パティパダー巻頭法話

No.328(2022年7月号)

命の次元を破る

成長はこころの管轄 Dimensions of the mind

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

3. Cittavaggo
第三章 心[チッタ]の章

  1. Dūraṅgamaṃ ekacaraṃ
    Asarīraṃ guhāsayaṃ
    Ye cittaṃ saṃyamessanti
    Mokkhanti mārabandhanā
  • 心は遠くに行き、独り動き、
    形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。
    この心を制する人々は、
    死の束縛からのがれるであろう。
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より

仏教の二元論

宗教と哲学の世界では、一元論に人気があります。しかし、初期仏教は二元論を語るのです。一元論は形而上学の特色を持っています。二元論は実用的で理解しやすいのです。ブッダの教えによれば、一切の現象はナーマ(名)とルーパ(色)という二つで成り立っていますす。ルーパとは物質世界です。大宇宙に存在するすべての物質は、地水火風という四つの元素で成り立つのです。後世の仏教の師匠たちは、空(アーカーサ、虚空)という元素もそこに入れて、五つの元素にしました。しかし、空とは物質の間を意味する「空間」のことなので、元素として認めるのは正しくないのです。地水火風は物理世界の四種類の働きを示しています。我々が知るすべての物質に、①重さと硬さ、②凝集する力(引き寄せる力)、③熱、④拡散する力(引き離す力)、という働きがあります。その働きを通して、物質として認識することが可能になるのです。一個の原子であっても、その四つの働きによって成り立っています。この話を現代的な言葉に入れ替えると、「宇宙のすべての物質は電磁波で構成されている」ということになります。電磁波は人間に観察することができるので、誰でも物質の存在を知っているのです。ここではルーパという存在を、物質・素粒子・電磁波として理解しておきましょう。

ナーマという存在

ナーマとは、こころの働きです。俗世間の知識のすべては、物質のありさまに関わっているのです。現代科学の基準では、ナーマは発見することも計測することもできない領域なので、科学者が研究しない分野になっています。宗教家と哲学者は、ナーマの世界をなんとか理解しようと努力していますが、納得の行く結論には達していないのです。「命とはなにか?」という問いに答えを探そうとする場合、どうしてもナーマ(こころ)を研究しなくてはいけないのです。しかし、この分野の研究は、ほとんどが推測または信仰で成り立っています。宗教家が一般的にとなえる「人間には魂がある」という概念は、生命には純物質で構成された組織だけではなく、もうひとつ何かがある、という推測です。魂が実際に存在するかしないかを研究しないまま、皆、魂について数多の哲学を作ったのです。魂は人間だけに限ったものである、他の生き物にも魂がある、森羅万象は魂でできている、などなどの話です。「魂は永遠であり、不滅である。身体が死で壊れても、魂が死後にも続く」などの考えもあります。すべての宗教哲学は、「魂が存在する」という推測に基づく前提によって成り立っているのです。魂とは、推測と信仰が作り上げた概念です。物質の存在のように、きちんと実証されていないのです。実証されていないからこそ、「信じること」が欠かせなくなります。「魂がある」とまず信じて、それから、魂について考えたり、修行して魂のありさまを説明したりするのです。

存在のありのままの状況を客観的に調べたブッダは、「魂という実体は成り立たない」と発見しました。しかし、命について理解しようとすると、物質の働きだけでは説明できないのです。身体も石も物質の塊ですが、身体の働きは石と比較するとずいぶん違います。物質とは異なる働きの世界をまとめて、「ナーマ」または「こころ」という用語で説法なさったのです。

