パティパダー巻頭法話

No.298(2020年1月号)

時は隠れてわからない

理性ある人はチャンスを逃さない Time illusion

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Samiddhisuttaṃ (SN 1.20)
サミッディ経(相応部 1.20)より

  • Abhutvā bhikkhasi bhikkhu
    Na hi bhutvāna bhikkhasi
    Bhutvāna bhikkhu bhikkhassu
    Mā taṃ kālo upaccagā
  • 比丘よ、あなたは食べずに乞食こつじき
    食べた後に乞食しない
    比丘よ、食べて乞食せよ
    あなたは時を空しく過ごすな
  • Kālaṃ vohaṃ na jānāmi
    Channo kālo na dissati
    Tasmā abhutvā bhikkhāmi
    Mā maṃ kālo upaccagā
  • 私は時を何も知らない
    時は隠れて見られない
    それゆえ食べずに乞食す
    私は時を空しく過ごさず
  • 和訳:片山一良
    『パーリ仏典 第三期1相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇I』
    大蔵出版より

年末年始に休暇を取られる方々に、お歳暮を送る気持ちで、繰り返し読んで理解するにふさわしい経典をご紹介したいと思います。サミッディという若い比丘のエピソードです。徹夜して修行に励んだサミッディ長老は、朝方にタポーダという河岸で沐浴を終え、河からあがって身体を拭いていました。その時、ある女神が空を照らしながら現れて、空に立ったまま謎めいた言葉で偈をとなえたのです。

人並みの人生

Abhutvā bhikkhasi bhikkhu
Na hi bhutvāna bhikkhasi
Bhutvāna bhikkhu bhikkhassu
Mā taṃ kālo upaccagā

比丘よ、あなたは食べずに乞食(こつじき)し
食べた後に乞食しない
比丘よ、食べて乞食せよ
あなたは時を空しく過ごすな

まず、言葉の表面を分析してみましょう。「(あなたは)食べずに乞食をする。(しかし)食べてから乞食をしていない。」何も食べてないから食べるものを探すのは当然のことです。食べてから托鉢に出るのは変です。しかし、女神がこの変なことをしなさいと言っているのです。二行目で、「食べてから乞食(托鉢)しなさい」とアドバイスします。最後のフレーズは、「時間を無駄にするなよ」です。実は、食べてから托鉢に出ることが時間の無駄なのに、それをやりなさいと言っているのです。女神の話は矛盾だらけですね。

この偈に、パーリ語の語呂合わせが入っています。Abhutvāとは、「食べてない」という意味だけではなく、「人間として人生で享受するべきことをやってない」という意味にもなります。サミッディ長老は若者でした。まだ大人の世界はまったく知らない歳でした。だから、女神は老婆心で「人生を楽しみなさい」と言っているのです。Bhikkhasiとは、「(あなたは)托鉢している」という意味ですが、「修行している」という意味にもなります。というわけで、一行目の意味は、「人間としての楽しみを何一つ経験しないまま、厳しい修行に励んでいる」なのです。二行目、「Na hi bhutvāna bhikkhasi あなたは食べてから乞食やっていないでしょう」という言葉の意味は、「人間としての楽しみを味わってから修行に励むべきなのに、常識通りにやってないでしょう」になります。

三行目で、「Bhutvāna bhikkhu bhikkhassu 食べてから乞食しなさい」というのです。意訳すれば、「普通の人間としての生き方を済ませてから、修行に励みなさい」です。四番目の「Mā taṃ kālo upaccagā 時間を無駄にしてはいけません」というフレーズで、謎めいた偈の意味が明確になります。女神は一般俗世間の考えを言っているのです。インド文化のバラモン・カーストの人々は、最初は学問に励み、それから結婚して子供を作って家族を営んだのです。子供が一人前になってくると、すべてを捨てて修行世界に入ります。現代人も、似通った考えを持っているのです。若い人々が精神世界に興味持つと、大人は「真剣に仕事して金を儲けなさい」と諭すでしょう。

時間とは何?

