No.286(2018年12月号)
意見は異見を生み出す
真理を知らない人は異見の迷路を彷徨う Mind is tethered to views
今月の巻頭偈
Susammuṭṭhasuttaṃ(SN 1.8)
迷乱経(相応部 1.7)
- Sāvatthinidānaṃ. Ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā bhagavato santike imaṃ gāthaṃ abhāsi –
- サーワッティ因縁。一方に立ったその神は、世尊の近くでつぎの偈を唱えた。
- ‘‘Yesaṃ dhammā susammuṭṭhā, paravādesu nīyare;
Suttā te nappabujjhanti, kālo tesaṃ pabujjhitu’’nti. -
真理に迷乱し 他の諸説に導かれ
眠り、目覚めることがない かれらは今や目覚めるときなり」と。
(世尊は言われた) - ‘‘Yesaṃ dhammā asammuṭṭhā, paravādesu na nīyare;
Te sambuddhā sammadaññā, caranti visame sama’’nti. -
「真理に迷乱することがなく 他の諸説に導かれない
正しく覚り、正しく知る かれらは難路を平らかに行く」と。 - (和訳 片山一良『パーリ仏典 第三期1 相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇I』大蔵出版より ※一部改変)
女神のお告げ
ある女神が、お釈迦さまを訪ねました。そして、このような「お告げ」をしました。
真理に迷っている人々は、異説に導かれている。
それらを聞く彼らは、決して目覚めることはないのです。
もし目覚めたいと思うならば、いまがその時期です。
女神は「迷い」という意味で、susammuṭṭhāという単語を使ったのです。「異説」と訳したのは、パーリ語のparavādāという単語です。
真理に迷う
真理は隠れていません。昼、力強く輝く太陽のように、明確にはっきりしているのです。それなら、なぜ人々は真理に迷うのでしょうか? それは、自分と周りに対して、正しく気づかないからです。正しく観察しないからです。ひとびとは、眼は開いていても、見ていないのです。見ているという錯覚を惹き起こしているだけです。聴く場合も、嗅ぐ場合も、味わう場合も、触れる場合も、考える場合も、同じ現象です。考えているつもりですが、考えていない。ゆえに、頭のなかには無数の意見・見解が現れるのです。
「眼を開いていても見てない」という言葉の意味を説明します。何かを見ているとき、見たという認識を作るために、こころを過去の情報に持っていくのです。あるいは将来の情報――将来の情報は知ることはできないから、その代わりに自分の希望を代入する。われわれは、人の希望を将来だと思っている――に持っていくのです。眼に入った情報を、過去か将来という厚い膜で覆ってから、見たことにするのです。結局のところ、覆った膜を見ただけです。眼に入った情報は何なのかと、知らないのです。
あなたは、「春」を知っていますか? 知っていると思っているに違いありません。では、春について一言でいってみてください。それは決まって、他人の言葉と合わないのです。ということは、あなたの頭の中に、あなただけに限った「春」があるのです。季節が春に変わっても、あなたは自分の頭の中の春に住んでいる。ゆえに、私が「春」を知っていますか、と問うたところで、「知っています」という答えは間違いなのです。「知らない」と答えたならば、まだマシです。あるいは、「あなたがいう『春』とは何を意味しているのですか?」と私に問い返して、確かめたほうがよかったのです。これは、春だけの問題ではありません。われわれが使うすべての概念に対して、「主観を入れて正しく理解しない」という、膜で覆い隠す作用が起こるのです。
別な場面を考えましょう。私が何かを指して「これはなんですか?」と訊く。あなたは、「これは花です。バラの花です」と答える。ありのままの事実を語ったという自信もあります。しかし、あなたは自分のこころの中にあった過去に経験した「バラ」という膜で、目の前にある物体を覆い隠しているのです。言葉を変えると、あなたのこころが過去に走っているのです。老舗のウナギ屋さんに行って、ウナギを食べようと思って、そのお店に行っても、あなたはその店で出されるウナギを食べているのではなく、自分の頭の中にあった妄想世界が作った幻覚のウナギを食べて味わっているのです。幻覚のウナギの味が、いま舌に触れている味より気に入っていたならば、いま食べている食べ物は「期待したほど美味しくはない」と言うでしょう。幻覚のウナギより、現実に起きている味のほうが気に入ったならば、「これこそウナギだ。本物だ。なんて美味しいんでしょう」などなどのわめき声をあげるでしょう。
ひとの眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れるとき、起こる認識は、必ず過去か将来という膜に覆われているのです。そうでない場合は、貪瞋痴という感情の膜で覆われているのです。ですから、激怒しているときは、好物さえマズいのです。食べたくはないのです。