こころと魂

ここで「他宗教が〈魂〉と呼ぶ概念も、仏教が〈こころ〉と呼ぶ存在も、同じものを指しているのではないか?」と反論することはできません。魂とは、変化せずに一貫して存在するエネルギーのことです。死後も変わらずに続くエネルギーです。ブッダは人のこころが瞬間瞬間変わることを発見したのです。世間的に「同じ人だ」と言っている場合も、赤ちゃんの時のこころ、子供の頃のこころ、若い時のこころ、中年のこころ、などなどは、決して同じではないのです。瞬間で変わるものを「魂」と定義することは不可能です。物質世界を見ても、こころの世界を探しても、変化しない現象は何一つとして見当たらないのです。すべての現象は無常です。したがって、魂という概念は邪見であり、魂とは存在しないものでもあると結論づけられます。ブッダの説法は、「魂の所在」ではなく、あくまで「こころのありさま」を説明する話になるのです。

こころの法則

物質の法則は、何ひとつとしてこころには当て嵌まらないのです。こころは計測することが不可能です。また、空間を占めないのです。物質は自然に劣化します(エントロピーが増大します)。こころの場合は、汚れる、清らかになる、強く働く、弱くなる、などの波があります。それから、こころは意図的に弱くすることも、強くすることも、汚すことも、清らかにすることも、そのまま流れるようにすることも、可能なのです。物質には自己管理できませんが、こころは自分で自分を管理するのです。こころは瞬間瞬間変わっていく性質なので、寿命が短いのです。瞬時に現れて、瞬時に消えます。瞬時に消えたら、また新たなこころが瞬時に現れます。生・滅・生・滅というパターンで活動するので、こころとは一定してあるものではなく、物質とまったく違った形のエネルギーの流れなのです。物質とこころには、一つだけ似ている性質があります。それは、「因縁によって成り立つ」ということです。ブッダが語る因果法則は、物質にもこころにも同じく当てはまります。「認識する」働きは、こころだけに限られた能力です。物質には物質を認識することができません。「対象を認識する働きがこころ」という定義もあるのです。

こころを研究するために、物理的な計測機械などは一切いりません。認識する働きがこころなので、こころにはこころを認識することが簡単にできますが、今の瞬間のこころは認識できません。こころは何らかの対象を認識します。そこで、瞬間前のこころを対象にして、認識するのです。こころを育てていない人々は、過去のことを認識するのです。時間が経過しているので、認識が正しいという保証はありません。子供の頃のことを思い出しても、過去の出来事を明確に、精密に、あったままに、起きたままに、認識しないのです。人の記憶力はそれほど信頼できるものではありません。こころを育てる人々は、「過去」という時間を瞬間前の時間になるまで縮めてみます。その場合の認識は、正確なのです。真理を発見して解脱に達するために、瞬間前のことを認識できるようになるまで能力を高めるのです。ブッダの瞑想とは、そのような訓練です。他宗教が語る瞑想では、神秘体験を期待するのです。

距離は無関係

物質の場合は、時空関係がかかわってきます。物質が移動する場合は、距離とスピードという条件に左右されます。物質が出せる最高速度は、光の速度だと言われています。こころは物質ではないので、自由に認識することができるのです。東京にいる人が京都へ行こうとしたら、時間がかかります。その時間は物質のスピードによっても変化します。しかし、東京にいる人には京都の何かを瞬時に思い出すこと、認識することが可能です。その場合、スピードは関係ないのです。京都のことを思い出してから、ニューヨークのことを思い出したとしましょう。ニューヨークは遠いからといって、思い出すのに時間はかかりません。

俗世間的に言えば、こころは色々なところを走り回っているのです。それは、瞬時に起こることです。京都のこと、さらにはニューヨークのことを思い出して、その認識を自分の幼稚園時代の経験と合体させようとすれば、瞬時にできるのです。混乱している人の場合、少々、時間がかかるかも知れません。混乱しているとは、こころが不特定多数のことを認識しながら、彷徨っている状態のことです。この性質を指して、お釈迦さまは「こころは遠くまで走りますよ(dūraṅgamaṃ)」と説くのです。「遠く」という単語を見ると、空間的な距離だと理解するでしょう。ここでは、時間的な距離として理解したほうが良いのです。一年前、十年前、五十年前の出来事でも、わたしたちは瞬時に思い出せます。