若いサミッディ長老は、女神の偈に応答する偈をとなえたのです。

Kālaṃ vohaṃ na jānāmi
Channo kālo na dissati
Tasmā abhutvā bhikkhāmi
Mā maṃ kālo upaccagā

私は時を何も知らない
時は隠れて見られない
それゆえ食べずに乞食す
私は時を空しく過ごさず

サミッディ長老が気になったのは、「時」という概念です。「いったい時間とは何? 時間は隠れているので、私は時間という概念の意味がわからない」とうたうのです。みな、「時間とはいったい何かとわからない」というフレーズに驚くかもしれません。なぜならば、誰だって時間を気にして、時間に追われて、時間にしたがって生活しているからです。人間の生き方から時間という概念を取り除くことは不可能です。時間を気にしないで、自分の好き勝手なことをやって生きる人がいるならば、その人は精神的に異常であると言われるのです。本当に「時間」と言える何かがあるのでしょうか?「時間に追われている」という場合は、何が私を追っているのでしょうか?「時間がない」という場合は、何を失っているのでしょうか?「時間がある」という場合、何を持っているのでしょうか? 時計という機械が時間でしょうか?「時」とは、本当は具体性のない観念に過ぎないのです。「観念に追われている」とは、「怪獣に追われている」と同じ意味でしょう。怪獣も実在しない観念のみです。

時を逆さまにとっている

世の中のすべてが変化しています。その変化にリズムがあるのです。一つの現象をとってみると、その現象が自分のリズムで絶えず変化している。「花火」という現象の時間と、「花」という現象の時間は、それぞれ違います。「犬」という現象の時間と、「人間」という現象の場合も、それぞれのリズムを持っているのです。犬は早く死ぬのではなく、犬の生涯を完成して死ぬのです。人間は長く生きているのではなく、人間の生涯を完成して死ぬのです。さまざまな現象はさまざまな時のリズムを持っており、まとめて理解するのは難しくなるので、われわれは地球の回転リズムにすべてまとめるのです。そうなってくると、花火は一分ももたないし、花は長くて一週間もつでしょう。犬は十五年程度になるし、人間は長くても百年程度です。その計算根拠は、各現象の時ではなく、ただの地球の自転のリズムです。ということは、地球の自転が止まったら時間も止まるのでしょうか? あるいは、それでも時間は流れているのでしょうか? 答えがあります。時間は存在しない。しかし、現象は変化してゆく。変化は止まりません。ですから、「時」ではなく、「無常」という単語を使うべきなのです。地球があってもなくても、現象がある限り、すべて無常です。人間は現象の無常を認識しているにも関わらず、それを逆さまにとって「時間の流れ」だと間違って理解しているのです。時間とは観念なので、流れるための時間は存在しないのです。サミッディ長老は、俗世間でうたう「時」という言葉の意味がわからない、と仰っているのです。

時は隠れている

サミッディ長老は続けて、「Channo kālo na dissati 時は隠れて見られない」と言うのです。「見られない」とは、経験すること、体験することができない、という意味です。現代的にいえば、「時とラベルを貼るために必要なデータがない」ということです。お釈迦さまから直々に指導を受けて修行する比丘でしたので、実証できるデータがないならば、妄想して「存在する」と言わないで、「わからない」と言うのです。たとえば、「森羅万象を創造する全知全能の神が存在するのでしょうか?」と質問されたら、正しい答えは「わからない」です。なぜならば、データが皆無だからです。

長老は観察瞑想を行なっていたが、「時間」という何かを経験したことはなかったのです。しかし、世間は「時間」という単語を当たり前のように使っています。前提としてあると思っているのです。それがあるとするならば、隠れているのです。しかし、このフレーズに仏教徒たちは簡単な解説をしています。生命に読み取れない現象は五つあります。

① 命(寿命)――命はどこまで続くのか、どこで壊れてしまうのかと明確に時間で定めることはできない。たとえば、人間の場合は、妊娠した瞬間にも命を終える可能性はありますし、一週間で、一年で終わる可能性もあります。十年で、三十年で、八十年、百年で終わる人生もあります。しかし、寿命を科学的に何年何月何日何時何分だと明確に設定することは一切不可能です。ですから、命の時間は隠れてわからないのです。

② 病――生命は何年何月何日何時何分で病に罹るのだと明確に設定することは不可能です。その時間も隠れてわからない。

③ 死――死ぬ瞬間も明確に設定することは不可能です。

④ 遺体処理――ひとの遺体をどの場所で、どの時間で、どのように処理するのか、ということも明確に設定できないのです。

⑤ 死後――いま生きている自分が、死後どこに生まれるのかと明確に設定することもできないのです。(預流果に達した人は、死後、悪趣に堕ちることは絶対にないと説かれていますが、死後、人間界になるか天界に生まれるか梵天界に生まれるかは決められません。)死後の場合は、次に生まれる場所は臨終時の精神状態によります。

死後のことではなく、一般的にも精神状態は設定できない場合があるのです。例として、この質問を考えてください。「あなたは次に、何時何分に怒りますか?」この質問は、如何なる精神状態に当てはめてみても、答えは決まって「わからない」になります。