それが「真理に迷う」ということです。
異説の世界
真理の世界に、意見はないのです。たとえば、「地球の形は丸い」と言ったら、それが事実です。他と並列して論じるべき「意見」ではないのです。あなたの主観はどうでもよい話です。地球の形について、あなたには主観を語る権利すらないのです。次に、「地球はいつ滅びるのか?」と訊いてみましょう。それには限りなく、意見が現れます。宗教の世界から言えば、ヒンドゥー教の意見、キリスト教の意見、イスラム教の意見などなどがあるのです。天文学者には天文学の意見が、地球物理学者には地球物理学の意見があるのです。このように、「異見」はいくらでも現れます。ということは、誰一人も、いつ地球が滅びるのかと明確にわからないのです。いずれ、地球が滅びることは確かです。なのに、それがいつかとは分からないのです。
人間は、このような意見ばかりの世界で生きているのです。意見があるとは、「真理を知らない」という意味です。なぜ真理を知らないのかというと、眼耳鼻舌身意があるにも関わらず、見ていない、聴いていない、嗅いでいない、味わっていない、触れていない、考えていない、からなのです。いま・現在に生きているのに、知る瞬間にこころが過去か将来に逸れるのです。または、感情に逸れるのです。
ひとびとは、生きることとは何なのかと考えたのです。正しい生き方についても考えたのです。幸福を目指して生きるべきであるとも考えたのです。こうした考え自体も信頼できないが、その考えから、さまざまな宗教・信仰・修行などなどが現れます。それにはリミットがないのです。宗教・信仰ならばいくらでも湧いてきます。宗教も信仰も無いと思っている人々の頭のなかにも、限りなく意見が現れるのです。
ひとびとの人生は、自分の意見によって導かれています。その意見が、そもそも怪しいのです。意見があるとは、真理を知らないということです。どのような意見に導かれても、人は真理を発見しないのです。祇園精舎に降り立った女神は、この事実をお釈迦さまの前で発表したのです。「お釈迦さまが真理を発見したから、異見に導かれている人々にも目覚めるべき時期が来たのです」と。
仏典の神々
私たちは、「神」と言われた途端、さまざまな宗教で信仰されている神という妄想概念を覆いかぶせて理解してしまいます。時々、お釈迦さま直々の教えにも関わらず、その経典に現れるキャラが神々だという理由で、経典まるごと軽く扱われるケースもあります。
神とは、「人間にご利益を与えてくれる、人間の限りの無い欲望に応える、人間を災難・災害から守ってくれる存在だ」と信じられています。この考えを違う角度で見てください。神々って人間の奴隷でしょうか? 人間に雇われている警備会社でしょうか? あるいは人間に財産・恵みを与えてくれる使用人でしょうか? 「神々を尊敬している」という割に、人々は神々のことをあまりにも非難・侮辱しています。あまりにも軽視しているのです。神は偉大なりと謳いつつ、神をバカにしている。神の名のもとに、人々を裁いたり、殺したりまでするでしょう。神は全知全能なのだから、殺したい人がいれば自分でそれを実行するでしょう。「神を冒涜した」と言って誰かを殺す場合は、その人こそが神を冒涜しているのです。
日本文化の神々は、怖い存在ではありません。しかし、日常茶飯事に起こるさまざまな問題を解決してくれる存在でしょう。ということは、日本人も神々を自分たちの使用人にしているのです。今月の経典でお釈迦さまと対話している女神は、すぐれた智者であることが理解できると思います。決して、人間に恵みを配るアホな存在ではないのです。人間に、「目覚めなさい。いまがその時期ですよ」と、告げているのです。初期仏教の経典に出てくる神々は、ブッダの教えを実践している仏教徒の仲間なのです。人間を守る警備会社の社員たちではなくて、人間と一緒に修行する同行者なのです。しかし、瞑想実践で解脱に達するというポイントから考えると、人間のほうが条件はそろっています。覚りを目指す神々の立場から見れば、人間のほうが羨ましい存在なのです。
真理に迷わない
ものごとを認識するとき、過去と将来という膜を外して、いまの瞬間、眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法のデータを認識しなくてはいけないのです。しかし、これは人間にたやすいことではありません。そのための訓練をしなくてはならないのです。それは「気づき」の訓練です。言葉を変えれば、ありのままに観察してみる修行なのです。
論理的には、いたって簡単なことです。でも、実行しようとすると、これほど難しいことは他にないのです。わかりやすく説明します。「気づき」の訓練、ヴィパッサナー瞑想を実践するとき、思考・妄想を停止して、実況中継しなさいと言われているでしょう。やってみたところで、結果は如何でしょうか? 瞑想実践するつもりが、妄想実践することになってしまうでしょう。いくら妄想を控えようとしても、わずかな不注意で洪水のように妄想が入り込む。だから、あきらめず、実践し続けなくてはいけなくなるのです。「真理に迷わない人」とは、妄想を完全に遮断できて、色声香味触法という情報をありのままに認識できる人のことです。その人のこころから、意見が消えます。なぜならば、ありのままの事実・真理を認識しているからです。
なぜ難しいのでしょうか?