空間的な距離を認識することは、一般人には不可能です。東京にいて、いまの瞬間、ニューヨークのある場所で起こる出来事を認識することはできません。認識したと言っても、それは過去の出来事を思い出したに過ぎないのです。現代の人々は、機械と技術を開発してこのハンディを乗り越えようとしています。インターネット経由ならば、ニューヨークで起こっている出来事をライブで観察することも可能です。仏教では、空間的な距離も無視することが可能だと思っているのです。人が瞑想実践でサマーディの能力を育てて、天眼という神通を開発します。その人がサマーディ状態に入って天眼能力をオンにすれば、距離の制限を超えて出来事を直視することができるのです。その場合は画像だけです。音声も認識したければ、天耳という能力を開発する必要があります。「こころは遠くに行く」というブッダの言葉は、シンプルに理解したほうがよいのです。ごく一般的に、「こころはあちらこちらに走り回っている。場所も時間も関係なしに走り回っている。一つの対象に集中して認識する能力が無い」という意味で理解しましょう。

単独行動

こころは単独で行動します(ekacaraṃ)。「人とコミュニケーションを取っている。人の気持ちを理解している。人が考えることはよくわかっている」などなどは、実は成り立たないのです。こころは単独で現象を認識します。たとえ一緒にテレビを観ていても、別々に認識しているのです。相手が「面白かったね」と感想を述べて、自分も「そうですね。面白かった」と相づちを打つ。しかし、相手は自分の「面白い」という感情を認識していないし、自分も相手の「面白い」という感情を認識していないのです。自分の認識した感情を相手に被せているだけです。結局のところ、リアルなコミュニケーションは成り立っていないのです。一人ひとりが自分固有の世界を作って、認識作業を行なっているだけです。「人は自分固有の殻に閉じ籠もっている」と言われたら、怖くなりますかね? 寂しくなりますかね? 私たちは「人のことを知っている。世の中の出来事を知っている」という自分の主観の認識で、頑張ってはいるのです。しかし、生命は認識機能を持つ組織として見ると、皆、孤独な存在なのです。

他のこころを知る

他のこころを知るということは、論理的に成り立たない働きです。しかし、自分のこころの認識だけでは、何が事実か、何が正しいのか、わからなくなります。お釈迦さまは、こころの科学を説かれました。生命のこころはどのように働くのかと発見して、感情の数や、それぞれの感情がどのような原因と条件で起きるのかということも解明されました。その発見を学んで、すべての生命に共通したこころの働き方を理解するならば、他人のこころと考えなどを理解することができます。たとえば、「怒り」という感情がこころに起きるとします。それは、認識対象を拒否しようとした反応です。しかし、いったん認識したならば、それを拒否することも無くすこともできません。その結果として起こる感情に「怒り」と名づけます。その流れはどんな生命のこころにも共通して起きます。大人にも、子供にも、犬にも、猫にも起こります。怒りが生じるシステムは、すべての生命に同じなのです。仏教を学ぶ人々は、この法則を使って、こころの働きを勉強します。世間でいわれる「読心術」は迷信に過ぎません。たとえ「あの人は怒っている」と認識できても、その人が何を考えているのかまではわからないのです。知りたければ、「あんた、何を考えているの?」と、訊いてみるしかありません。こころは単独で認識行動するものです。生命は本来、孤独です。

形体が無い

こころは物質でも電磁波でもないので、形を持っていないのです。電磁波で成り立っている物質世界ならば、形・重量・スピード・空間などなどの計測できる現象があります。こころは物質と完全に異なった機能なのです。わかりやすく言えば、認識です。医学の研究者が身体のすべての細胞を調べても、こころを見つけることはできません。しかし、「こころなんかは無い」と、「人は純物質の塊である」と結論を下すこともできないのです。こころを見つけることはできないが、人が物事を認識していることは明確な事実です。こころの有無について現代人も研究していますが、仏教では既に、「こころには形体が無い(asarīraṃ)」と結論を出しているのです。

