No.313(2021年4月号)
変わらぬ法則がある
慈しみで幸福になる Hatred burns you forever
今月の巻頭偈
- Na hi verena verāni, sammantīdha kudācanaṃ;
Averena ca sammanti, esa dhammo sanantano.
- 実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに怨みの息 むことがない。
怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
- 和訳:中村元『ブッダの 真理のことば 感興のことば』岩波文庫より
こころの法則
こころの法則はたくさんありますが、今回はその一つを紹介したいと思います。聖書を読まれている方々の間で、「目には目を」というフレーズが常識的に知られています。新約聖書では、この決まりは間違っていると説かれるのです。しかし、「目には目を」という決まりの歴史はとても古いものです。この決まりは、一般人のこころの法則の一つを表しています。わざわざ聖書などのテキストを参照する必要もないほどです。誰だって、「やられたらやり返す」のが常識だと思っているのです。怒鳴られたら怒鳴り返す、奪われたら奪い返す、などの生き方は、人間のあいだでごく普通のパターンです。この決まりを使うから、人間のあいだで戦争まで起こるのです。たとえ戦争が終わっても、戦争で被害を受けた方々は憎しみを持ち続けます。戦後に賠償金を払ったところで、相手のこころの憎しみは消えないのです。
人間同士で間違いが起きたら、謝るという習慣があります。それで問題がチャラになって仲良くなるのかというと、そうでもないのです。表面的に謝罪を認めても、内面的に怒ったままです。やり返したい、という気持ちはそのままなのです。こころを育てていないすべての生命が、「目には目を」という考えを実行しています。あえてハンムラビ法典でそれを教えるまでもありません。人間は本来、その決まりを実行して生きているのです。これを「こころの法則」として理解しておきましょう。
うまく行っていない
人間が持つ本能的なこころの法則に従って生きてみても、ものごとはスムーズに進まないのです。人が自分のものを奪ったとしましょう。自分に対して怨みを持っていた可能性もあるし、またその人にその品物が必要であった可能性もあります。コンビニ強盗する人は、コンビニ経営者に対して怨み・憎しみを抱いていないのです。しかし、自分に金がないので、レジの金が必要です。それで、奪うという手段を選んだだけです。強盗が奪ったものを経営者が奪い返したとしましょう。それでも平和は戻りません。強盗をした人が、金を奪い返した経営者に対して新たな怨み・憎しみをつくるのです。自分に必要だから金を奪ったのに、それを強引に取り戻されたのですから。しかも、金が必要という、自分の要求はそのままです。次はもっと巧みな手段で強盗に入る可能性もあります。対する経営者側も、最新技術を使って店を守ることにするでしょう。加害者も被害者も、こころの悩み、不安、怒り、憎しみなどで延々と苦しまなくてはいけなくなります。問題は一向に解決しないのです。
怒鳴ったら怒鳴り返す場合も同じことです。怒鳴られた側が、より強い言葉で怒鳴り返すのです。そうすると、相手も「そこまで言われる筋合いはない」と理由をつけて、もっと強い言葉でさらに怒鳴り返します。言語の能力が尽きたところで、手、足、武器などを使うはめになります。わずかな火種が山火事にまで成長して、大損害を惹き起こす結果になるのです。しかし、人間は非難を受けたら、より強い非難でお返ししたい気持ちをいだき続けます。「悔しい」という単語も、その精神の表れです。そういうわけで、「目には目を」という人類のこころの法則は、問題を解決するどころか、問題を限りなく拡大して、皆に不幸を与える結果になるのです。
弱い人
人間は皆、強いわけではないのです。弱い人々が多数だと思います。弱い人から奪われる。弱い人が怒鳴られる。弱い人が非難を受ける。しかし、弱い人には「やり返し」はできないのです。やり返しをしなかったからといって、問題は解決しない。弱くてやり返しできない人が、強烈な怒りで燃えることになります。落ち込んだり、生きる気力を失ったりもします。自殺する人もいます。たまに迷信に走って、隠れて相手を呪ったりする場合もあります。インドにも無数の神々の世界があります。その中には、被害を受けた人々に代わって加害者に天罰を下す仕事を担う神々もいます。被害者は加害者を呪うために、正式的に神にお願いを立てなくてはいけないのです。強者に潰されて、搾取されて、被害を受けてもやり返すことができない社会的弱者層にとって、悩み苦しみ怨みの唯一のはけ口は迷信に頼ることです。人間のこころの中では、「目には目を」という法則が本能的に働いています。物理的にやり返すことができない弱者層も、その法則によって精神的な病気に陥ってしまうのです。