考える必要はまったくないと言えば、いたって簡単であるはずです。しかし、思考・妄想を止めるほど難しいことはありません。
第一のハンディは、過去のデータです。私たちは何かを理解するために、何かを認識するために、過去のデータが欠かせないと思っています。思っているというよりは、認識するプログラムに「必ず過去のデータを参照してから結論に達しなさい」というループが入っているのです。ゆえに、眼耳鼻舌身意にデータが入ると、そのデータを上述のループで回してから最終認識に行くのです。
たとえば、「花」とラベルを貼っている物体の色が眼に触れた瞬間に、過去のデータを参照するというループを回してから、「花」という認識を決定するのです。そのループで回さなかったならば、眼に触れた色は「花」という現象になるでしょうか? ふつうの人々は、眼耳鼻舌身意という六根に触れるデータを何回も何回もループに入れて回すのです。それで人間のあいだで、判断が早い人も、遅い人も現れます。ループでデータを何回まわすのかということによって、真理から遠ざかる距離も伸びるのです。
精神的な病気に陥っている人々がいます。その人々は、色声香味触法を限りなく、過去のデータを参照するループの中で回すのです。真理からあまりにも離れて、妄想と幻覚の世界に陥るのです。たとえば、「みな私の悪口ばかり言っているのだ」と言い張っている患者がいるとしましょう。私たちが、「あなたの悪口なんて誰も言ってないよ」といくら否定しても、相手にとっては「みな自分の悪口を言っている」ということは事実になります。本人にとっては、それが現実です。世間で常識的な人間だと言われている人々も、データを幻覚ループで回してから認識を決定しますが、回す回数が少ないのです。
簡単な例を出しましょう。日本人にとっては、刺身はごちそうです。外国人にとっては、生魚は気持ち悪いものです。どちらも、過去データのループを回して認識決定したのです。日本人が「刺身はごちそうだ」と外国人を説得することはできませんし、外国人が「生魚は気持ち悪い」と日本人を説得することも不可能です。こうした結果になるのは、人はそれぞれデータをあのループで回してから認識決定するためです。過去のデータを参照せず、純粋に認識する能力を身につけるためには、真剣に修行する必要があります。
第二のハンディは感情です。皆様が知っている貪瞋痴です。煩悩とも言います。煩悩とは、本能のようなものです。生命は煩悩を断ちたいと思わないのです。煩悩が苦しみをつくる原因になるのだと理解していません。喜怒哀楽があるからこそ、生きることは楽しいと思っている。そこで、六根に触れるデータを感情の鍋に入れて染めてから認識決定するのです。それも一つのループになっています。
このループの場合は特色があります。まず、感情のループを回してから、認識体制に入ります。先入観、固定観念という言葉に入れ替えてみると、理解しやすいでしょう。わかりやすい例を出します。友達同士の二人がいます。一人は日本人で、一人は外国人です。二人で「昼ごはんにしましょうか?」と話し合う。その瞬間、昼ご飯という概念を日本人が理解する場合は、和食のイメージが現れます。外国人には、別なイメージが現れるでしょう。先に貪瞋痴の膜を作って認識するのです。それから、認識決定したものに対して、新たな感情を作ってそれも感情のループに登録します。これは難しいポイントではありません。もともとバラの花が好きな人は、バラの花を見るたびに楽しくなるのです。バラの花に飽きることが無いのです。論理的に言えば、好きなことをやってしまえば、その「好き」という感情は消えるはずなのですが。
感情のループを回すと、データが歪曲されるのです。我が子に「うるさい!」と怒鳴るときは、この現象が起きています。我が子だから、大好きなはずでしょう。しかし、いまは感情のループで怒りが回転している。だから、子供の作る音がうるさくなったのです。別なときには、その同じ音から「元気な我が子」に対する愛着が生まれていたはずです。ですから、人が言う「あなたのことが大好きです。一生、あなたと別れたくはない」という言葉なんかは、決して当てになりません。ただ感情のループを回しただけの、歪曲された認識決定に過ぎないのです。
