No.325(2022年4月号)
刺激に飢える心
落ち着きに達して安穏になる Mind is always unstable
今月の巻頭偈
3. Cittavaggo
第三章 心[チッタ]の章
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Vārijova thale khitto
Okamokataubbhato
Pariphandatidaṃ cittaṃ
Māradheyyaṃ pahātave
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水から陸に上げられて
ここへかしこへ 跳びはねる
魚のごとく 心また
輪廻の魔の手 逃れんと
この世 彼の世を撥ねて飛ぶ
- 日本語訳:江原通子
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水の中の住居から引き出されて
陸の上に投げすてられた魚のように、
この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
- 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より
落ち着かないこころ
こころには、「落ち着かない」という性質があります。「落ち着かないことがこころの本性である」と理解したほうが良いのです。興奮した時、混乱に陥った時、人は精神的に落ち着かなくなります。これは皆、経験していることです。一般的な理解では、こころが落ち着く場合も、落ち着かない場合もあります。そこで、人は「落ち着いて混乱に陥らないで生活したい」と期待をするのです。そのために人間が考えた、いろいろな方法もあります。たとえば、体力を使う仕事をする時、イヤーフォンで音楽を聴くようなことです。車を運転する時は皆、音楽を流しておきます。そのような簡単なことでこころが落ち着くならば、ありがたい話です。
しかし、問題はそれほど単純・シンプルではないのです。どんな方法を使っても、こころを落ち着いた状態に保つことはできません。やり方に問題があります。音楽を聴きながら仕事をする場合は、こころが二つの仕事をしなくてはいけなくなります。認識の流れが、仕事に行ったり音楽に行ったりするのです。つまりは、こころがどちらにも集中していない状態です。こころが落ち着いていないことを感じないようにしているだけに過ぎません。これは、日常の悩みを無くすために酒を飲んで酔うことと同じです。酔っている時、こころには日常の悩みに気づく暇がないのです。酒を飲んで人生の苦しみが無くなるならば、それに越したことはありません。しかし、それはただ鈍感になる道を選んでいるだけなのです。このように、世間が教える落ち着くための方法は、問題の解決策になりません。
落ち着かない原因
こころとは、認識する働きです。認識とは、知る機能です。しかし、知る機能を絶えず使っているのに、誰も現象のありのままの姿を認識したことがないのです。人の「知る」機能は、曖昧で中途半端でいい加減なものです。人生の役に立つ知識、たとえば医学、工学、経済学などを得るために、人はあえて苦労しなくてはいけなくなっています。正しい知識は、簡単にはこころに入りません。なぜならば、知る機能は曖昧でいい加減に働くからです。正しく知る意欲がないのに、こころは絶えず認識し続けます。曖昧な知が、絶えず流れているのです。こころは感情を惹き起こしたがっています。感情とは、怒り・嫉妬・憎しみなどの煩悩のことです。煩悩という概念は難しいので、ここで「刺激」という単語を使います。こころは刺激を求めて働いているのです。物事をありのままに正しく認識して、正知(sampajāna)に達する気持ちは毛頭ありません。「落ち着き」は、こころの本性に逆らう機能です。いい加減で中途半端に花を見ると、「なんとキレイな花だ」という刺激が起きます。集中して真剣に花を観察すると、花を構成している詳細な仕組みが見えます。「キレイ」という刺激が無くなるのです。そういうわけで、人は虫眼鏡を持って花見をしようとはしないのです。刺激を求めて認識機能が起こるから、こころは常に落ち着いていないのです。「コンサートに行くか、家で瞑想するか」と訊かれたら、断然コンサートを選ぶでしょう。なぜならば、刺激がそちらにあるからです。コンサートを観賞する時、煩悩が起こるからです。
死の恐怖
こころは刺激のみを求めます。刺激が起こるならば、知ることにも挑戦します。ですから子供に教育を受けさせる時、刺激が起こるようにあらゆる工夫をするのです。大人も同じことです。刺激が起きて興奮するならば、難しい研究に挑みます。刺激・煩悩は、生きるために必要な衝動になります。仏教用語で、衝動に「行(saṅkhārā)」と言います。行がある時、識が起きます(saṅkhāra paccayā viññāṇaṃ)。もし行が無くなったならば、識は起きないのです。ということは、生が無くなるのです。一般人にとって、生まれが無くなるとは「死」を意味します。人は死にたくないので、刺激に飢えた気持ちで生きています。これを無知と言います。なぜならば、こころには無量・無制限の「行」が溜まっているからです。それに気づかないことが無知なのです。無知に覆われている我々は、「刺激を求めることが生きること」になっているのです。
