No.311(2021年2月号)
命の支配者
こころは命のすべてを管理します Mind controls the life
今月の巻頭偈
Dhammapada 1. Yamakavaggo
ダンマパダ(法句) 第一、一対の章
- Manopubbaṅgamā dhamma
Manoseṭṭhā manomayā
Manasā ce paduṭṭhena
Bhāsati vā karoti vā
Tato naṃ dukkhamanveti
Cakkaṃva vahato padaṃ - Manopubbaṅgamā dhamma
Manoseṭṭhā manomayā
Manasā ce pasannena
Bhāsati vā karoti vā
Tato naṃ sukhamanveti
Chāyāva anapāyinī
-
1.
心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で
話したり行なったりするならば、
苦しみはその人につき従う。
車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。 -
2.
心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で
話したり行なったりするならば、
福楽はその人につき従う。
影がそのからだから離れないように。
- 和訳:中村元『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫より
魂vsこころ
仏教の教えの背景には、インドの主流であったバラモン教とジャイナ教などの他の沙門宗教の存在があります。ゆえに、仏教用語はその背景を踏まえて理解しなくてはいけない場合も出てくるのです。インドの諸宗教の中にあって、魂を否定して無我について語ったのは仏教だけではないかと思われます。なぜならば、Lokāyataという唯物論者も命(jīva)という単語を使っていなかったので、魂は否定していなかったと言えます。彼らはただ、「人が死んだら魂も死ぬのだ」と主張していたに過ぎません。ジャイナ教徒も、虚無主義者も、その他の宗教哲学者も、魂の存在は認めていたのです。一部の人々によって、「死後には、魂の存在は無い」と説かれただけです。恐らく、無我について語ったブッダはさまざまな宗教哲学者の中で仲間が居なくて一人ぼっちだったことでしょう。宗教とは、人に道徳と生き方を教える組織です。それから、死後の世界についても語るのです。最終的に生命が目指すべき目的についても語るのです。これらの特色は仏教にもあります。最終目的として、仏教は「涅槃に達すること」を推薦します。しかし、無我の教えと道徳的な生き方が噛み合わないと批判されることも起こり得ます。そこで、仏教は現象の流れを因果法則に合わせて客観的に説明するのです。
他宗教によると、生命にとって唯一尊いもの、大事にするべきもの、命を司るエネルギーは「永遠不滅の魂」なのです。しかし、魂の存在を客観的に証明することはできません。自分に永遠不滅の魂があると、あらかじめ信じなくてはいけないのです。それに対して、仏教は生命にとって唯一大事なものは「こころ」であると説くのです。命を司るエネルギーも、こころなのです。しかし、「尊い」という単語は避けて使わないのです。「命を司るエネルギーはこころである」と言われたら、「それは魂という単語の置き換えではないか」と異論が出ることもあり得るし、「仏教は隠れ魂論者である」と批判することも可能でしょう。実際に歴史の中では、仏教に対するそのような挑戦も見られました。この問題は、他宗教と哲学者の方々が仏教の「こころ」という概念をじゅうぶん理解していなかったから起こったのです。
命の管理者
そういうわけで、命の管理者としての「こころ」という働きについて、少々、理解していただく必要があると思います。こころが魂のようなものであるならば、理解しやすいのです。しかし、こころとは「認識する働き」なのです。認識機能と定義すれば、こころは一つになります。各生命に自分のこころがあるとも言えます。仏教徒たちは、「こころは一つであり、各生命に自分のこころがあり」云々という言葉を踏まえて精緻な理論を発展させましたが、理論をまとめることまではできなかったのです。ゆえに、上座部仏教と他の部派仏教の「こころ」の説明は完全には一致せず、相違点があります。後の仏教徒たちとは違って、お釈迦さまは哲学を一切語りませんでした。その代わりに、理性ある一般の方々に向けて、わかりやすく、こころ清らかにする方法と解脱に達する道を教えたのです。
ブッダのもともとの教えから見ると、こころとは認識機能になります。生命の認識は眼耳鼻舌身意という六門(六根)で起こるから、認識は六種類になるのです。六門にデータが触れたならば認識するので、認識機能は一定して変わらない存在ではありません。それから、認識の流れに停止・休止などは無いのです。止まることなく認識が流れることから、こころを魂のような働きであると誤解する人々もいます。しかし、こころは激しく揺れ動く、激しく変化する、激しい流れなのです。