革命という言葉があります。この言葉を政治的・社会的な問題に当てはめて実行すると、弱者層の問題が解決すると思われているようです。しかし、弱者層がみな団結して強者を倒したからといって、問題は解決しません。なぜならば、強者が憎しみを持って、やり返しを企むからです。それで、勝った弱者層も、今度は強者層になったので、弱者をいじめることを始めるのです。この悪循環は、人類の歴史の中で絶えず起きてきたことです。これからも、怨み・憎しみの悪循環が続くことでしょう。
問題の原因
この問題の原因は、当然、こころの働き方です。人類は生得的に付いてくるこころのエネルギーをそのまま使っているのです。これはつまり、感情のままに生きることです。「こころそのものを育てなくてはいけない、成長させなくてはいけない、清らかにしなくてはいけない」という考えは毛頭ないのです。人類は、こころの成長を教える人々の言葉を「非現実的な話だ」と却下します。怒りの悪循環に、ただ身を任すのです。それから、悩み苦しみが必ず生じます。「悩み苦しみは嫌だ、幸福を目指すべきだ」と泣き叫ぶはめになります。結果として、誰一人として幸福に達しないし、悩み苦しみを無くせないのです。なぜならば、問題をつくる原因をそのまま大事にしているからです。
ブッダの答え
人類の問題は、あまりにも単純なのです。調べれば誰にでも分かるはずです。問題は、不幸の原因が分かっても、人間にその原因を取り除く勇気がないことです。感情に身を任す人々は皆、臆病者なのです。今月の偈では、人間の悩み苦しみの原因すべては語っていません。人類、また他の生命にも不幸を招く「憎しみ」という原因について、焦点を当てて考えましょう。怒りを増殖させると憎しみになります。怒ったときの感情をそのままある時間保ち続けると、憎しみが誕生します。怒りが起きたら機嫌が悪くなる。怒りが憎しみに変わったら、行動を惹き起こす。相手を非難侮辱したり、攻撃したり、やり返したりすると、わずかな怒りの感情が管理不可能な憎しみの山火事になってしまうのです。ブッダが説く治療方法はいたって簡単です。憎しみが起きても、攻撃に行かないで自分のこころの中に起きた憎しみの炎を消すことです。
悪いのは相手ですか?
「相手が悪い」と言い訳してはいけないのです。実際、相手が悪いのかも知れません。もしかすると、相手ではなく自分が悪いのかも知れません。また、相手には、自分の行為で他人が被害を受けるという理解はなかったかも知れません。ですから、相手が悪いと決めつけることはできないのです。憎しみの炎で燃えている自分自身が危険なのです。服に火がついた状態で、「誰が私の服に火をつけたのか」と探す暇があるでしょうか? 服に火をつけた犯人を正しく罰してから、自分の服の火を消すつもりでしょうか?「あなたがやったことだから、あなたがその問題を解決しなさい」と、相手に言って、相手が自分の服の火を消してくれるまで待つのでしょうか? 子供が汚した床の掃除を子供に頼むのは構いませんが、憎しみの炎の場合はそのやり方では危険です。燃えているのは憎しみを持った人です。自分を傷つけた誰かではないのです。
自も他も不完全
人間は不完全な存在です。いつでも間違いを犯します。話したところで、話し方に間違いが起きます。人を笑わすつもりだったのに、怒らせる結果に終わる場合もあります。身体の行為もけっこう失敗します。思考する行為も失敗します。その過ちの結果として、自分自身が害を受ける場合も、他人に害を与える場合もあります。ゆえに、人の過ちをいちいち取り上げて、ハイライトして相手を非難する、怨み・憎しみを持つ生き方は成り立ちません。自分が愚か者だからこそ、比較的に他人よりも不完全だからこそ、他人の過ちをいちいち取り上げて非難する行動に走るのです。そういうわけで、人が悪い、社会が悪い、国が悪いなどなどの気持ちで病んでいるならば、自分自身が重症だと理解したほうが良いのです。理性のある人は、生命は不完全だと知っています。不完全な生命は過ちを犯すものだと知っています。ゆえに、憎しみや怨みを抱くことは極限的に支離滅裂な行為だと知っているのです。