お釈迦さまはこの状態をいたって簡単に説明します。「こころは陸に上げられた魚のように暴れているのだ(Vārijova thale khitto, okamokataubbhato)」と。もし人が刺激を求める生き方を中断して、落ち着きを求める瞑想実践を始めたとしましょう。うまく進まないのです。こころが暴れて、刺激を求めて、思考・妄想に陥ってしまうからです。こころの本来の性質を知っている人ならば、精進・努力して落ち着きを育てるのです。
註釈書は、それに加えて別な解釈もします。Okaとは、bhavaとも言います。いま我々は人間として生まれたので、死ぬまで人間というokaあるいはbhavaにいます。要するに、この世です。そこで、死んでから次のbhavaを作ります。要するに、あの世です。刺激を求めるこころが、この流れを無限に続けるのです。一つの生まれから別な生まれに飛ぶことを、陸に上げられた魚が飛び跳ねる様子に喩えています。これも有効な解釈ですが、お釈迦さまがハイライトするポイントは死の恐怖感です。
刺激が減ると、死の恐怖を感じます。人は癌、脳梗塞、心筋梗塞などの病気を嫌がります。感染症に罹ることも、風邪をひくことも、花粉症になることも嫌がります。理由は、刺激が減ることにあります。病気に罹ったら、刺激を求める普通の生き方が制限されます。ブッダが説かれた、輪廻を脱出して解脱に達するための実践方法は簡単です。しかし、実践者は目的に達することができず苦労します。「こころが刺激に飢えていることは、とてつもない勘違いの結果だ」と理解しないからです。
苦の循環
生まれた人は皆、同じプログラムで生きて死ぬのです。人の歳を尋ねたら、何をやっているのかと理解できます。人が五歳だと言ったら、何をやって生きているのかと分かるでしょう。三十歳だと言ったら、「仕事は何ですか? 結婚していますか?」と訊きたくなります。皆、決められたプログラムで生きているのです。犬も猫も他の生き物も同じです。生きることは苦の流れです。五歳の子がもっぱら遊ぶのは、楽しいからではなく、遊ぶことができなくなったら耐え難い苦しみが生じるからです。遊ぶことによる楽しみを期待します。三十歳で結婚相手を探す人も、一生独身だと苦しくてヤバいと思うからそうするのです。結婚することによる楽しみを期待します。人生の最期は、たいてい病院のベッドになります。その時も、ベッドをあれこれ調整します。酸素マスクを着けたり、痛み止めを注射したりします。すべては苦しいから、楽になりたいから行うことです。しかし、必ず死ぬことから逃れられません。つまりは「楽になりたかったがなれなかった」ということです。結局のところ、生きるとは苦の循環に過ぎないのです。
こころは刺激に飢えていて、瞬間も休むことなく刺激を求め、認識作業をしてきたのです。刺激は「行(衝動)」に変わります。こころに無量の行が溜まっているとするならば、こころの認識機能が「死」でストップするはずがありません。エネルギーは別なエネルギーに変わることが法則です。ですから、死が起きた時、新たな生が起こるのです。それからまた、その生に決められた苦の循環が始まります。どこまでも起こる循環なので、これを「輪廻」と言うのです。
解決
こころに刺激を与えることは解決策ではありません。いくら刺激を与えたところで、満たされることも飽きることもありません。満たされるまで刺激を与えることも不可能です。耳を例にしてみましょう。思う存分、刺激になる音を与えてみます。耳を休ませることはしません。すると、そのうちに耳が聴こえなくなります。「充分、音を聴きました。満足しました」ということにはならないのです。「もっと聴きたいのに聴こえなくなった」という結果に苦しむのです。刺激の資源は色声香味触法という六つです。やりすぎの場合は、眼耳鼻舌身という受信機が壊れるのです。意はイカレてしまいます。「もっとやりたかった、もっと刺激が欲しかった」という渇愛は、そのままです。これは恐ろしい苦の循環です。ブッダは「マーラの支配下(Māradheyyaṃ)」と言います。マーラとは、悪魔ではなく苦の循環のことです。理性のある人は、マーラの支配下を脱出するべきです。苦の循環を破るべきです。
方法
苦の循環を破るために、刺激を求める認識機能を戒めてみます。刺激を得るためではなく、「知る」ために認識を行なうのです。曖昧・中途半端でいい加減に知るのではなく、ありのままの状態を知ることに挑戦します。たとえば、「音楽を聴いています」というのは正知ではないのです。音楽とは、頭で捏造した、感情で練り上げた概念です。解釈すること、評価すること、捏造することをやめて、「音が触れている、音を感じている」と認識するのです。それが、ありのままに知ることになり、正知にもなります。「音楽を聴いた」というのは誤解であり、邪知なのです。なぜならば、同じ音は犬の耳にも、猫の耳にも触れます。しかし、人が音楽を聴いて踊っていても、犬と猫は無関心のままでいます。反対に、猫が興奮する音が人間の耳に触れたとしても、人間には面白くないのです。ゆえに、「音が触れた、感じた」と知ることが正知になります。それならば、耳があるすべての生命に同じ真理なのです。
正知を育てる方法は、ヴィパッサナー瞑想実践と言われます。人が解脱に達するまでの方法は、ブッダによって明確に詳しく説かれています。マーラの支配下を脱出したければ、それを実践しなくてはなりません。ヴィパッサナーこそが、「刺激を求める」認識機能を「正知を求める」認識機能に変える実践なのです。
今回のポイント
- こころとは認識機能です
- 認識とは「知る」ことになります
- しかし、こころは刺激を求めて認識します
- 知る機能は当てにならない誤知になります
- 刺激を求めるこころに落ち着きはない
- 落ち着きに達したこころは解脱に達します