第三のハンディは、将来に対する期待です。人は過去の経験にも、現在の経験にも、完全に納得はしないのです。もっと良いものが無いのか、もっと良い結果を出せるのではないか、などなどの希望が現れます。そこから、頭の中でさまざまな現象を作り出すのです。その現象は「いま、無い」から、将来と言うのです。我が子を見て、「将来は立派な人間になるでしょう」と思うとき、自分の子供の将来が見えたわけではないのです。自分の頭にあるあいまいな「立派な人間」像を、いま目の前にいる子供に被せてみただけです。将来という膜に覆われたときも、データが歪曲されます。
これらのハンディは、私たちの認識決定プログラムにループとして組み込まれているものです。修行して、そのループを解除しない限り、ありのままの真理を発見することはできないのです。そのループを外して、直接、色声香味触法のデータを認識できる人は、ありのままに認識しています。データは歪曲されていないのです。ということは、真理を知っているのです。
異説に導かれない
真理を経験しない限り、意見が現れます。意見に頼ります。意見に導かれて、生きるはめになります。データを歪曲するすべてのループを、気づきの瞑想で外すのです。外れたら、色声香味触法というデータをありのままに認識します。六根から入るデータを捏造したり、過去・将来の膜で覆ったり、感情の膜で歪曲させたりしないのです。その時の認識決定は、ありのままのデータによるものです。主観に頼った「意見」はいらなくなります。それが「目覚めた状態」ということです。言葉を変えれば、解脱に達していることなのです。
混乱した世界で安穏に生きる
Visamaとは、「決して平らではない、進みにくい難路」という意味です。この場合は、エベレストを制覇するといったような、物質的な意味ではありません。生命はみな、自分が作った幻覚の世界に住んでいるのです。幻覚と現実は合わないので、生きることはかなり厳しくなります。互いにコミュニケーションが成り立たなくなるのです。外国人が、「刺身は気持ち悪いものだ」と日本人を説得することは無理です。その無駄なことをしようとすると、トラブルが起きるのです。しかし、自分の見解に執着している人々は、必ず自分の意見を相手に強引に押し付けて理解してもらおうと思っています。だから、この世は喧嘩だけの世界になっているのです。この世は、瞬間たりとも安穏ではないのです。ひとびとは自分の意見にしがみついて、他と喧嘩しながら苦しんでいます。真理を発見した人は、こころから意見が消えているので、この世の中で安穏に生活することができるのです。
この世には、無限の異見があります。ひとりの人間を調べても、その人は無数の意見を持っているのです。一人の人間の政治論、経済論、社会に対する意見、会社に対する意見、家族・親族・友人に対する意見、などなどがあります。そのうえ、宗教・信仰・神秘などの意見も持っています。さらに、自分自身に対しても意見を持っています。数えられないほどの意見を持つ人が、どうやって無数の意見を持つ他人と、安穏に、平和に、コミュニケーションできるものでしょうか? 悲しい現実は、自分には自分の意見が正しいと見えることです。「天ぷらが大好きだ」という人の意見は、その人にとって嘘ではなく事実です。「揚げ物は大嫌い」という人の意見も、その人にとっては事実です。ということは、誰もが、「我が意見は真理である」という邪見を持っているのです。だとしたら、人間の世界ほどの難路(visama)はありますか?
では、真理を発見した人はどうするのでしょうか? すべての異見は歪曲されたものだと知っているのです。それは真理ではないと知っているのです。意見を抱く人たちが、「それこそが事実である」という邪見に陥っていることも知っているのです。また、その問題を解決するためには、認識決定を歪曲させるループを外さなくてはいけない、ということも知っているのです。その方法も知っているのです。ゆえに、真理を知っている人は、この世と対立することもなく、この世に賛成することもなく、この世の異見に染まることもなく、安穏に生きるのです。
釈尊の答え
もろもろの現象に対して、気づきをもって観察するならば、
異説に導かれることはありません。その人が目覚めた人です。
異説に混乱しているこの世界で、安穏に生きるのです。
今回のポイント
- 人々はありのままに認識しない
- 人々の認識決定は感情で染まっている
- 真理を知らない人に意見があります
- 意見に執着すると悩み苦しみが結果です
- 真理の発見で意見が消えます
- 情報を歪曲しない訓練は難しいのです
- 意見を持つ限りその人は孤独です
- 真理を発見する人は孤独を破ります