怒りの火種が山火事になる
憎しみの炎で燃えていない人のこころは、安らぎを感じます。安らぎを感じるこころは幸福です。幸福を実現することは、あまりにもシンプルな行為です。こころの中で、怨み・憎しみを抱かないことです。「他人が自分を憎んでいるならば、自分も相手を憎むことは当然だ」と思っている限り、憎しみの炎は決して消えません。自分を燃やし、相手を燃やし、周りの生命も燃やし、やがて多数の生命をも燃やすことになります。自分が想像を絶する悪行為の実行者になるのです。憎しみを向けてくる人に対して憎しみで返すことは、恐ろしい悪行為のスタート地点に立つことなのです。
雪山に登った人が、ふざけて僅かな雪を蹴って落としたとしましょう。それが雪崩になって、かなりの損害を与える可能性があります。この場合は、雪を蹴っただけで、なんの結果も起きないこともありえます。しかし、憎しみはそうではありません。憎しみに憎しみで返したならば、確実に終わりのない怨み・憎しみの雪崩を惹き起こすのです。ですから、ブッダの答えは、「憎しみに憎しみで返すなかれ」になります。それを理解できない場合は、「自分のこころに起きた憎しみは、自分を燃やす炎なのだ」と思えば、簡単に実行することができるでしょう。
怒り・怨み・憎しみの集合体
人は簡単に怒るものです。起きる出来事が気に入らないと嫌な気分になって、それが怒りに変わるのです。怒りの感情を放っておくと、怨み・憎しみなどの恐ろしい炎にまで成長します。憎しみに身を任せて、想像を絶する悪行為の雪崩を起こすまいと思うならば、怒りに気をつけたほうが良いのです。怒りが起きても、瞬時に忘れる訓練をすることです。怒りを収めることは難しくありません。しかし、怨み・憎しみは手強い相手です。
お釈迦さまはこのように語ります。憎しみに憎しみで返すならば、決して人のこころから憎しみが消えません(憎しみの雪崩をつくるからです)。憎しみに対して、「憎まない」という対応をするのです。相手が自分のことを憎んでも、自分は相手のことを憎まないことにします。相手のことを心配する人間になります。その行為で、自分のこころの怒りの火種が消えるのです。こころは安穏に達します。「これは永遠の真理である」と、お釈迦さまはダンマパダ第五偈を結ばれています。「目には目を」とは、人格を育てていない、凡夫のこころの法則です。それは憎しみに憎しみで返す生き方です。問題を解決したいならば、憎しみに慈しみで返すことです。他の解決策は存在しません。
自己観察
お釈迦さまはこの偈を、自己観察する目的で説かれたのだと思います。しかし、「これは永遠の真理である」というフレーズがあるので、一般的に社会のありさまについて説かれた偈だと受け取られているようです。普遍的な真理ということに変わりはないですが、お釈迦さまは社会のありさまを普遍的な真理として説いたわけではないのです。怒り・憎しみ・怨みは、人のこころに表れる感情です。一般人は「あの人に怒っている」「あの人を怨んでいる」「あの人を憎んでいる」というように理解します。具体的なシチュエーションを考えましょう。私はここにいる。あの人は別などこかにいる。私はその人に怒る。このシュチュエーションが間違っているのです。私のこころに「あの人」のイメージがあるのです。そのイメージは、私に気に入らないことをやったイメージです。そこで、私のこころに怒りが起きたのです。「私」という気持ちはこころの幻覚です。「あの人」とは私のこころに映った幻想です。両方とも、私のこころにあるのです。結局は、自分が自分の幻想に怒っているのです。幻想、また妄想が続く限り、怒り続けることができます。これはこころの内面で起こるトラブルです。解決策は、こころの中の怒りを消すことです。俗っぽく言うならば、私は私がつくった幻想に怒っている。私は私がつくった幻想を怨んでいる。私は私がつくった幻想を憎んでいる。そうなると、正常ではありません。私のこころは異常です。その異常現象を直して、正常な状態に戻すためには、私のこころにある怒り・憎しみ・怨みの感情を自分で消すしかないのです。そういうわけで、この偈は「自己観察しなさい」という意味で理解したほうが良いのです。自分の怒り・憎しみ・怨みには、外の世界はなんの関係もありません。外の世界とは、自分のこころでつくったイメージに過ぎないのです。つまり、怒りを抱く人は自分で自分自身を燃やしているのです。
今回のポイント
- やり返す気持ちはこころの法則
- やり返す気持ちがある限り、人は不幸
- 憎しみに慈しみで対応する
- こころの法則は変わりません