人間が「時間」という妄想概念を使って、何にでも時間を当てはめるのです。たとえば、人に「何歳ですか?」と訊いたら、「十八」だと答える。そうすると、当然のごとく「大学生ですか?」と訊きます。それは人間が作ったプログラムです。もちろん、十八歳の若者がみな大学生というわけではありませんが、決まりだけは変えないのです。日食月食などはいつ起こるのか、ピッタリの計算ができます。データが取れないのは問題ですが、データを取る技術があるならば、いつ地震が起こるのかとも言えるのです。しかし、台風がいつ来るのかは、気象データがあらわれない限りわからないでしょう。すべては時間というファクターに管理されているならば、「あなたは次に何時何分に笑う」と言えるはずなのです。

というわけで、時間が隠れている、というフレーズは深遠な意味を持っているのです。この世に、経済・政治・世界状況などなどを予測する専門家がいっぱいいるのです。しかし、誰一人として役に立たないのです。それは専門家の能力の問題ではありません。現象の予測はできないからです。すべて無常だからです。気象状況がとてもよいので、今年は豊作になるはずです、と予測するのはデータにのっとった判断ですが、必ずそうなるとは限りません。

享受すべきもの

人生のことは何ひとつ予測できないのです。すべて不確定です。それでも命が流れて、人は死ぬのです。いつ死ぬのかは、絶対わからないことです。ひととしては、やりたいこととやらねばならないこと等などがいっぱいあるのです。やりたいことは無限にあるので、それに手を出すと未完成なままで死ぬはめになります。やるべきことにしても、またたくさんあります。それをすべて行おうとすると、寿命が足らなくなります。ですから、理性のある人はやるべきことに優先順位をつけて、そのなかでいちばんトップのことに挑戦するのです。ですから、ブッダの真理を理解している方々は、解脱に達することのみを目指して挑戦しているのです。

サミッディ長老は若者であったかもしれません。しかし、俗世間にある「時間」という概念が隠れて読めないことを知っていました。現象の流れを、人間の観念で作った時間で計算することはあり得ないのだと知っていたのです。歳は若いかもしれませんが、まず「やりたいこと」を捨てたのです。「やらなくてはいけないこと」のなかで、最高の目的を選んだのです。他の楽しみを享受する暇などはないから、ただちに修行に励んだのです。「Tasmā abhutvā bhikkhāmi それゆえ食べずに乞食す」と答えたのはそういうわけです。意訳するならば、「俗世間の快楽を享受しないまま、修行に励んでいるのだ」という意味になります。

時間を大切に

Mā maṃ kālo upaccagā というフレーズは、意訳すれば「チャンスを逃さないように」ということです。その時その時、やるべきことをやらずに好き勝手に過ごす人は、チャンスを逃すのです。たとえば、若者が勉強を後回しにして遊びにふけることなどです。これは俗世間的な考えです。

真理の立場から問題を解明しましょう。時間とは隠れていて読めないものです。人間なら八十歳までは生きられるだろうと、のんびりすることはできません。来年はこれをやって、再来年はあれをやって、というような計画は成り立ちません。いつ死ぬか、誰もわかりません。サミッディ長老は「いま生きているこの瞬間」を大切にしたかったのです。いま生きているチャンスを逃さなかったのです。ですから、若者がやるべきだと世間の無知な人々が口うるさく謳っているプログラムに乗らなかったのです。人間に生まれたならば、達するべき最高の境地は解脱です。他の生命には、解脱に挑戦することはできません。だからこそ、このチャンスを逃してはいけないのです。女神が「時間を無駄にするなかれ」と言っても、サミッディ長老こそが時間を無駄に使わないで、この瞬間のチャンスを絶対逃さないと励んでいたのです。結論として言えるのは、世の中で人々が何をやっても、何に挑戦しても、たとえオリンピックでメダルをとっても、ノーベル賞をとれる研究者になっても、みな時間を無駄に費やしている、ということです。みな、すべてこの世に置いて、無駄に死を迎えるのです。この瞬間の機会を逃せないと思うならば、解脱に挑戦するべきです。その人の生き方だけが、真の有意義な生き方になるのです。

この経典の内容は難しいので、続きは来月号で説明いたします。

今回のポイント

  • 時間とは実在しない観念です
  • 現象は絶えず変化していることを逆さまに理解しています
  • 命は儚いので、のんびりする暇はありません
  • 時間を有効に、また有意義に使う人は解脱を目指します