本的に主観であるを発見したからです。真理に達したから。覚醒者になったのです。見解のない覚醒者たちは、世の中のことをよく知っています。生命は無数の見解を持っているので、主観に凝り固まって生活しているのです。主観は一人ひとり違うものです。同一の主観はありません。そのために、世の中は混迷を極めているのです。安穏・平安はないのです。ここで「世」というのは、生命のことです。要するに、「生命の間に平和・調和・安穏・平安は成り立たない」という意味です。安穏・平安が成り立たない世界で、覚醒者のみが安穏に住むのです。

見解のアリ地獄から抜け出すことが、解脱なのです。

今回のポイント

  • ひとは見解に基づいて生活する
  • 見解は次から次へと見解を生み出す
  • 見解は人の主観です
  • 似ることはあっても、同一の見解はない
  • 見解に導かれる世は混迷を極めている
  • 解脱者は見解の罠から抜ける