こころには単独で働くこともできません。いつでも、サポートが必要です。支えられて成り立つものなので、他宗教で語られる魂とは違います。こころのサポートは、二種類です。眼耳鼻舌身と色声香味触が物質的なサポートです。こころの中でも、心所という現象が認識を支えます。心所はテーラワーダ仏教で五十二あると説かれています。要するに、こころは一つのものではなく、大きな工場のようなシステムなのです。さまざまなところから取り入れたものを合わせて組み立てて、認識という結果を出すのです。工場ならば生産する製品は規格化された同じものになるはずですが、認識工場の場合はそうではないのです。認識は互いに似ているが、同一にはならないのです。ここでは、「こころとは認識する組織である」と、とりあえず理解しておきましょう。それから、こころは最終的にはエネルギーなのです。物質もまた、最終的にはエネルギーです。この二つのエネルギーは同じではないので、仏教ではnāma(名)とrūpa(色)という二つに分けているのです。
優先エネルギーはこころ
太陽などの巨大なエネルギーを考えると、私たちは「物質のエネルギーこそ最大で優先ではないか?」と思いがちです。「こころに気にするほどのエネルギーなどあるのか?」と疑問視したくもなります。物理的な世界を措いておいて、命という世界について考えましょう。生命には、身体という物理組織があります。ただし、それだけで生きている命のある存在にはなりません。物質には決してできない働きがあります。それは、感じること、または認識できることです。命は、感じることで、認識することで成り立つのです。身体はある程度で物理法則に従いますが、身体の動きをこころが管理しているのです。
簡単な例で説明します。割り箸に火をつければ、なんの抵抗もなく燃えます。では、指に火をつけてみましょう。瞬時に手を引っ込めて、火傷しないようにするでしょう。身体を構成している物質に、「燃えてはいけない」という性質は無いのです。しかし、身体の中に感じる機能があるから、火傷する感覚は激痛だから、こころが火傷を嫌がるのです。こころの司令によって身体が守られるのです。こころというエネルギーと、物質というエネルギーによって命が成り立っています。最優先に働くのは、こころのエネルギーです。こころが身体を管理します。
こころの司令が無ければ、身体はただの物体に過ぎません。その場合、物理法則に従って変化していくだけです。ただの物体を寒いところに置けば、その物体の温度は外気に応じて下がります。一方、身体という物体を寒いところに置いたら大混乱が起きます。温度(体温)を下げないように、あらゆる工夫をするのです。ただの物体は温度が下がっても感じないが、身体という物体はそれを感じ、認識します。大混乱はその結果です。温度が下がることを苦だと感じたら、暖かくしようとします。温度が下がることを楽だと感じたら、そのままでいようとします。だから、夏は冷房、冬は暖房に頼るのです。最終的に理解するべきポイントは、「身体を支配・管理するエネルギーはこころである」ということです。身体とは、こころが思うままに働く物体に過ぎないのです。
忘れることは危険
命を司るエネルギーはこころであること、身体を管理・支配するエネルギーはこころであること、生きるとはこころの言いなりに流れる現象であることを忘れてはならないのです。忘れたら危険なのです。不幸に陥りたくないと思うのはこころです。幸福になりたいと思うのもこころです。あるか無いかわからないが、死後、幸福なところに生まれ変わりたいと思うのもこころです。苦を極力避けたい、楽を最大限享受したいと思うのもこころです。成功を収めたい、失敗を避けたいと願うのもこころなのです。
管理者がそのような思いで身体を働かせているならば、希望どおりになるはずでしょう。結果はどうでしょうか? ほとんど逆ではないでしょうか? 儲ける目論見で起業したものの、借金だけ残って倒産という結果になったとしたら、悪いのは誰ですか? 事業? 世界? 起業した人? 答えは、起業した人です。我々のこころも、儲ける目論見で真冬にかき氷屋さんを開くようなことをしています。当然、結果は苦です。そういうわけで、問題はこころにあるのです。管理者・支配者たるこころを調教しない限り、育てない限り、楽を求めて苦を得る生き方は変わりません。私たちは、こころがすべての支配権を握っている事実を忘れてはならないのです。
汚れたこころが苦をつくる
お釈迦さまはこのように語ります。
すべてのものごとに先立って、こころがいるのです。こころが優先です。結果はこころがつくるのです。怒りなどで汚れたこころで話したり、さまざまな行為をしたりするならば、その人は結果として苦しみに陥るのです。荷車を繋がれた牛は、前に進んでも一歩一歩苦しみます。苦しみから逃げようと前へ前へと進んでも、自分の身体は荷車と繋がったままなのです。そのように、我々もこころが汚れているならば、いくら幸福を目指して努力して進んだところで結果は苦です。ですから、幸福を目指す前に、こころが汚れているか否かをチェックしなくてはいけないのです。おもしろいことに、自己観察して欠点が見つかったならば、頑固でわがままなこころもそれをただちに直すのです。
幸福はこころ清らかな人の権利
お釈迦さまはこのように語ります。
すべてのものごとに先立って、こころが優先に働きます。ものごとの結果はこころ次第です。清らからなこころで話したり、さまざまな行為をしたりするならば、その人は幸福になります。影が人から離れないように、清らかなこころで行為をする人から幸福は離れないのです。貪瞋痴の無いこころで、慈悲喜捨に満たされたこころで生きている人は、つねに幸福です。あえて幸福を目指す必要すら無いのです。影のように、幸福がその人を追ってくるのです。
今回のポイント
- 命はこころ優先です
- こころが身体を支配・管理するのです
- 幸不幸はこころの働きかた次第です
- こころが汚れているから生きることが苦になります
- こころの汚れを落とすことで幸不幸の問題が解決します