身体が住所

形がなくても、物理的な存在でなくても、認識作業するためには事務所が必要です。身体全体が、こころの事務所なのです。身体のどこを指しても、そこがこころの住所でもある、ということです。見る、聴く、嗅ぐ、味わう、感じるなどの働きは認識機能です。眼でものを見る時も、眼だけではなく複数の細胞組織が活動します。内蔵組織も、ふだん自覚しないが、少々調子が変わるとただちにその異変を認識するのです。身体の細胞は生きています。環境を認識しながら、物々交換したり、再生したり、衰えたりするのです。生きているとは、「こころが働いている」という意味になります。パーリ語では、身体にguhāという、とても古い単語が使われています。一般的な単語はkāyaです。経典の時代でも、guhāという単語の意味を忘れかけられていたのです。Guhāと言う場合、ふつうは洞窟を意味します。この偈では、「こころは洞窟(身体)に住んでいるのだ(guhāsayaṃ)」と説かれています。

育てられる

私たちには、身体を育てること、進化させることはできません。人間の形を取って生まれたら、身体の成長過程は決まっています。こころが身体を育てたいと思ったら、我々は何とか運動などをするのです。しかし、それにもリミットがあります。走る訓練をしても、走れる距離とスピードには制限があるのです。身体に消化できる物質にも、リミットがあります。他の生命にしても同じことです。犬猫などの生活を観察すると、いかに制限された範囲で生きているのか、ということがわかるでしょう。

しかし、こころは違います。こころならば、進化させることも、育てることも、浄化することも、強くすることも可能です。人間も基本的に、他の生き物と同じプログラムで生きているのです。死を避ける、子孫をつくる、子孫を育てる、老いて死ぬ。知識・技術などを身につけること、金を儲けること、権力・地位・名誉を求めることなどもありますが、それで人の生きるプログラムは他の生命より優れているとは言えません。皆、制限された範囲の中で生きています。一方、こころには物質のような制限がないのです。しかし、こころが物質に依存するならば、制限を破ることはできなくなります。

こころの成長

まず、動物と似通った感情で生きることを制御します。喜怒哀楽だけ求める生き方を超えようと試みるのです。存在欲、貪瞋痴は、すべての生命の先天的プログラムです。こころには、そのプログラムを超えることができます。殺生しない、怒らない、欲張らない、嫉妬しない、憎まない、怨みを抱かない、などを意図的に実践することができるのです。生存の決まりは弱肉強食ですが、それを破って、慈しみ、いたわりの気持ちを育てる。感情に負けないようにする。妄想に耽ることをやめて、客観的に物事を観察する。このようにして、既存のプログラムを乗り越えることができます。物質に成長は無いけれど、こころには成長があるのです。形状は人間でありながら、人間を超越することができるのです。

依存を破る

こころとは、ただ認識が回転するだけの働きです。この回転を停止することはできません。だから、こころは不安で怯えているのです。何かの物質に依存して、ひたすら認識作業を続けます。その物質が壊れていくと、別の物質に依存して認識を続けます。認識したからと言って、こころが獲得する結果にありがたいものは何ひとつもないのです。つねにエントロピーの法則で壊れていく物質を維持管理しようと無理をして、苦労するだけです。こころが限りなく回転することは無意味なことです。この無意味な回転に、ブッダは「輪廻」という用語を使っているのです。こころは自分自身の激しい変化で苦労しています。そのうえ、物質に依存しているから、物質の変化によっても悩み苦しみを感じるのです。いつでも、死の恐れを感じなくてはいけないのです。こころの先天的プログラムを破る人に、苦しみの循環を乗り越えることができるのです。要するに、解脱に達するのです。ブッダはこころの制御と成長を推薦します。

今回のポイント

  • 真理は二元論で語られます
  • こころは物質とは異なる存在です
  • 物質のエントロピー法則はこころに関係ありません
  • 成長はこころの管轄です
  • こころの成長で苦しみを乗り越えます